12年も前から映画化の話があったという天藤真原作のユーモア・ミステリを岡本喜八監督がようやく完成させた。原作者は既に亡く、念願の映画化といったところだが、悲壮感はまったくない。岡本監督らしい軽妙な味わいを持つコメディの快作に仕上がっている。俳優たちのクセのある演技合戦が楽しめるし、大いに笑わせてくれる。ミステリとしてはちょっと弱いところが気懸かりではあるが、まず満足できる作品になった。
紀州の山林王の老女・柳川とし子刀自(北林谷栄)を3人の若者が誘拐する。身代金は5,000万円。しかし、したたかなとし子刀自は逆に主導権を握る。隠れ家を柳川家の元女中頭・くら(樹木希林)の家に充て、身代金も「安すぎる」と怒って100億円(!)に上げさせる。県警本部長の井狩(緒形拳)はとし子刀自を生涯の恩人と敬愛しており、猛烈な捜査を開始する。とし子刀自の指示を受けた犯人側は地の利を生かして、警察の捜査をかわし、身代金受け取りに成功。とし子刀自も解放(?)されて自宅に戻る。話のポイントは100億円という途方もない金額と、誘拐された方が犯人たちを操るという2点にある。岡本監督はユーモアを絡めながら速いテンポで話を進め、飽きさせない。なによりぴったりの配役である北林谷栄をはじめ、俳優たちの演技が光っている。頑固でありながらどこかおかしい緒形拳、身代金受け渡しのヘリのパイロットを演じる本田博太郎、犯人たちよりもたくましい樹木希林、喜八映画常連の天本英世らがしっかりと脇を固め、犯人グループのリーダー風間トオルさえもが意外な好演を見せている。これはやっぱり監督の手腕なのだろう。
もっとも岡本監督らしいのは誘拐劇が終わった後にある、とし子刀自の意図が明らかにされる長い場面だ。「本当はおばあちゃんが指示したんでしょう」と詰め寄る井狩に対して、とし子刀自は語り始める。3人の子供を戦争で奪われ、さらに所有する広大な山林の大部分を税金で国に奪われようとしている。「お国って、私にとって何だったんだろう」という感慨がとし子刀自の行動の基になったのだった。この言葉を岡本監督は映画化する際に広げていったのだという。僕は喜八映画の熱心なファンではないが、この言葉の意味が軍隊経験もある岡本監督の作品に通底するものであることは分かる。何しろ「日本のいちばん長い日」を撮った監督なのである。表面にあからさまには出てこないが、反戦や国に対する不信感は半端じゃないのである。
岡本監督のユーモア・ミステリはテレビ映画の「幽霊列車」に続いて2作目となる。これは田中邦衛と浅茅陽子主演で赤川次郎の原作の映画化。テレビ朝日の土曜ワイド劇場の初期に放映され、話題を集めた。このころの土曜ワイド劇場は日本初のテレフィーチャーを歌い文句にしていただけあって、いくつか傑作もあった。単なる2時間ドラマとなった今とは違っていたのである。「幽霊列車」はその代表的な傑作の1本だった。だが、今回はユーモアの部分に不満はないものの、ミステリの部分が完璧とは言えない。犯人たちが人が通るにも苦労するような山奥にある身代金の受け渡し場所にどうやって犯行に使った車を運んだのか、金はどうやって運んだのか、ヘリがあんなに迷走飛行するだけの燃料を積めるのか−など細かい部分に疑問が残るのである。話のつなぎも荒い部分があった。きちんとしたミステリ映画が成立すること自体、日本映画では珍しいことではあるが、「大誘拐」もまたそれを打破できていないことが、ちょっぴり残念な点である。(1991年3月号)
【データ】1991年 2時間 配給:東宝
監督:岡本喜八 製作:岡本みね子 田中義巳 安藤甫 原作:天藤真 脚本:岡本喜八 撮影:岸本正広 音楽:佐藤勝
出演:北林谷栄 緒形拳 風間トオル 内田勝康 西川弘志 樹木希林 嶋田久作
ヤマトユキオ扮する服部半蔵がいい。その率いる軍団も含めて不気味な雰囲気がある。あまり強くないのが欠点ではあるが、何しろかっこいいから許してまうのだ(ふと先月の「バットマン」を思い出したあれも要するに忍者なのだな。夜陰に乗じるイメージも共通するじゃないか)。林海象監督が秘密兵器と誇るだけのことはあり、ヤマトユキオに関しては満足した。映画全体はというと、全然満足できない。超時空大活劇という惹句には?である。好きなタイプの映画なのだが、痛快さに欠けるのだ。脚本、演出ともそれほどうまくない。
と、ここまで書いてビデオで「男たちの挽歌II」を見た。あの傑作映画の続編で、前作で死んだマーク(チョウ・ユンファ)に双子の弟がいたという苦しい設定である。脚本も荒っぽく、1時間余りたってもちっとも面白くならない。だが、クライマックスの殴り込みシーンが凄い。マシンガン、手榴弾、果ては日本刀まで振り回して大アクションが展開されるのだ。スプラッタ映画真っ青の大量の血が流れ、死体の山が築かれていく。いわゆる香港ノワールの筋立ては、耐えて耐えて耐えぬいた後に怒りを爆発させるという日活アクションや東映やくざ映画を踏まえたものだが、アクションに関してはそれらを大きく上回っている。面白ければ、何やってもいいんだという考えが一貫しているのである。
「ジパング」に足りないのはそんな部分だろう。黄金の国ジパングを探して、地獄極楽丸(高島政宏)の一行と鉄砲お百合(安田成美)、服部半蔵、謎のイレズミ男(修健)が四つどもえの争いを演じるというプロットは悪くない。高島政宏は相変わらず器の大きい演技を見せるし、安田成美のきっぷのいいアネゴぶりも意外性を感じさせる。だが、売り物のワンカット50人斬りをはじめ殺陣がなっちゃいないのである。撮影の苦労はしのばれるものの、あれはただ斬ってるだけで工夫がまったくない。あんな出来に終わるくらいなら、カットを切り替えて撮った方が良かった。チャンバラ映画を標榜する割りにはその楽しさがない。殺陣には凄みがなくてはならない。あの勝新太郎の「座頭市」は脚本、構成に難はあったけれども、これに比べれば、うまい殺陣だったなとつくづく思う。
極楽丸たちはジパングの扉を開く黄金の剣(これは円卓の騎士」物語の“エクスカリバー”だ)を発見するが、服部半蔵軍団に奪われる。その争奪戦の間に軍団とお百合は空中に消失。イレズミ男の力で極楽丸たちもジパングにたどり着く。この造形が貧困だ。黄金の国のイメージからはほど遠く、なんか薄汚いセットである。ここには顔に金粉を塗り付けたジパングの王(平幹次郎)となぜか幽閉されているその妹(鰐渕晴子)、王の家来の兵士たちがいる。実は王の妹とイレズミ男は愛し合っており(年の差なんて…)、王はそれを妨害するために何度も男を殺していたのである。男はそのたびに生き返り、ジパングを目指していた。で、王様はお百合たちに「愛とはなんだ?」などと訊くのである。こいつは愛が分からないのだ。物語の中心にこういうチンプな言葉が出てくると、本当にがっかりしてしまう。気恥ずかしくてしょうがない。ロブ・ライナーの「恋人たちの予感」は上質のラプ・コメディだと思うのだが、同じ意味で駄目だった。“わたしたち友達。だからセックスしません”というコピーは日本の映画会社が勝手につけたものだろうと思っていたら、映画の中身も本当にそのままだからあきれてしまった。こういう直接的なものではなく、もっとうまい表現の仕方はないものか。こういうのを野暮と言うのだ。
「ジパング」はシリーズ化するという話もあるらしい。題材は良いのだから、今度はもう少し洗練された作りを目指してほしいものだ。(1990年2月号)
【データ】1990年 1時間59分 エクゼ=東京放送
監督:林海象 製作:堤康二 原作・脚本:林海象 栗田教行 撮影:田村正毅 美術:木村威夫 音楽:浦山秀彦 熊谷陽子
出演:高嶋政宏 安田成美 平幹二朗 鰐淵晴子 成田三樹夫 修健 ユキオ・ヤマト
昭和49年、徳間書店社長の徳間康快が大映の新社長に就任する際の記者会見で「井上靖の『敦煌』を映画化する」と発表したそうだから、“構想15年”というのはまんざら嘘ではない。もっとも、この時には映画化権もなく、資金もスタッフ、キャストなど何も決まっていず、単なる社長の希望に過ぎなかった。その後、幾多の紆余曲折を経て、製作費45億円をかけた日合作映画として「敦煌」は完成した。キネマ旬報にその過程が連載されていてとても面白いが、それは映画の出来とは何ら関係ない。果たして出来上がった作品は唖然とするほど、つまらなかった。こんなものを見せて金を取るのは、犯罪ではないかと思う。
1026年、主人公の趙行徳(佐藤浩市)が、ある日、宋の都で新興国・西夏の女と出会ったことから物語は始まる。女のたくましさと西夏の文字にひかれた行徳は、シルクロードに旅立つが、途中、西夏の外人部隊に捕らえられる。その中で戦闘を繰り返しながら、王族の娘と恋に落ち、西夏の文字を学び、そして戦火にさらされた敦煌の莫大な経典を必死に守りぬくのだ。もともと「敦煌」という小説は、この莫大な経典が洞窟の中から発見されたことにヒントを得て、原作者が偶像力を働かせて書いたもので、時代背景などは歴史に忠実であっても、物語自体はまったくのフィクションである。まあ、だから原作と離れて、スペクタクルに撤しても悪くはない。だが、スペクタクルを撮る才能のない監督が、それをやろうとすると目も当てられぬことになる。
映画の前半の戦闘シーンには、エキストラ10万人、馬4万頭、ラクダ5000頭が投入されたそうだが、佐藤純弥の演出にはまるで迫力がない。どの戦闘シーンもカメラはロングで全景を撮ってからアップに切り替えるという単一の方法で、工夫が何もない。僕は黒沢明の「乱」を思い浮かべてイライラした。「乱」はたしかこの映画の半分くらいの製作費だったと思うが、その疾走感、映像の密度は他に例を見ない素晴らしさだった。黒沢ならこの砂漠の中での戦闘をはるかにうまく撮っただろう。いや、黒沢でなくとも、例えばこの映画の監督候補に上がっていた深作欣二でもいい。香港のアクション映画の監督でもいいだろう。このだらしのないアクション−敵か味方かが判然としない撮り方、観客にいらだちを覚えさせるようなくだらない映像、貧困な演出を決してしない監督はたくさんいる。
このヘタな戦闘シーンに力を入れたがために、肝心のドラマの方が盛り上がりを欠く結果になってしまったのは、本当にお気の毒である。盛り上がりというのも適当ではないかもしれない。ここにはドラマと呼,ぶべきものは何もない。ストーリー・テリングが大ざっぱで映画のトーンは極めて単調、極めて退屈である。
壮大な失敗作という言い方がある。しかし、これは例えばコッポラの「地獄の黙示録」のような作品に対して用いるべき言葉であって、「敦煌」の場合は壮大さすら感じさせない単なる失敗作に過ぎない。徳間社長はこの映画を作るために、中国との友好や日本での中国映画の上映に大きな貢献をしてきた。それには敬意を表するけれど、その到達点がこの程度の作品であっては、あまりにも情けない。45億円の巨費は砂漠に吸い込まれる水のように、跡形もなく消えてしまった。大映は、また倒産するのではなかろうか。(1988年5月号)
【データ】1988年 2時間23分 配給:東宝
監督:佐藤純弥 製作総指揮:徳間康快 製作:武田敦 入江雄三 原作:井上靖 脚本:佐藤純弥 吉田剛 撮影:椎塚彰 音楽:佐藤勝
出演:西田敏行 佐藤浩市 三田佳子 新藤栄作 中川安奈 柄本明 原田大二郎 渡瀬恒彦 田村高広
多分つまらない映画だろうと思って見に行ったら、やっぱりつまらなかった。今年は既に「敦煌」という退屈の極致の映画を見ているから、この程度のつまらなさで腹は立たないが、2時間50分もの貴重な時間の浪費は惜しい。
原案はなんとジョゼ・ジョバンニである。ジョバンニは映画監督として以外に、「穴」「犬橇」「復讐の狼」など傑作冒険小説の書き手として知られている。だから、製作者が依頼して半年後に“できあがってきたものは「冒険者たち」のその後といった色合いが強いものだった。イタリアの男とフランスの女と、そして健さんの三人が主人公で、アラブの独立運動が出てくる冒険だった”(キネ句984号)。この映画の題名が当初、「砂の冒険者たち」だったのは、そのためである。そういう話だったら、どんなに良かったことか。冒険小説ファンの僕は、そう思う。
しかし、倉本聰がシナリオ化したものはパリ−ダカール・ラリーを中心に据えた、単なる男女の色恋模様にすぎなかった。アラブの独立運動はスケールが大きくなりすぎるとの理由からはずされた。われわれ冒険小説ファンは、たかだか1万3000キロのラリーを冒険とは認めない。冒険小説とは死からの帰還、あるいは男(女でもいい)の復権の物語なのだ。某映画のコピーにあった“冒険とは生きて帰ってくること”などは、とんでもない勘違いである。この時点で映画は冒険色を失った。だから題名も変えざるを得なかったのだろう。
それにしてもラリーにかかわる男女のドラマがなまぬるい。ある人気スター(大橋吾郎)がPRのため、ラリーに出場する。このスターを愛する女性歌手(桜田淳子)がレコード大賞も紅白歌合戦も投げ出して後を追う。高倉健が演じるのは、スターが参加したチームのサポート役である。映画の主役はラリーの主役ではないわけだ。健さんのかつての妻(いしだあゆみ)も現在の夫であるスペイン人の闘牛士とともにラリーに出場する(なんで闘牛士がラリーに出るのさ!)。そして健さんの友人でやはり、いしだあゆみとの結婚経験を持つフランス人(フィリップ・ルロア)も救助班としてラリーに参加…。ウーム、まるでリアリティのない設定と言わねばなるまい。いしだあゆみが奔放な女を演じるのも似合わない。
こうした人間関係を最初の30分で説明した後、ラリーはスタートする。そしてこの種の映画の常套手段として回想を織り混ぜながら、ラリーの模様を描いていく。この回想が駄目である。健さんは北海道出身で、いかにも倉本聰的な過去を引きずっているのだが、これがラリーとは何の関係もない。だからまあ、キャラクターにある程度の膨らみを持たせることはできても映画に深みは出てこない。回想は映画を間延びさせているだけなのである。ドラマの方もさっぱりで、ラリーの苛酷さが少しも伝わってこない。恐らく、倉本聰も監督の蔵原惟繕も冒険というものに対して理解がない。ラリーについても同様だろう。せっかくラリーを舞台としながら、つまらない人間ドラマを描こうとしたのに間違いがあった。高倉健自身が、「例えば『ローマの休日』のような豊かさを持った、作る側も見る側も幸せな感じになれるような映画にしたがったというのだから絶望的である。そういうことは別の題材で描けばいいのだ。(1988年6月号)
【データ】1988年 2時間54分 東宝=ニュー・センチュリー・プロデューサーズ
監督:蔵原惟繕 製作:岡田裕 脚本:倉本聰 撮影:佐藤利明 音楽:宇崎竜童 千野秀一
出演:高倉健 いしだあゆみ 桜田淳子 大橋吾郎 小林捻侍 宇崎竜童 加藤治子 宅間伸
前作の「帝都物語」はSFXが素晴らしく、見ごたえのある場面もいくつかあったのだが、なにせ話がつながらなかった。原作の4巻までを一気に映画化するというのが、まず無理な話なのだ。各場面のハイライトをつないだだけでは、映画として成立するわけがない。今回の「帝都大戦」の成功は話を二つに絞り込んだことにある。帝都破壊をたくらむ魔人・加藤保憲(嶋田久作)と霊能力者・中村雄昂(加藤昌也)、辰宮雪子(南果歩)の戦い、そして戦争を早く終わらせるために進められる秘密計画。この二つが絡まり合って、映画はまさにサイキック・ウォーズとして進行する。映画のタッチが重たくなりがちなのが難であり、見終わったあと、「エイリアン2」のように疲れたのだが、十分な満足感があった。超能力SFとして日本映画の中では最高の出来、と先月の「ガンヘッド」のノリで賛辞を送っておこう。
題名にしてからが平井和正「幻魔大戦」を思わせる。ここでの幻魔はもちろん加藤。空襲下の東京で甦った加藤は完璧な悪の権化となっている。呪文で超能力を発揮した前作とは異なり、兵士を空中でねじ切ったり、ジープを持ち上げたりとパワーアップ。簡単明瞭な話に合わせて、極めてけれんのある描き方がしてある。対する中村は天性の超能力を軍部が薬物によって増幅させたらしい。一度、超能力を使うと耳から血を流したり、吐いてしまうというのはスティーブン・キング「ファイアスターター」のようだ。雪子は東京の守護神・平将門の子孫。前作を見た人なら、この名前には記憶があるはずだ。今回の映画ではまったく触れていないが、加藤にさらわれた辰宮由香利の子供である(加藤は自分が由香利に生ませた子と理解していたが、前作のラストで雪子は辰宮洋一郎・由香利の兄妹を「お父さん、お母さん」と呼ぶ)。加藤と中村の超能力はテレキネシスだが、雪子のそれは主に祈りから発している。ラスト近くでテレポートするのも祈りによるものだ。
で、この映画のどこに感心したかというと、これが純然たる超能力SFである点だ。超能力者同士の戦いがテーマとなった映画は本当に珍しい。クローネンバーグの「スキャナーズ」ぐらいなのものである。ブライアン・デ・パーマの「キャリー」は超能力を持つ娘の暴走だったし、「フューリー」にもサイキック同士の戦いはなかった。ジョン・ハフの「ヘルハウス」は幽霊屋敷に立ち向かうサイキックを描いていたものの、ヘルハウスの謎に重点が置かれていた。「エスパイ」にはあったような気もするが、あれは超能力を題材にしたコメディの趣がある。日本映画で大まじめに超能力を描くのはこれが初めてではないか(アニメにはたくさんある)。
だから僕はこの映画に希少価値を見いだす。加藤と中村の二度にわたる対決はテレキネシスを駆使して見ごたえがあるし、最後の対決に備えて中村が死を恐れずに増幅機を使うなどというのはうれしい限りだ。あと、雪子の見る悪夢のシーンが秀逸だ。加藤の顔をした子供が3人出てくるという夢の造形自体は何でもないが、悪夢からさめたらまた悪夢という繰り返しがいい。これも例えばフィリップ・K・ディックあたりを参考にしたのではないかと思えるのだ。
これが監督デビューとなる一瀬隆重の演出は順当である。話のスケールは小さくなったものの、的はずれていない。原作の趣旨とは異なることにはなっても、この映画化の仕方は成功だった。ヘタなダイジェスト版よりは、はるかにいい。そして、当初予定されていたあの「孔雀王」のラン・ナイチョイが監督しなかったのも幸いであった。香港映画の場当たり的クライマックスは、この題材には似合わなかっただろうから。(1989年10月号)
【データ】1989年 1時間47分 配給:東宝
監督:一瀬隆重 製作総指揮:一瀬隆重 原作:荒俣宏 脚本:植岡喜晴 李美儀 撮影:安藤庄平 美術:正田俊一郎 音楽:上野耕路
出演:加藤昌也 南果歩 嶋田久作 丹波哲郎 日下武史 高橋長英 野沢直子 桂木文