ふたり

昨年秋のNHKでの放映を見ていたので、ある程度の予備知識はあったが、それでもこの映画は素晴らしいと思う。石田ひかりも中嶋朋子も久石譲の音楽もいつものように素晴らしく、「新・尾道三部作」の第一作と大林監督が銘打つだけのことはある出来だ。上映時間が2時間半もあるけれど、思春期の少女の心の揺れ動きをこれほどまでに描き尽くした作品はこれまでに日本映画では見たことがなく、「大林はやっぱり凄い」と改めて感じた。思えば「桜の園」などは、この映画のほんの一部分を拡大しただけのことなのである。

ストップモーションから始まり、ストップモーションで終わるこの映画はきれいな印象画のように心優しい。不運な事故で死んだ姉の千津子(中嶋朋子)の幽霊と妹の実加(石田ひかり)。その交流を実加の成長に合わせでじっくりと描いている。美人で頭がよくて優等生だった千津子に比べて、実加は愚図でのろまで心許ない。姉が花なら妹は草に過ぎないのだが、そんな「草の想い」を切々と綴り、妹が姉以上の存在であることを静かに語りかけてくる。年末の第九のコンサートで、姉が生前、ひそかに心を通い合わせた大学生・神永(尾美としのり)と実加は出会う。花火がいっぱい打ち上げられて、まるで夏のような光景の中で、実加は姉と間違われてしまうのだ。そして、それからゆっくりと恋が始まる。ピアノの発表会では、実加は姉に助けられて見事な演奏を披露する。雨が降る中で、神永は花束を持って実加を見守っている。クラス対抗リレーでも実加は千津子の励まして、力を振り絞る。これら諸々のエピソードが大林得意の合成を交えて、情感たっぷりに語られるのである。

大林宣彦の良さはロマンティシズムをいつまでも失っていないことだ。波長の合わない人にはセンチメンタリズム過多と取られかねないこのタッチは、失敗に終わる場合もあるが、今回は成功している。それは監督の思い入れの強さと技術が噛み合うようになったからだろう。「異人たちとの夏」で下町の人情と親子の情愛を完壁に描き、「北京的西瓜」で天安門事件という重要な歴史をフイルムに刻み込んで、大林は作風に幅が出てきたように思う。「異人たちとの夏」は名取裕子の場面が興ざめであることを差し引いても、うっとりするほどの傑作だ。すき焼き屋のシーンは何度見ても泣けてくる。

大林はこの2作を経て、大人の映画作家に移行することも容易だった。それなのに、こんな思春期の物語に帰ってきたということは、ファンとしてはまったく嬉しいことである。例えば、海の向こうのスピルバーグがアカデミー賞を取りたくて「カラー・パープル」(これはこれで良い映画だが)を撮ったのとは対極の在り方なのである。「半分大人の子供たちと、半分子供の大人たち」の両方に支持されるのが、大林の映画の在り方なのだと思う。

石田ひかりは「時をかける少女」の原田知世のように素敵だ。中嶋朋子の優等生役は当然すぎるが、昨年の「つぐみ」に続いて清楚な魅力を漂わせている(次回作はなんと「あさってDANCE」である。絶対見にいかねば)。すべての登場人物の中で唯一のミスキャストと思えるのが尾美としのりであって、この役はもっとハンサムな男優でないとシラけてしまう。ラストに流れる主題歌は監督自身が歌っているが、覚えやすいメロディーで久石譲の傑作のひとつではなかろうか。僕は尾道にこだわりつづけることは、必ずしも大林にとって得策ではないと考えるが、「ふたり」のような映画を見せられると次回作にも期待せずにはいられなくなる。(1991年7月号)

【データ】1991年 2時間30分 ギャラック=ピー・エス・シー=NHKエンタープライズ
監督:大林宣彦 製作:川島国良 大林恭子 田沼修二 原作:赤川次郎 脚本:桂千穂 撮影:長野重一 音楽:久石譲
出演:石田ひかり 中島朋子 富司純子 岸部一徳 尾美としのり 増田恵子 林泰文

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ゴースト ニューヨークの幻

GHOST

名曲「アンチェインド・メロディ」が一気に高鳴るクライマックスで場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてくる。デミ・ムーア、パトリック・スウェイジ主演の「ゴースト ニューヨークの幻」は極めてエモーショナルな高まりを持つ作品だ。印象はクラシック。幽霊になった男と恋人との古風な悲恋話をユーモアを交えながら情感たっぷりに描き、「ニューヨーク・ゴースト・ストーリー」とも言うべきファンタジーとなった。構成は単純で技術的なうまさもそれほどないが、涙を流し続けるムーアが美しく魅力的なために、まあいいやという気になってくる。「フィールド・オブ・ドリームス」「オールウェイズ」そして「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー2」と今年は優しい幽霊の当たり年のようだ。

監督のジェリー・ザッカーはジョークを寄せ集めただけの映画「ケンタッキー・フライド・ムービー」から出発した人。ジョン・ランディスがあの映画の後、飛躍的に伸びて傑作コメディを連発したのとは対照的に「フライングハイ」など同工異曲の映画を撮り続けた。80年代にアメリカのコメディが著しく低下したのは、この監督グループ(ZAZと略称される3兄弟)の作品と「ポリス・アカデミー」シリーズがヒットしたせいである。

今回の「ゴースト」が成功したのは、アメリカ映画(というよりハリウッド映画)の伝統的なシチュエーション・コメディやラブストーリーの定石を踏んでいるからにほかならない。ラブストーリーは愛する二人の間に障害がなければ、成立しないジャンルである。

「ある愛の詩」では女が白血病になり、「ある日どこかで」は時が二人を隔てた。障害の度合いが大きいほどドラマティックになる。「ゴースト」では男が死んで幽霊になってしまう。ずっと触れ合っていたいのに、女に男の姿は見えず、男が触れようと思っても突き抜けてしまう。映画はこの触れあうことができないという根本的な障害を発展させて物語を作り上げている。男がどうやって女に連絡を取り、どうやって危険から守るか。それがコメディになり、サスペンスになってくるわけだ。

だから、男が幽霊として当たり前の能力を身につけていく過程の丁寧な描き方に必然性がある。最初、戸惑っていた男はドアをすり抜けたり、物を動かすことができるようになる。男が殺されたのは、勤めている銀行の不正を見付けそうになったからで、その秘密を握ると思われた女にも危険が迫る。物を動かす能力(普通の人間から見れば、この現象はポルターガイストだ)は彼女を守りたい一心から生まれるのである。有り体に言えば、愛の力。そういうドラマを気恥ずかしくなく、ロマンティックに描いてあり、大変分かりやすい。オールディーズが目いっぱいドラマを盛り上げ、おまけにラストは光り輝くスウェイジとムーアのキス・シーンで締め括ってある。今どき珍しい大甘のラブストーリーだが、圧倒的な大衆性を備えているのだ。

コメディ・リリーフのウーピー・コールドバーグがケッサクである。いんちき霊媒師として生活しているのだが、「祖母と母は幽霊の声を聞いていた」という血筋の良さ(?)から二人の連絡係を強制的に務めさせられることになる。映画の成功の半分ぐらいはこの人のお陰だろう。そしてボス・フイルムが担当したSFXも地味だけれどもよくできている。悪人が死んだ時に現れる黒い影(死神)は何となく「ゴーストバスターズ」のSFXに似ていて笑ってしまった。(1990年11・12月合併号)

【データ】1990年 アメリカ 2時間7分
監督:ジェリー・ザッカー 製作:ハワード・W・コッチ 脚本:ブルース・ジョエル・ルービン 撮影:アダム・グリーンバーグ 音楽:モーリス・ジャール
出演:パトリック・スウェイジ デミ・ムーア ウーピー・ゴールドバーグ リック・アビルス トニー・ゴールドウィン

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ラスト・アクション・ヒーロー

LAST ACTION HERO

監督がジョン・マクティアナンだし、脚本に贔屓のシェーン・ブラック(「リーサル・ウェポン」「ラスト・ボーイスカウト」)が加わっているのであまり悪口は書きたくない。しかし、この映画の出来は目を覆うばかりだ。ここ数年のシュワルツェネッガー主演作の中ではサイテーではないだろうか。スタッフは一流、製作費も多額なのにどうしてこんな無残なことになったのか。

話は「ネバー・エンディング・ストーリー」と「ロジャー・ラビット」を組み合わせたようなファンタジー・アクションである。仲のよい映画館の主人から魔法のチケットをもらった少年(この子役に魅力がない)が、試写会で見ていた映画の中に入り込む。チケットはいわば異世界へのパスポー.トだったのである(このチケット、もともとはハリー・フーディニのものだったというのがもはや興ざめで、単なる奇術師にそんな魔力があるものかね)、上映されていた映画はシュワルツェネッガー主演のアクション。ジャック・スレイターというヒーローの刑事が活躍するシリーズの4作目である。少年が入り込んだのはこの物語の世界であって、ここのシュワルツエネッガーは俳優ではなく、あくまでスレイターとして存在する。映画「ターミネーター2」の主演はここではシルベスター・スタローンなのである。この設定は面白い。

個々のアクション場面に優れたものはあるが、残念なことにストーリーに起伏がなく、途中で飽きてしまう。演出も緩みっぱなしで、「ジュラシック・パーク」を意識したと思われる場面の下品さには頬がひきつる。マクティアナンはコメディの演出が得意ではないのだろう。ファミリー映画だから仕方がないのだが、少年を絡めたのも失敗の一因。シャロン・ストーンなど多数のカメオ出演のスター達のくすぐりも目ざわりなだけで、ロバート・アルトマン「ザ・プレイヤー」とは大きな違いだった。

何よりもいけないのは製作者たちがファンタジーを分かっていない、というかファンタジーを少しも信じていない点にある。後半、映画の中の悪人がチケットを使って現実の世界にやって来る。そこでやろうとしたのは映画世界のスレイターを消すために現実のシュワルツェネッガーを殺すことだ。「演じるシュワルツェネッガーがいなくなれば、スレイターもいなくなるから」というわけである。この論理はちょっとおかしい。チケットを使うことによって、「ドラキュラやキングコングを呼び出すこともできる」とか、「(既に死んだ)グレタ・ガルボに会える」とかのセリフがあるのに、俳優を殺せば映画の登場人物も消せるというのでは筋が通らない。だいたい「第七の封印」の死神役の俳優はまだ生きているのだろうか(生きているかもしれないけど)。俳優が死ぬたびに映画世界の登場人物がいなくなってしまうのなら、「風と共に去りぬ」の世界は消滅したのだろうか。なんという窮屈で夢のない話だろう。

要するにマクティアナンとブラックにファンタジーは向かないのである。やはり正統的なアクション映画を撮るべき人たちなのである。特にマクティアナンは前作「ザ・スタンド」に続いて、ミソをつけてしまった。捲土重来を期待しよう。(1993年10月号)

【データ】1993年 アメリカ 2時間11分
監督:ジョン・マクティアナン 製作総指揮:アーノルド・シュワルツェネッガー 製作:スティーブン・J・ロス 脚本:シェーン・ブラック デヴィッド・アーノット 撮影:ディーン・セムラー 音楽:マイケル・ケイメン
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー オースティン・オブライエン チャールズ・ダンス アンソニー・クイン F・マーリー・エイブラハムス アート・カーニー

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DREAMS

「乱」以来5年ぶりの黒澤明監督29番目の作品だ。「乱」の映像の迫力に感嘆したから、オムニバスと聞いてもある程度の期待を持たざるを得なかった。「夢」にはシンプルな主張が備わっている。語られる8話全体の通奏低音としてあるのは、機械文明の否定や自然保護である。後半の話はそれがストレートに出すぎたきらいがあるのだが、凡作スレスレの危ういところで何とかクリアしている。それは黒澤明が映像で語る監督だからだろう。映像に力があり、80歳の監督が撮ったとは思えないみずみずしさに満ちている。これは黒澤明にとって初の幻想的な作品集であり、僕には第8話「水車のある村」をのぞいてどれもこれも怖い話に思えた。「世にも怪奇な物語」(フェリー二の傑作「悪魔の首飾り」!)を思い出したほどだ。だが断片的なスケッチにもかかわらず、映像そのものの印象がきわめて鮮烈で、オムニバスとしては良い部類に入る出来だと思う。

なかでも素晴らしいのは自伝的な雰囲気を持つ第1話「日照り雨」と第2話「桃畑」である。「日照り雨」は少年が母親に禁じられた「狐の嫁入り」を見てしまう−というだけの話だが、うっそうとした森の雰囲気や狐の造形が日本映画の様式美を伝え、魅力的な世界を作りあげている。狐の動きは能の影響を受けた黒澤明らしい。少年が家に帰ると、母親が「狐はとても怒っていた。死ぬ気で謝ってきなさい」と家の門を閉ざす。少年は色鮮やかな花畑を通って、狐がいるという虹のかなたへ向かう。「桃畑」は雛祭りの日に少年が桃の精に出会う。桃の精たちは、人間たちが桃の木を切ったことを怒るが、少年がそれを悲しんだことを知ると、「もう一度、桃の盛りを」と踊りを見せてくれる。雛人形の扮装で踊る桃の精たちに、桃の花びらが雪のように舞い、大変きれいな場面だ。そして一瞬後、少年の回りには木の切り株しか残っていない。華やかさから無残さへの転化が見事である。

第3話「雪あらし」は雪女を描く。セットなのに、雪山の吹雪の描写は「八甲田山」をはるかに凌ぐ迫力だ。ここまでが日本の昔話に材を取った話であるのに対して、以後は主義主張色を強める。8話のなかで最も怖い第4話「トンネル」は終戦後、捕虜生活から復員してきた主人公(寺尾聰)が田舎のトンネルを通り過ぎたところで、玉砕した部下の亡霊たちに出会う。トンネルの中の真の暗やみ、主人公に向かって吠え続ける軍用犬、ザクッザクッという兵士たちの靴音が不気味だ。小隊でただ一人生き残った主人公は亡霊たちに「頼む、帰って静かに眠ってくれ」と哀願する。不気味さとともに、戦争の悲惨さが浮き彫りにされ、反戦の強い意志が漲っている。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵の中を主人公がさすらう第5話「鴉」を軽いインターミッションとして「夢」は反原発、反核を訴えていく。原発が爆発して富士山が赤く燃え上がり、放射能によって人々が死に絶える第6話「赤富士」。核戦争後の世界を地獄絵図そのままに描いた第7話「鬼哭」。悪夢から一転して最終話「水車のある村」では電気もガスも車もない理想的な生活としての田舎の村が紹介される。第6話から最終話にいたる物語の流れと機械文明否定のテーマは「風の谷のナウシカ」を想起させた。

黒澤明は日本の監督のなかでは最も映像の何たるかが分かっている人である。その技術はいまも少しも衰えていない。ただ、幼児期の無邪気な夢に比べて、大人のそれは現実的すぎる。繰り広げられる画面の見事さには感心したが、もっと自由に想像の翼をはぱたかせてほしかったという思いも残った。早くも製作が決まった次作に期待しよう。(1990年6月号)

【データ】1990年 2時間 黒沢プロ
監督・脚本:黒沢明 撮影:斎藤孝雄 上田正治 美術:村木与四郎 桜木晶 音楽:池辺晋一郎 製作:黒沢久雄 井上芳夫
出演:寺尾聰 倍賞美津子 原田美枝子 いかりや長介 マーティン・スコセッシ 笠智衆 伊崎充則

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ロボコップ2

ROBOCOP2

アーヴィン・カーシュナーの映画は「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」も「ネバーセイ・ネバーアゲイン」も好きである。なかなかダイナミックな演出をする監督なのだ。小粒な「アイズ」だって嫌いではない。だからこの「ロボコップ」の続編もそれ相応の期待を持って見たのだが、ポール・バーホーベンの傑作の後ではいかにも分が悪かった。見どころはいくつかあるが、何というか、凡庸な続編になってしまった。

異例に長い予告編ではロポコップとロポコップ2との対決が主になっていて、「子供向けなのでは」と心配したが、そんなことはなかった。前作にあった残酷さにも引けを取ってはいない。ショッキングなのはロポコップが麻薬組織によってバラバラにされるくだリである。鎖で台に固定され、ハンマーをゴツン、ゴツンと打ちつけられて足を外され、腕をもぎ取られて無理やり分解されていく。ここは前作で警官マーフィーが右腕を撃ち飛ばされ、防弾チョッキの上からさんざん弾丸を浴びる場面に呼応する。思えば、カーシュナーは「帝国の逆襲」でもC-3POをバラバラにしたのだが、あの時はむしろユーモラスにさえ感じられたのに、この映画の場合はひたすら悲惨だ。同じロボットでも(というか、サイボーグなんだけど)ロポコップは人間の顔をしているだけに、苦痛の表情は見るに忍びない。こういう残酷さがアメリカでの否定的な評価につながっているのではないか。

続編の作りとしては、主人公より強い相手を出すというのは常套的である。例えば「スーパーマンII冒険編」ではスーパー3悪人を出して、メトロポリスでの対決を大きなクライマックスとした。この映画でオムニ社が新たに作るロポコップの2号機は、ロボコップより巨大で強力でまったくの機械であり、まるでターミネーターだ。全身がメタリックなので、その動きは、ほとんどアニメーションによって処理されている。この2号機の材料にされるのが、麻薬組織のボスであるケイン(トム・ヌーナン)。精神的に強い者でなければ、ロポコップとしての負担に耐えられない−というのがその理由なのだが、無茶苦茶である。人間であった時の記憶が残るのはマーフィーの例で分かっているのだから2号機が暴走するのは当然予期できたはずだ。しかし、開発に当たった美人の心理学者ファックス(ベリンダ・バウアー)にはその認識がなかった。ファックスは昇進するためにはどんなことでもする女で、悪役としては魅力的である。

2号機が後半になってからしか登場しないのはちょっと惜しい。前半は新麻薬ヌーク扱う組織とロポコップの対決やデトロイト市の乗っ取りを図るオムニ社、マーフィーのしんみりした描写(あっさりしているけれどもね)などに費やされる。別に悪くはないのだが、いろいろと盛り込み過ぎたことで前作にあった人間味のある描写の余裕がなくなってしまった。前作でのバーホーベンのタッチは重々しく、映画に厚みを与えていたが、カーシュナーは無難にまとめてはいるものの、深みには欠けるようだ。サイバーパンクとも形容されたデトロイトの雰囲気、ブラックなテレビCMも今回は少し違和感があった。前作と同じようで、どこか違うのである。監督の資質の違いがそのまま画面に表れているわけだ。

前作で瀕死の重傷を負ったルイス(ナンシー・アレン)は見せ場が少なく、ロボコップ役のピーター・ウェラーも素顔の場面があまリなかった。パート3を作るのなら、そのあたりも考慮してほしいところだ。(1990年8月号)

【データ】1990年 アメリカ 1時間56分
監督:アービン・カーシュナー 製作総指揮:パトリック・クロウリー 製作:ジョン・デイビソン 原作・脚本:フランク・ミラー 脚本:ウォロン・グリー 撮影:マーク・アーウィン 音楽:レナード・ローゼンマン
出演:ピーター・ウェラー ナンシー・アレン ダン・オハーリー トム・ヌーナン ベリンダ・バウアー

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