2007年観賞映画の最近のブログ記事

「エイリアンズ VS. プレデター」パンフレット「 なぜエイリアンだけ複数形なのかと思ったら、地球で繁殖したエイリアン退治をするのが一人のプレデターなのだった。前作同様、B級の企画をB級のストーリーとB級のキャストで描くという、どこを切ってもB級の映画。前作には「エイリアン2」のアンドロイド役ランス・ヘンリクセンが出ていてまだシリーズとのわずかなつながりが見られたが、今回はまるっきり無名キャストだし、話のつながりも皆無だ。要するにエイリアンとプレデターを戦わせるだけの映画。

プレデターの宇宙船の中でエイリアンが繁殖し、宇宙船はアメリカのガニソン郡の森の中に不時着する。近くに来た親子をエイリアンの幼虫(フェイス・ハガーと言う)が襲い、顔に張り付く。当然のことながら親子の腹を突き破って幼虫が出てくる。一方、プレデターの故郷の星では宇宙船に異変が起こったことを知り、一人のプレデターが地球にやってくる。エイリアンとそれを追うプレデターによって町の人々は次々に虐殺されていく。

というのがプロット。プレデターの腹を突き破って出て来たエイリアンはプレデリアンと言うらしいが、別に双方の特徴を持っているだけでSF的なアイデアの発展はない。決着の付け方も乱暴。長男は「『バイオハザード2』のパクリじゃないの」と言った。まあ、そんなところです。出てくる俳優たちも今ひとつ魅力に欠ける。一人ぐらいベテラン俳優を出しておけば、話も引き締まったのではないかと思う。というか、B級俳優でもいいから、話をもっと工夫していれば、もう少し面白い映画になっていただろう。

企画段階で「これぐらいのストーリーでいいよね」「いいんじゃないの」といういい加減さがあったのではないかと思える映画である。監督はこれが長編映画デビューのグレッグ&コリン・ストラウス兄弟。

「題名のない子守唄」パンフレット ジュゼッペ・トルナトーレが描きたかったのは終盤の展開なのだろう。ここを描くのが中心なら、もう少し効果的な手法があると思う。無理にサスペンス調にする必要はなかったし、ヒッチコックをまねたタッチ(ヒロインが使うのはハサミだし、舞台はらせん階段のあるマンションだ)が目立ちすぎるのは大きなマイナスだ。エンニオ・モリコーネの音楽もヒッチコック映画でおなじみのバーナード・ハーマン調だから、余計にそう感じる。

序盤からヒロインが何のためにある家族に接近しようとしているのかまったく説明されないのはサスペンス映画として悪くはないのだけれど、この部分を引っ張りすぎている。ヒッチコックならこんなに長く謎を謎のままにはしていないだろう。あまり長いと、途中で飽きてくる。このテーマを描くのにこの手法は間違っていたとしか思えない。手法とテーマが乖離しているのである。

僕は「ニュー・シネマ・パラダイス」からトルナトーレは一流になりきれない監督だなと感じている。偽物感がつきまとって仕方がない。きっと、トルナトーレ、この映画を撮る際にいつも同じ手法では面白くないからと思い、サスペンスタッチを取り入れたのだろう。ヒッチコックタッチが目に付くのはそれなりにヒッチコックの映画を勉強しているからだと思う。しかし、それなら結末も含めてきっちりとしたサスペンスを作って欲しいものだ。この人、「ニュー・シネマ・パラダイス」が評価されすぎで、本来は二流の力しかないのではないか。

ヒロインのイレーナを演じるクセニア・ラパポルトは悪くなかった。

「ベオウルフ 呪われし勇者」パンフレット 予告編を見て実写映画かと思っていたら、「ポーラー・エクスプレス」同様のパフォーマンス・キャプチャ。見た感じでは実写と3DCGを融合したような画面である。主人公のベオウルフ(レイ・ウインストン)は実写のように見えるが、ロビン・ライト・ペンをはじめ女優陣は「シュレック」に出てくる人間のように3DCGっぽい。ロバート・ゼメキスは既に「ロジャー・ラビット」(1988年)でアニメと実写の融合をやっているし、こういう画面も狙いのうちなのだろう。

ただし、クライマックスに登場するドラゴンの質感はいかにもCGという感じなのが残念。驚異的なキャラクターの動きやカメラワークは実写では無理だろうから、こういう映画化もありか、とは思うけれど、もう少し抑えてリアルに徹した方がいいような気がする。映像は革新的なので見て損はしないけれど、見なくても損はしないという水準的な仕上がりだ。

最古の英雄叙事詩「ベオウルフ」をニール・ゲイマンとロジャー・エイバリーが脚色。この脚色は見事と言って良く、元の断片的な叙事詩の行間を埋め、父と息子、魔性の女(怪物)の関係を取り入れて、ギリシャ悲劇のようなニュアンスを生じさせている。

6世紀のデンマークが舞台。凶暴で醜い怪物グレンデルに館を襲われ、多大な被害が出る。王(アンソニー・ホプキンス)は館を閉鎖するが、英雄ベオウルフ(レイ・ウィンストン)が海を越えてやってくる。ベオウルフとその仲間はグレンデルを退治するが、グレンデルには母親(アンジェリーナ・ジョリー)がいた。沼地の洞窟でベオウルフはグレンデルの母と対決。ある提案を受け入れることになる。

アンジェリーナ・ジョリーはその完璧なプロポーションでキャスティングされたに違いない。あの肉体の前ではいかなる英雄であろうとも、過ちは犯してしまうものなのだろう。

「自虐の詩」

| コメント(0) | トラックバック(0)

「自虐の詩」パンフレット 中谷美紀でもってる映画だと思う。そばかすとほくろをつけただけで、ほぼノーメイク。それでもきれいで、僕は初めて中谷美紀を美人だと思った。この人、化粧しない方がいいのではないか。原作の幸江より美人すぎるという意見は分かるけれど、そのあたりは演技力で十分カバーしている。

映画の出来は悪くないと思う。ラストでは泣いてる人が多かった。前半にあるコミカルな卓袱台返しを少なくして、もっと少女時代の熊本さんとのドラマを多くすれば、さらに良くなっていただろうが、そこは堤幸彦だから、コメディの部分を外したくなかったのだろう。脚本は良く原作をまとめていると思うけれど、イサオ(阿部寛)が独身時代には幸江に尽くしていたのに、今はなぜ立場が逆になっているのか分からないとか、突っ込みどころはたくさんある。ぎくしゃくした感じは拭いきれず、そこが減点対象か。

脚本は関えり香(美人)と里中静流。里中静流は「恋愛寫眞」で広末涼子が演じた主人公の名前で、堤幸彦が今回のペンネームに使ったのだという。関えり香は映画の脚本は今回が初めてだそうだ。

出演者は寡黙な阿部寛もいいが、あさひ屋のマスターを演じる遠藤憲一が原作とはイメージが違うにもかかわらず、好演している。

「椿三十郎」

| コメント(0) | トラックバック(0)

「椿三十郎」パンフレット 黒澤明版と同じ脚本で映画化しているのだから、ストーリーは分かっており、興味はどんな演出をしているか。冒頭、お堂に近づく大目付の配下をとらえたショットを見て、おお森田、やるじゃないかと思った。大島ミチルの時代劇を意識した音楽が良く、若侍たちのユーモアもいい。全体的によくまとまっており、映画の出来は悪くない。ただ、当然のことながら、黒澤版を超えることはできず、これだとリメイクの意味が薄いように思う。オリジナルを見ていない若い観客向けということか。

黒澤のダイナミズムは森田にはない。数ある黒澤映画の中で、「用心棒」の後の息抜きのようなユーモアのある「椿三十郎」なら自分でも撮れると思ったのは正しい判断と思う。「用心棒」は森田には無理だろう。それでもダイナミズムが必要な部分はあり、ラストの決闘シーンの一工夫は認めるけれども、黒澤版の血しぶきには及ばない。

織田裕二は確かに健闘しているのだが、三船敏郎のような雰囲気が決定的に欠けており、三船を意識した演技を僕は少し窮屈に感じた。要するに軟弱な部分が透けて見えるのだ。いくらセリフ回しを似せようとも、俳優の資質はどこか画面に出てしまうものだ。森田芳光の演出も黒澤を意識した部分がいくつか目に付いた。

黒澤版の上映時間が1時間36分なのに対して、今回は1時間59分。23分長い。エンドクレジットの分を考慮しても20分近くは長いと考えて良さそうだ。これは俳優のセリフ回しも少し影響しているのかなと思う。「70年代ぐらいまでの日本映画はとにかく早口でしゃべることが多く、密度が濃かった」というような意味のことを大林宣彦が以前書いていた。後は演出のリズムとか描写のコンパクトさとか、以前の映画に学ぶべき点は多い。

角川春樹は「用心棒」のリメイク権も買っており、いずれリメイクされるのだろう。しかし、あの大傑作を撮れる監督をすぐには思いつかない。犬が人の手首を加えて登場する冒頭の殺伐とした宿場町のシーンから、僕は「用心棒」にしびれた。当時の日活アクションなどを蹴散らしてアクション映画としての格の違いを見せつけた映画なのだ。

「Always 続・三丁目の夕日」パンフレット 家内と長男を連れて「Always 続・三丁目の夕日」に行く。なかなかの入りである。3人並んでの座席は端の方しか空いてなかった。いきなりゴジラが出てきたのに驚く。このゴジラ、凶悪な顔つきでいい。山崎貴の本領発揮といった場面で、この路線の映画を撮ってほしいと切に願う。本編の方は長すぎる(2時間26分)のが欠点で、30分ほど短くすれば傑作になっていただろう。エピソードが多すぎるというか、描写をもっとコンパクトにすべきところ。クライマックスでは場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてくる。この大衆性のあるドラマはいいと思う。

前作では未完成だった東京タワーが既に完成している。当時の羽田空港を再現した場面をはじめVFXがさりげない感じなのは前作同様。まあ、だから冒頭にゴジラを出したかったのかもしれない。県庁のGさんが来ていて、冒頭の場面を見られただけで良かったと言っていた。

高度成長前の昭和34年だから成立するドラマ。貧しいけれども、金がすべてじゃないぞという主張が成立するのである。寅さんとかサザエさんの世界。これはテレビドラマで半年ぐらいやるべき素材なのではないかと思う。夢と理想が現実のものになっている世界だと思う。熱血的な堤真一がおかしくて出色。

「ボーン・アルティメイタム」パンフレット ボーンのアイデンティティー(正体)見たり枯れ尾花。

と言いたくなるような映画だった。いったいあの研究所は何をやったのか判然としない。ボーンに暗殺者になることを強要するためだけだとしたら、研究所なんて不要だろう。原作はどうなっているのだろう。ヒッチコックはサスペンスの核となるものはレッド・ヘリング(赤にしん)でいい、と言った。これを曲解すれば、こういう映画が出来上がる。

シリーズ第3作。前作でも感じたことだが、このシリーズに不足しているのはエモーショナルな側面。今回も主人公のボーン(マット・デイモン)はまったく感情を表さず、襲い来るCIAの暗殺者たちをてきぱきと撃退する。ただそれだけの映画である。ボーンの原動力となっているのは自分のアイデンティティーの探求と恋人を殺された恨み。というのは設定だけにとどまっており、ボーンは泣くこともわめくことも怒ることも喜ぶこともなく、だからエモーションが欠落しているように見えるのだ。ついでに言えば、ボーンにはCIAの不正を暴くための正義感もない。いや、あるのかもしれないが、画面には表れない。

要するに作りが人工的、デジタル的なのである。アクションを羅列するだけで、主人公の感情が立ち上ってこないので、味気ない映画になってしまう。

映像は短いカットの積み重ねてテンポが良いけれど、カットを割ってはいけない格闘シーンまで割っている。見せるべき格闘はちゃんと見せた方がいいのでは、というのは1作目から感じていることだ。短いカットの積み重ねはポール・グリーングラスの前作「ユナイテッド93」でも使っていた。こういう短いカットで思い出すのは「ストリート・オブ・ファイヤー」。もっともウォルター・ヒルのようなスタイリッシュさはグリーングラスにはない。

ジャッキー・チェンやジェット・リーがワンカットでアクションを見せるのは、アクションが本物であることを示すためでもあるだろう。カットを割れば、どんなことでもでき(るように見え)てしまうからだ。俳優の生身のアクションの伝統は1920年代のロイド、キートンまでさかのぼるのだ。

僕はまったくつまらなかったわけではないが、もう少し何とかならないのかと見ていて思う部分が多かった。このスピード感にエモーショナルな部分が加われば、映画はもっと面白くなっていただろう。足を止めて描く部分に情感が必要だし、これまでに何度も書いてきたが、主人公の激しいアクションを正当化するのは激しい感情にほかならないのだ。

それにしてもジェイソン・ボーンは不死身だ。ラストの処理などは「13日の金曜日」のジェイソンと同じようなものでしたね。

「バイオハザードIII」パンフレット 長男を連れて見に行く。エレベーターを降りたら、劇場の前には長い列。なんだなんだ、これはみんな「続・三丁目の夕日」の客か、と思ったら、「恋空」らしい。「恋空」は既に2回目まで満席。そういえば、長女が「見たい」と言っていた。若い世代には人気があるのか。僕は見ませんけどね。

「バイオハザードIII」は7割ぐらいの入り。前作で全滅したかと思えたアンデッドが世界中に広がり、世界は砂漠化も進んでいるという設定。生き残ったコンボイ軍団にアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が合流し、襲い来るアンデッドと戦い、アンブレラ社の野望を砕く。最初のころのコピーに「アリス、砂漠に死す」というのがあったが、全然そんな展開ではない。死ぬのはアリスのクローンで、これはアンブレラ社がアンデッドへのワクチンを作るために研究しているのだった。アリスのクローンが無数に培養されているシーンは「エイリアン4」のようだが、それ以前に「エヴァ」の影響もあるのかもしれない。

長男は時々、目を伏せていたけれど、全然怖くない。このシリーズ、ホラーではなく、アンデッドを相手にしたアクション映画なので怖くないのだ。前作はアレクサンダー・ウィットのアクション演出がよく、ジル・バレンタイン(シエンナ・ギロリー)も鮮烈で良かったが、今回、監督がラッセル・マルケイに代わり、アクションシーンは可もなく不可もなくのレベル。ストーリーにも目新しさがないので、いいのはジョヴォヴィッチだけということになる。ジョヴォヴィッチはこのシリーズでアクションに目覚めたようで、動きは悪くない。ジル・バレンタインの代わりに登場させたと思える女性リーダー役のアリ・ラーターは「HEROES」の多重人格者。テレビでは色っぽくて良いが、スクリーンで見ると、やはりテレビ女優かという感じがつきまとう。それほど見せ場がないのもつらいところだ。

ラッセル・マルケイは「レイザーバック」(1984年)でその映像感覚におおっと思った。残念ながら良かったのは次の「ハイランダー 悪魔の戦士」(1986年)までだった。以後はB級映画の監督というイメージ。

アリスの力は前作よりもパワーアップしていて、ほとんど超能力者。これをもっとSF的に発展させていってほしかったところだ。その意味ではポール・W・S・アンダーソンの脚本にも難があるのだろう。もっと面白くなりうる題材なのにちょっと残念。

アーカイブ

ウェブページ

2010年4月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち2007年観賞映画カテゴリに属しているものが含まれています。

次のカテゴリは2008年観賞映画です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。