映画とネットのDIARY(tDiary版)

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映画の感想一覧 2004年7月以降 2005年  2006年  2007年  2008年  2009年

2005年07月05日 [Tue]

Vocal Cansel問題

不正使用を防ぐためにスパイウェアを入れていたそうだ。不正なシリアルを入れると、個人情報が作者に送信される(Vocal Cancelがウイルスな件について。参照)。これを利用して恐喝まがいのことまでやっているので、犯罪の恐れが強いにしても、これだけなら、作者が非を認めて謝ってしまえば、何とかなったのかもしれない。しかし、作者が関わっていたSoftEther社長の対応がまずかった。人格を疑われるような発言が2ちゃんねるやブログにあり、それを取り上げられて、一緒に再起不能になりそうな気配。

大学生で社長ということ自体が反感買われるのに十分なのだから、実際は違うにしても表面ではもっと謙虚な姿勢を見せておくべきだった。その意味では青いし、ニセモノ感が強いな。

犬が来た

昨日、面倒だから飼わないという結論が出ていたのに、帰宅したら、なぜかいた。柴犬の子ども。やはり、もらわれてきた最初の夜はキャンキャン鳴くなあ。名前はまだない。雨の日に来たからレイニー。曇りだったか。それならクラウディ。いずれも子どもに却下された。

「海猿」第1回

映画と同じく羽住英一郎演出。仙崎(伊藤英明)のキャラクターが映画よりも軽くなった感じ。仙崎は7管から3管に異動になり、加藤あいと1年ぶりに再会する。キャストは同じなので、そのまま映画の続編になっているが、やはりテレビはテレビのレベルだな。今回はタンカーが沈没した。来週は不審船が登場するらしい。そういう風に毎回、事件が起きるのだろうか。


2008年07月05日 [Sat]

[MOVIE] 「いのちの食べかた」

クライマックスは牛の解体。それまでに鶏や豚の解体を見ているので、なんてことはないと思っていたが、やはり屠殺の仕方から牛の場合は違う。「ノーカントリー」でハビエル・バルデムが使っていたような屠殺銃を額に押し当てられて牛は一瞬で殺される(と思ったが、あの段階ではまだ死んでいず、失神しているだけらしい)。その直前にガタガタ体を震わせるのは自分の運命を知っているからだろう。その後の流れ作業は鶏や豚の場合とあまり変わらない。皮を剥ぎ、内臓を取り出し、切断していく過程がてきぱきと行われていく。

豚の場合は電気棒のようなもので、屠殺機の中へ追い立てられ、出て来た時には死んでいる。牛でこういう屠殺の仕方ができないのは体が大きいからなのだろうか。屠殺の過程さえ、自動化してしまえば、牛の解体に感じた残酷さは感じなくなるのかもしれない。実際、死んでワイヤーに吊されたシーンから豚も鶏もおいしそうに見えてくる。

食肉過程に残酷さを感じないのはすべてが流れ作業で機械化されているからだろう。豚は腹を切り裂く過程さえ、機械で行われている。豚で残酷さを少し感じたのは大きなハサミで足をパチンパチンと切断していくシーンのみ。作業の多くの場面で女性が参加しているのも面白いが、牛の解体に女性がいなかったのはやはり豚や鶏に比べて残酷さを感じる過程が残っているからだろう。

原題は「Unser taglich Brot」(Our Daily Bread=私たちの日々の糧)。食肉の製造過程だけでなく、野菜や果物、魚などがどう生産され、加工されていくかをランダムに見せる。音楽もセリフもなく、生産過程をそのまま見せることがニコラウス・ゲイハルター監督の意図だったという。豚から野菜に行き、豚に戻り、魚に行くといったランダムな見せ方が映画のポイントで、余計な説明がないのは潔いが、最小限の字幕ぐらいはあっても良かったのではないかとも思う。ひよこに予防注射をしている場面とか子豚の去勢のシーンなどは説明されないと分かりにくいのではないか。

ゲイハルターは「僕が特に興味を持つのは、『なんでもかんでも機械で出来る』という感覚や、そういった機械を発明しようという精神、それを後押しする組織です。それは、とても怖い感覚で、無神経でもあると思います」と語っている。機械化・自動化によって命を感じさせないことへの批判と受け取れるが、実際に毎日働いている人に命を断つことの重みを感じさせていたら、作業は成り立たないだろう。部分的に作業をやっているからできるのであって、あの過程に参加する数の人間がそれぞれ屠殺から解体まですべて一人でやることは不可能に近い。

牛の解体をクライマックスに持ってきたのは命を最も感じさせる処理であるからにほかならない。これに比べれば、野菜の生産現場の描写などは付け足しとも思え、牛の人工授精から解体までを詳細に描くだけでも映画として成立するだろう。監督の意図を実現するには牛の解体だけで事足りるのである。ただし、そうなったら重すぎる映画になるのかもしれない。野菜や果物のシーンにも農薬の問題などは含まれているけれども息抜き的な効果の配慮もあるのだろう。


2009年07月05日 [Sun]

「おもいでの夏」のナレーション

「愛を読むひと」の前半は「おもいでの夏」と同じような展開だった。「おもいでの夏」はかなり好きな映画の1本で、僕は高校生の頃、雑誌「ロードショー」で最後のナレーションを読み、影響されて「人生は小さな出会いと別れからできている」という言葉を卒業文集に引用した。これは原文ではどう言っているのだろう。「愛を読むひと」を見て、長年気になっていたことを確認したくなり、DVDを買った。最後のナレーションは字幕の訳(高瀬鎮夫)では以下のようになっている。

別れだった
その後は知らない
まだ少年が少年である時代だった
わたしには理解できなかった
人生のささやかな出会い
人はそれで何かを得て
同時に何かを失う
42年の夏 わたしたちは対空監視所を4回襲い
映画を5回
そして9日は雨だった
ベンジーの腕時計は壊れ
オスキーはハーモニカをやめ
そしてわたしは
幼いわたしを永遠に失った

「人生のささやかな出会い」というのが「人生は小さな出会いと別れからできている」の意訳だろう。ここをよく聞いてみると、英語では「Life is made up of small comings and goings」と言っている。これを手がかりに最後のナレーションの原文を検索してみた。やっぱり好きな人はいるようで、inthe70s, The Seventies nostalgia siteというページのMovie Quotes of the Seventiesに紹介されていた。

Life is made up of small comings and goings, and for everything we take with us, there is something we leave behind. In the summer of '42 we raided the Coast Guard station four times. We saw five movies and had nine days of rain. Benjie broke his watch. Oscy gave up the harmonica. And in a very special way, I lost Hermie...forever.

映画はよくある10代の少年の初体験ものなのだが、とにかくミシェル・ルグランの切ないテーマが名曲すぎて名作化に大いに貢献している。ロバート・マリガンの演出も手堅い。何よりジェニファー・オニールがきれいだった(「スキャナーズ」で再会した時にはあまりの変わりようにビックリしたんだけど)。

ついでに最初のナレーションとドロシーの置き手紙も引用しておく。これ、DVDを買う前に検索したが、正確なものがあまりなかった。

「わたしは15歳の夏をここで両親と過ごした。当時は今より家も人もはるかに少なかった。島の地理も海の姿もずっと鮮明だった。寂しい所だったが、近所の家族もここに来ていて、結構友だちはいた。1942年の夏にいたのは一番の親友オスキー、2番目の親友はベンジー。自称“猛烈トリオ”だ。丘の家に彼女がいた。顔を見た日から現在まで、彼女とのことほど、わたしを恐れさせ、混乱させた体験はない。もう二度とないだろう。彼女に与えられたあの安らぎ、あの不安、あの自信、そして無力感」
「ハーミー、私は実家に帰ります。分かってください。せめてもの置き手紙です。昨夜のことを弁解はしません。時がたてば、あなたにも分かるでしょう。わたしはあなたを思い出にとどめ、あなたが苦しまないことを望んでいます。幸せになってください。ただそれだけ。さようなら ドロシー」

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