愛と哀しみの旅路

COME SEE THE PARADISE

戦争中に強制キャンプに収容された日系アメリカ人たちを取り上げた社会派の映画かと思ったら、ラブストーリーの方に重点が置かれていて肩すかしをくった感じだ。「ミッドナイト・エクスプレス」や「ミシシッピー・バーニング」のアラン・パーカー監督作品としては物足りず、平凡な水準にとどまっていると言わねばならない。日系人の差別を描いたから、アカデミー賞でも無視されたのではと推測したが、この程度の出来では無視されて当然だった。

日系二世の娘リリー・カワムラ(タムリン・トミタ)と組合活動でニューヨークからロサンゼルスに流れ着いた男ジャック(デニス・クエイド)の出会いから結婚までに前半の1時間余りが費やされ、後半にようやく有名なマンザナール収容所が登場する。わずか6日間の準備期間の後に日系人たちが収容されたのは競馬場、そして2ヵ月後に砂漠の中にあるこの収容所へと移されるのだ。ここでの描写が、かなりおざなりである。カワムラ家の父親は映画館を経営していたが、FBIに内通していたとされ、収容所では日系人から冷たい仕打ちを受ける。息子の一人はアメリカのやり方に反発を感じ、天皇バンザイの国粋主義者となって日本に強制送還され、もう一人はアメリカの軍隊に入って戦死する。市民権のない母親は収容所の仕事をすることも許されない。このようにカワムラ家の悲惨は十分に描かれるが、収容所全体の様子があまり見えてこない。ここで日系人たちがどのような生活を送ったのかが、よく分からないのである。

そこが弱い。アラン・パーカーは日系人の差別など描くつもりはなかったのだろう。最初から差別を描きたかったならぱ、デニス・クエイドなど登場させなくても良かったはずである。クエイドの役割は、要するにアメリカの免罪符のようなものである。強制収容は確かに良くなかったが、すべてのアメリカ人が悪かったわけではない。クエイドのように日系人に味方したアメリカ人もいた…。その程度の意味しか持っていない。だが、笑止ではないか。強制収容の在り方は基本的にナチス・ドイツがやったユダヤ人の虐殺と変わりはない。巨悪の前では小さな善など、ほとんど意味がないのである。日系人の強制収容はここでは物語の背景でしかありえず、こんなレベルで差別がどうこう言うのはやめにしたいものである。

今年のアカデミー賞では、日系人監督の同じ題材を扱った作品「待ちわびる日々」がちゃんと短編ドキュメンタリー部門で受賞している。アメリカは差別の国(日本もそうである)だが、きちんと仕上がった作品に対しては評価を与えるだけの良識もまた持ち合わせている。それを認識せず、貴重な題材を(恐らく商業的な側面を考えて)つまらないラブストーリーにしかしなかったアラン・パーカーの愚かさは救いがたい。

出演者は頑張っている。タムリン・トミタは国辱的な「ベスト・キッド2」のころよりずっと色気が出てきたし、クエイドもそれほど演じどころのない役柄だが、好感が持てる。カワムラ一家の人々も日本語があまりうまくないのを除けば、いかにも当時の日系人らしい味を出していると思う。陰影に富んだ撮影と全編に日本の歌を多用したところもいい。映画の細部は決して悪くないのである。それだけに総体として、こんな風にしか映画化できなかったパーカーに対して腹が立ってしようがない。本当に、いったい何が描きたかったのだろうか。(1991年5月号)

1990年 アメリカ 2時間13分
監督:アラン・パーカー 製作:ロバート・F・コールズベリー 脚本:アラン・パーカー 撮影:マイケル・セラシン 音楽:ランディ・エデルマン
出演:デニス・クエイド タムリン・トミタ サブ・シモ シズコ・ホシノ スタン・エギ ロナルド・ヤマモト アケミ・ニシノ

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サマーストーリー

A SUMMER STORY

「私を見つけに来たのね」
 「そう…。君を見つけに」
 そう言ってフランクとメグは出会って3日目に結ばれる。フランクはロンドンから旅行に来た若い弁護士。メグはダートムア地方の村に住む農家の美しい娘。二人は出会った瞬間から恋心を募らせる。しかし結婚まで考えた二人に待っていたのは、悲劇的な結末だった…。ピアス・ハガード監督の「サマーストーリー」は甘く激しい夏の日の恋を描きながら、とても奥の深い厳しい描写に満ちている。単なるラブストーリーか青春映画だろうと思って見に行ったら途中から襟を正して見ることになり、ラストのエピソードに至って粛然とした気持ちにさせられた。珠玉という言葉がふさわしい名品である。

小さな田舎の村で暮らしていたメグにとって、都会から来たフランクは自分を狭い世界から連れ出してくれる存在に見えたことだろう。フランクにしてもメグに対する愛情に偽りはなかった。悲劇の始まりはメグの伯母が二人の感情を真剣なものとは認めず(あるいはお互い結婚できる立場にないとの判断から)、フランクを家から追い出そうとしたことだ。今世紀初めのイギリスでは都会の弁護士と田舎の娘との間にはかなり身分の差があったにちがいない。伯母は好意でしたことなのだ。二人は一緒にロンドンに逃げることを決意する。フランクが町の銀行で小切手を換金して、隣村で落ち合う計画。しかし銀行は旅行者のフランクをなかなか信用せず、換金できた時には間一髪の差で、列車が出ていった後だった。

しかも、学生時代の友人に出会ったことで、フランクの心は揺らぎ始める。「白馬に乗った王子様のように、彼女を救うつもりか」。友人の妹ステラの好意もそれに拍車をかけた。結婚は人の一生を左右する重大な問題だ。フランクは遂に列車には乗らず、待ちくたぴれたメグが町にやって来た時にも物陰に身を隠してしまう。ここの鏡を使った処理が効果的だ。浜辺でメグを見つけたフランクはこっそりと跡をついていく。声をかければ、メグとおそらく結婚することになる。決めかねないまま路地に入っていくと、メグが立ち止まる。振り返った時にちょうど鏡を積んだ馬車が通りかかる。メグがフランクを見かけたと思った瞬間に鏡がピカッと反射。目を開けた時にはフランクの姿は消えているのだ。一瞬の幻影。メグはそう思うことになる。

メグを十分に愛していながら、思わず隠れてしまったフランクのアンヴィバレンツな気持ちはよく分かる。まだ若すぎるのだ。それなのに人生を決めてしまっていいのか。メグが振り返ろうとしなければ、フランクはどこかで声をかけていたかもしれない。決心がつく前にそれが起きてしまったから、隠れざるをえなかったのだ。だから、フランクを女をもて遊んだだけの優柔不断なひどい男と決めつけてしまうのはかわいそうである。

映画は20年ぶりに村を訪れたフランクの回想として始まる。そして回想が終わった後で厳しい現実をつきつけてくる。謝罪か、青春の甘い思い出にひたるつもりかのどちらか自分でも分からないまま村に来たフランクにとって、それは衝撃的すぎることだったに違いない。

ハガード監督は以前にピーター・セラーズの「天才悪魔フー・マンチュー」を撮ったということだが、これはあのスラップスティックとは似ても似つかない文学的な香り高い作品である。原作はジョン・ゴールズワージーの「林檎の樹」。簡単な題名とは裏腹に深い含蓄が溢れる。あまりの素晴らしさに見終わった後、呆然としてしまった。(1989年10月号)

【データ】1988年 イギリス 1時間37分
監督:ピアス・ハガード 製作:ダントン・リスナー 原作:ジョン・ゴールズワージー 脚本:ペネロープ・モーティマー 撮影:ケネス・マクミラン 音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジェームズ・ウィルビー イモジェン・スタッブス スザンナ・ヨーク

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007 消されたライセンス

LICENCE TO KILL

007シリーズを必ず劇場で見るようになったのは「死ぬのは奴らだ」(1979)から。つまり、ロジャー・ムーアがボンドを演じるようになってからだ。けっこう好きなシリーズなのだが、どうも「ユア・アイズ・オンリー」(1981)あたりから印象が薄くなってきた。見ている間は楽しめるのだけれど、劇場を出た後に、筋をすっかり忘れてしまう。覚えているのは大がかりなアクションだけで、「オクトパシー」(1983)と「美しき獲物たち」(1985)などはかなり混ざっている。ティモシー・ダルトンが4代目のポンドとして登場した前作の「リビング・デイライツ」(1987)にしてもそれほど映画の作りが変わったとは思えなかった。ところが、ですね。シリーズ16作目の今回は面白かった。ここ数作の中では最も楽しめた。

何しろ、ボンドの相手役のキャリー・ロウェルが抜群なのだ。DEA(麻薬捜査局)の捜査官としてアクションも十分にこなすアクティブなヒロインである。きれいでグラマーだけど、足手まといにしかならなかった今までのボンドガールとは異なり、何度もボンドの危機を救う。飛行機の操縦から銃火器の取り扱いまで男に引けを取らず、しかも色っぽいというのが非常によろしい。

設定も変わっている。結婚したばかりの親友フェリックスとデラ夫婦が麻薬王サンチェスに襲われ、デラは死亡、フェリックスも重傷を負う。ボンドはその個人的な復讐のために任務を忘れ、殺しの許可証をMから取リ上げられることになる。だから今回のボンドの活躍は世のため人のため女王陛下のためではなく、個人の強い意志によるもの。アクションの切れ味がよくなり、残酷さが若干増したのはそのせいかもしれない。敵役に麻薬王を持ってきたのも、コロンビアのメデジン・カルテルが話題になっている折から、結果的にタイムリーなものとなっている。

毎度おなじみの大型アクションの中ではクライマックスのタンクローリーの追跡シーンが圧巻である。「レイダース」を思わせるボンドのタンクローリー乗っとり、カーチェイス、爆発炎上と息つく暇がない。ミサイルを避けるために片側車輪走行までやってしまう。あんなの初めて見た。元アクション監督でこのシリーズ4作目の監督となるジョン・グレンの演出も手なれたものになってきた。

ただ、ライセンスがないのにポンドの行動に何ら制約がないのはおかしいのではないか。ボンドはいつも通りの活躍を見せ、ちゃんとQの秘密兵器まで登場する。基本的な設定がまったく生かされていないのだ。麻薬組織に潜入したボンドがサンチェスからほとんど疑われないのも不自然である。組織の分裂を図るボンドの作戦も単純すぎるきらいがある。

まあ、こうしたご都合主義は今に始まったことではないし、このシリーズはファンタジーであり、ボンドはスーパー・ヒーローなのだから目くじらを立てても仕様がない。何よりもジョン・グレンが監督になって以来、アクションに大きな比重が置かれ、プロットは場面をつなぐだけの役割にとどまるようになった。エモーショナルな部分は型通りの描写に過ぎないが、それでも面白いのだからいいのだろう。アメリカでは「バットマン」と「リーサル・ウェポン2」に敗れて、興行的にいま一歩だったらしい。お盆か正月かに決まっていた公開時期を秋にしたのだから、日本ではヒットしてほしいものだ。もう公開前にワクワクする気分はなくなったが、終わらせるには惜しいシリーズだと思う。(1989年10月号)

【データ】1989年 イギリス 2時間13分
監督:ジョン・グレン 製作:アルバート・R・ブロッコリ 製作・脚本:マイケル・G・ウィルソン 原作:イアン・フレミング 脚本:リチャード・メイボーム 撮影:アレック・ミルズ 音楽:マイケル・ケイメン
出演:ティモシー・ダルトン キャリー・ローウェル ロバート・ダヴィ タリサ・ソト アンソニー・ザーブ ベニチオ・デル・トロ

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浪人街

マキノ正博(現雅広)監督が昭和3年、20歳の時に作った「浪人街/第1話・美しき獲物」はキネマ旬報の1位にランクされている。この年、マキノ監督の映画は「崇禅寺馬場」「蹴合鶏」の合わせて3本がベストテン内に入っており、翌4年「首の座」で1位に輝いた。20歳そこそこで、こうした高い評価を得るのは前代未聞のことではないか。その「浪人街」はもちろんサイレント。プレスシートによると、“江戸末期の浅草裏界隈を生きるアナーキーな浪人たちの人間模様をリアルに描いた"ということだが、完全なフイルムが残っていず、現在では見る ことができない。映画評論家の白井佳夫は「時代劇の革新的ニューシネマだった」と書いている。クライマックスの大立ち回りをメーンにした痛快作だったようだ。

さて、「日本映画の父・牧野省三追悼60周年記念作品」と銘打たれた黒木和雄監督版の「浪人街」はマキノ作品を基にはしているものの、単純な娯楽作とはなっていない。いや、マキノ作品もまた当時の不況を反映した要素があり、深い含蓄もあったとされているのだけれども、少なくとも登場人物たちの造形は娯楽映画のそれを踏襲していたに違いない(と思う)。黒木版の登場人物たちは単純な正義の味方ではない。四人の浪人たちは誰一人正義のために立ち上がるわけではなく、自分の利益のために動くのである。彼らはさまざまなエクスキューズを持っている。仕官のためには仲間を裏切るし、金にならないことはしようとしない。元の作品はとりあえず勧善懲悪として収斂していったはずで、このリメイクも結果的にはそうなるのだが、それに至るまでに、かなり揺れ動くのである。娯楽作 と非娯楽作の間の揺れ動き、と言えぱいいのだろうか。「龍馬暗殺」の黒木和雄らしい性格設定である。

だが、こちらが感動するのは、やはり悪徳旗本120人に敢然と立ち向かう浪人たちの姿なのである。子恋いの森で旗本たちに中裂きの刑に処せられるお新(樋口可南子)を助けるために、十五両で命を買われた元恋人の荒牧源内(原田芳雄)がまず立ち上がり、お新に思いを寄せる母衣権兵衛(石橋蓮司)が白装束で駆け付ける。そして仕官のために必要な百両をやっと用意したにもかかわらず、土居孫左衛門(田中邦衛)も鎧に身を包み、馬にまたがって助けに向かうのだ。ラスト17分間にわたって線り広げられる殺陣は、決して際立ってはいない。むしろ、ヘタな部類に属するのだが、それまでの過程があるだけに熱い情動に突き動かされる。絡局、この場面で映画はさまざまなエクスキューズを切り捨て、単純な娯楽映画へと突き進むのである。

黒木和雄は「祭りの準備」や「夕暮れまで」と同じように赤い色を画面にちりばめる。代表されるのは彼岸花だが、その赤の色にどんな意味を持たせようと、あるいはどんなに意味がなかろうと、元の物語の力強さは新たな設定をすべて蹴散らしてしまう。ストーリーを停滞させるエピソードなど無用である。この映画にもっとスピード感があれば、と本当に残念に思わずにはいられない。まったく昔の時代劇調のタイトル文字にしたのだから、内容も徹底してエンタテインメントを追求した方が良かったのではないか。もっとも、それをやってしまったら、黒木和雄が時代劇を撮る意味がなくなってしまうのである。キネ句2月下旬号によれば、黒木和雄は「連帯を求めて孤立を恐れず」という全共闘のモチーフをこの作品に込めたのだという。連帯を求めたためかどうかは知らないが、浪人たちの姿は確かに孤立を恐れてはいなかった。

出演者は総じて良い。特に一膳飯屋「まる太」の主人を演じる水島道太郎の温かみは紋切り型ではあるけれども、人情時代劇っぽくて好きである。(1990年9月号)

【データ】1990年 1時間58分 山田洋行ライトヴィジョン=松竹=日本テレビ
監督:黒木和雄 原作:山上伊太郎 脚本:笠原和夫 撮影:高岩仁 音楽:松村禎三
出演:原田芳雄 石橋連司 樋口可南子 勝新太郎 田中邦衛 杉田かおる 伊佐山ひろ子 中尾彬 水島道太郎 佐藤慶 長門裕之

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ダイ・ハード2

DIE HARD 2

ドン、ドン、ドーンと「リーサル・ウェポン2」と同じような感じでタイトルが出て、映画は一気に大がかりなアクションの世界に入っていく。舞台は吹雪に見舞われたワシントンDCのダレス国際空港。前作と同じクリスマス・イブに主人公ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)が大規模なアクションを展開してくれる。アメリカで大ヒットし、“前作をはるかに上回る傑作”との評判を聞いて期待が大きかったのだが、結論から言えば、その期待は裏切られた。前作はアクション映画というジャンルを大きく超えた“10年に1本の傑作”と僕は思う。今回のは“ジャンル内での傑作”にすぎないのである。

今回、マクレーンが対するのは、空港の管制設備を乗っ取ったテロリスト集団。空港の誘導灯は消え、飛行機との交信もできなくなり、空港機能は完全にマヒしてしまう。一味の狙いは、ワシントンDCへ飛行機で護送される南米の麻薬玉エスペランザ将軍(フランコ・ネロ)の身柄引き渡しにあった。クリスマス休暇でやってくる妻ホリー(ボニー・ベデリア)を迎えにきたマクレーンは事件に巻き込まれ、頭の硬い空港警察と対立しながら、再び孤軍奮闘の戦いを強いられることになる…。一番大きな不満は脚本にある。伏線が張リ巡らされ、モザイク模様のように綴密な完成度を見せた前作とは異なり、大雑把なのである。伏線も少なく、感心したのは、○○と思っていた△△が実は☆☆だったというアリステア・マクリーンの小説によく出てくるような仕掛けだけだった。ストーリー上のアイデアが足りない。マクレーンと黒人警官、妻との間にあったヒューマンな描写もない。スティーブン・E・デ・スーザが今回も脚本に加わっているけれども、出来には大きな差があり、前作がいかに奇跡的によくできた脚本だったかを痛感させられた。

それぞれのアクション場面に関しては良くできていると言っていいだろう。始まって間もなく、不審な男たちを見付けたマクレーンが荷物室で線り広げる攻防があり、続いて建設途中の補助通信施設内での銃撃戦、飛行機の爆発炎上、着陸してきた将軍の飛行機を巡る争い、一味のアジト周辺でのスノー・モービル追撃シーンと見せ場が連続する。そのどれもが水準を超えている。特にコックピットに閉じ込められたマクレーンが次々に投げ込まれる手榴弾からどう脱出するかは興味深かった。でも、あまり心がときめかないのだ。

フムフムと大がかりなスペクタクルに納得しながらも、気分が高まっていかない。例えば、前作でマクレーンが消防ホースを体に巻き付けてビルの屋上から飛び降りるシーンを思い出せば良い。この場面は前作でも屈指のシーンだった。マクレーンが仕掛けられた爆弾を発見→テロリストの一人との死闘→人質を階下に降ろすために屋上で空に向かってマシンガンを乱射→FBIのヘリがマクレーンを銃撃→飛び降りるマクレーン→屋上とヘリの爆発→窓ガラスを割って中に飛び込む→さらにホースの付け根が外れ、引きずられて落ちそうになる−とダメ押し的な展開だった。今回はそれぞれのシーンが割りと簡単にカタがついて緊密に結びついていかない。それはやはり脚本の弱さからくることなのである。

「エルム街の悪夢4」(ケッ!)のレニー・ハーリン監督は各シーンをうまくまとめているけれども、ジョン・マクテイアナンのメリハリのある演出にはかなわなかった(余談だが、前作のビデオには本編終了後に「エルム街…」の予告編が入っている。何かの因縁だろうか)。「なんで俺だけが、こんな目に…」とボヤきながら活躍するブルース・ウィリスは笑えるが、007シリーズのようにならないためにも、当然作られるであろう第3作ではもっとキャラクター描写に力を入れてほしいものだ。ま、シリーズものでそれが不足してくるのは仕方がない面もあるんですけれどもね。(1990年9月号)

【データ】1990年 アメリカ 2時間4分
監督:レニー・ハーリン 製作総指揮:ロイド・レヴィン マイケル・レヴィー 製作:ローレンス・ゴードン ジョエル・シルバー チャールズ・ゴードン 原作:ウォルター・ウェンジャー 脚本:ダグ・リチャードソン スティーブン・E・デ・スーザ 撮影:オリバー・ウッド 音楽:マイケル・ケイメン
出演:ブルース・ウィリス ボニー・ベデリア ビル・サドラー ジョン・エイモス フランコ・ネロ アート・エバンス

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