映画とネットのDIARY(tDiary版)
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【映画の感想一覧】 2004年7月以降 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年
2005年06月06日 [Mon]
■ キネ旬6月下旬号
巻頭特集は「ミリオンダラー・ベイビー」。既に公開されているので、いつものキネ旬らしくない掲載の遅さだが、これは終盤のネタを割るために仕方のない措置だったのかもしれない。クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマンのインタビューのほか、崔洋一、宇田川幸洋、新藤純子、香川照之の文章が結末に触れている(注意書きがある)。この映画の分析ではそういう部分がないと、後世に残す文章として十分ではないのだろう。
ただ、まだ見ていない人がこの文章を読む可能性は大きいわけで、注意書きがある以上、読むのは本人の責任だという理屈には無理がある。こういうのって、ついつい読んでしまうのだ。ま、原作を読んでいる人には関係ないことではある。
結末に触れていない小林信彦は「映画史にそびえ立つ作品」と評している。分かりやすいのは、前半は従来のイーストウッド・ファンを泣かせ、後半はイーストウッドを知らなかった観客を泣かせるだろうという宇田川幸洋の指摘。「その二者が、直線的なシンプルなひとつながりの構造をなしているところが、すばらしい」と宇田川は書いている。その通りで、この映画はファンの枠を超えて支持を集める作りになっており、そこに僕は大衆性を感じた。
ちなみにREVIEW2005では評者4人が全員四つ星を与えている。これほど絶賛ばかりを目にする映画というのも珍しい。
2006年06月06日 [Tue]
■ [MOVIE] 「あおげば尊し」
重松清の原作を市川準監督が映画化。末期ガンの父親を看取る家族と、死体に興味を持つ少年の姿を描く。主人公は小学校の教師。死につつある父親も教師だった。死体に、というよりは死に興味を持つ少年に対して、主人公は死の床にある自分の父親の姿を見せる。父親もそれを受け入れ、少年に対して最後の授業をすることになる。
市川準の他の作品と同じように淡々としたタッチの映画。家庭内で展開される物語なので、見ていて僕はマイク・リーの映画を思い出した。マイク・リーが素人の役者を使うことが多いように、この映画も演技的には未知数のテリー伊藤が初めての主役を務めている。テリー伊藤、静かな演技が意外にうまい。マイク・リーの映画は終盤に劇的で激しい場面を用意することが多いが、この映画はラスト近くまで淡々と進む。もちろん、淡々とした中にキャラクターの造型はしっかり描き込まれていて、だから、ラスト、父親の葬儀の場面で教え子たちが歌う「仰げば尊し」の場面が効果的になる。抑え込まれていた感情が一気に爆発するような効果がここにはある。ドキュメンタリーのような描き方をしていた映画がここだけはっきりとフィクションになり、観客の感情を解放する役割を果たしているのである。それまでのタッチとは著しく異なるので、賛否あるだろうが、ここで泣いたという人も多く、とりあえず大衆性は得ているようだ。テリー伊藤も薬師丸ひろ子も加藤武、麻生美代子もリアルに徹し、ドラマ性を廃した好演をしている。
主人公・光一(テリー伊藤)の父親(加藤武)は末期ガンで余命3カ月と宣告される。「いい思い出を作ってあげてください」との医師の言葉で家族は父親を自宅に連れて帰り、在宅で死を迎えさせようとする。それと同時に描かれるのが光一のクラスの田上康弘(伊藤大翔=名前はひろと、と読む)。康弘はパソコンの授業中に死体のサイトを見ていた。そのこともあって光一はクラスの生徒に父親の姿を見せるが、興味を示したのは康弘だけだった。康宏は死んだ父親の葬儀を覚えていず、そのために死に興味を引き立てられているようだった。
在宅での死を描いているので「病院で死ぬということ」の対になる作品かと思うが、基本的には教師の父親と息子を描いた作品。いや、あるべき教師の姿を描いた作品と言うべきか。在宅での死の詳細は意外に描かれていない。それがテーマならば、もっと描写を多くしていたはずだ。「あおげば尊し」というタイトルからして、これが教師の映画であることは明白だろう。悪くない映画と思ったけれど、葬儀の場面をもっと効果的にする演出はあっただろうという思いもある。父親と教え子たちの間に何らかの伏線があっても良かったと思うのだ。唐突に始まる「仰げば尊し」の歌だけで父親の教師としての在り方を象徴するのには少し無理があるのではないか。在宅での死か教師の在り方か、どちらかにもっと焦点を絞った方が良かったのではないかと思う。マイク・リーの錐でもみ込むような強さがこの映画には欠けている。
2013年06月06日 [Thu]
■ GPIFは株価暴落の主犯か?
時々読ませてもらっているインデックス投資ブログの「ホンネの資産運用セミナー」に「レベルが低いGPIFの運用弾力化に関するハフィントンポスト記事 」という記事があった。ハフィントンポストの「GPIF 年金の運用を見直し、杓子定規な無理な売却・買い増しを無くし損失を防ぐ」という記事について「編集部とライターは基本的な資産運用を理解していない可能性が高い」と批判している。元の記事を読んでみると、確かに資産運用に詳しくない記者が書いたのだろうなあと思う。記事の作りも産経ニュースとロイターとWikipediaの記述を組み合わせてお手軽に作った感がありありだ。
しかし、それよりも僕が気になったのはハフィントンポストの記事の下にあったコメント。「GPIFの年金運用見直しが課題として上がった原因は、5/23の大暴落が原因のようですね。というのも、まさにその運用割合が株価が上がってしまったために、割合が19%を突破したために年金が4兆円もぶん投げてしまったそうです」。5月23日の株価暴落の原因はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が4兆円分の株を売却したからだという意味で、これと同じような書き込みはYahoo!ファイナンスの掲示板にもあった。
こうしたコメントのソースは見つけられなかったが、常識的に考えて4兆円もの株を1日で売るわけがない。マーケットインパクト(株価への影響)が過大なものになるし、それは売却側にも跳ね返ってくるからだ。100兆円以上の資産を運用するGPIFは世界最大の運用機関だから、リバランスはそれを考慮しながら行っているはずだ。
具体的な数字を見てみる。東証ホームページの投資部門別売買状況には週間の売買状況の資料がある。5月20-24日のデータを見ると、GPIFが大部分を占めるとされる信託銀行の売却額は8816億円だ。5日間でこれなのだ。いったいどこを見たら1日で4兆円というとんでもなくデタラメな数字が出てくるのか、訳が分からない。
もっとも、この週に信託銀行(つまりGPIF)は4658億円も売り越しており、暴落の主犯とは言えないにしても一翼を担ったのは否定できない。投資支援サービス会社のFISCOは「年金基金のリバランスによる4000億円超もの売りが値下がり幅の大きさにある程度つながったようだ」と指摘している([Miniトピック]日本株暴落の原因が「外国人が大幅に売り越しに転じたため」というのは嘘(Fisco) )。
この記事が指摘しているように、外国人投資家のこの週の売り越しは44億円に過ぎない。国内の生保・損保は53億円、都銀・地銀等は164億円の売り越し。一方、個人投資家は4080億円も買い越している。当然のことながら株式市場では買う人がいなければ、売ることはできない。その意味で個人投資家は株価暴落の一番の被害者であると同時に一翼も担ったということになる。
なぜ個人投資家は買い越したのか。上げの局面、あるいは上げに転じると思って買った人も多かっただろうが、信用取引が個人投資家の6割強を占めるという事情も影響しているだろう。株価が上がると思って信用取引で株を買った人は大幅な下げで損失が膨らむ。泣く泣く損切りせざるを得なかったが、逆に空売りをした人にとっては、暴落は絶好の買い戻しの場面だっただろう。それを考えると、個人投資家の中には暴落で儲かった人もいたはずだ。もちろん、海外のヘッジファンドも利益を上げたに違いない。
ちなみに5日付の日経電子版は今回の暴落の主因について「ヘッジファンド、CTA、個人、銀行……。総強気で買い上げてきた多様な投資主体が一斉に売ったというのが今回の相場急落の主因だろう」と書いている(『株価急落「高速取引犯人説」は本当か』)。よく暴落の原因とされるコンピューターによる高速売買は5月23日には売り買いがほぼ同数だったそうだ。