「あの娘はいい子だったよ。1カ月過ぎても、道で会えば、あいさつしてくれた」。失業中の兄ジェイコブ(ビリー・ボブ・ソーントン)が車の中でしみじみと話す。金が入ったら結婚したいという兄に対して、弟のハンク(ビル・パクストン)は「貧乏でも兄さんを好きだった子がいたじゃないか」と反論するが、実はその娘は友人と、1カ月だけジェイコブとつきあう100ドルの賭けをしていたのだ、と兄は打ち明ける。それに続くのが上の言葉だ。原作の細部はもう忘れてしまったが、映画はこの兄ジェイコブの存在がとても大きくなっている。小さな夢を追いかけるドジな人生の失敗者、女っ気もまったくないどころか、キスさえしたことがないという役柄を「スリング・ブレイド」のビリー・ボブ・ソーントンが演じきっている。サム・ライミも緊張感漂う演出で、タイトな映画に仕上げた。
真っ白な雪の風景の中にカラスが数羽。不吉な予感を漂わせながら映画は始まる。この兄弟と兄の親友ルー(ブレント・ブリスコー)は墓参りの帰りに森の中で墜落した飛行機を見つける。中には400万ドル以上の現金が入ったバッグがあった。ハンクは警察に届けるべきと主張するが、ルーとジェイコブに押し切られ、結局、飛行機がだれかに発見されるまで金を保管するという“シンプル・プラン”に落ち着く。しかし、それが悲劇の始まりだった。翌日、ジェイコブは森の中へ入ろうとした老人を殴り殺す。事故に見せかけようと、ハンクが死体を運ぶ途中、老人は息を吹き返し、咄嗟にハンクは窒息死させてしまう。さらにそれを知ったルーはハンクを脅し、すぐに分け前を寄こせと要求してくる。
原作者で脚色も担当したスコット・スミス(アカデミー脚色賞ノミネート)はこう語っている。「子どもが小さな嘘をついてそれをごまかすためにまた嘘をつく。それがだんだん取り返しがつかなくなっていく。それがこのストーリーなんだ」。まさにそんなシンプルなストーリー。ただ、それにスコット・スミスは深い人間描写を取り入れていた。映画も基本的に原作に忠実な作りだが、一番の違いは、原作では途中で死んでしまうジェイコブが映画では最後の方まで生き、ハンクに究極の選択を迫ることだ。ラストシーンは原作同様なのだが、この場面を入れたことで、映画の余韻は原作以上に重いものになった。
映画全体としてもまじめな弟と駄目な兄の対照的な生き方に焦点を当てている。ハンクは幸せな結婚をして職にも就いているが、決して現状に満足しているわけではない。だから、いったん嘘をつくと、最後までそれを貫き通してしまう。ジェイコブはだれからも顧みられず、極めて不幸な境遇だが、最後には嘘をつき続けるのが耐えられなくなってくる。ビリー・ボブ・ソーントンはこの役に複雑な陰影を与えており、アカデミー助演男優賞にノミネートされるのも当然と思えてくる。
【データ】1998年アメリカ映画 2時間2分
監督:サム・ライミ 原作・脚色:スコット・スミス 製作:ゲーリー・レビンソン&マーク・ゴードン 音楽:ダニー・エルフマン
出演:ビル・パクストン ビリー・ボブ・ソーントン ブリジット・フォンダ ブレント・ブリスコー ベッキー・アン・ベイカー チェルシー・ロス
滝田洋二郎監督のことだから、もしかしたら原作よりも父親寄りの立場で映画化するのではないか、と予想していたが、そうではなかった。もちろん、映画も原作も父親(小林薫)が主人公なのだが、このストーリー、男から見ると、ちょっと複雑な気持ちにさせられるのである。結果的にこれは若返った妻だけが第二の人生を謳歌して幸せになる話で、夫は置き去りにされる。そのあたりの心情をもっと描くのではないかと予想していたのだ。脚色の斉藤ひろしはコメディ路線が得意だから、全体的に原作よりもユーモラスな場面が増えている。特に後半、妻に他の男の影が見えてくるところから、原作は嫉妬した夫が電話に盗聴器を仕掛けるなどやや重たい描写が続く。映画はそんな場面でもユーモアを忘れず、印象は極めて軽やかだ。心地よい映画に仕上がったのは広末涼子と小林薫のキャラクターも大きい。
実際、広末涼子がこんなに良いとは思わなかった。「20世紀ノスタルジア」も「鉄道員」も見ていないので出演映画に接するのはこれが初めてだが、表情や仕草が実に自然。もともとのキャラクターでもってる部分もあるが、演技に対して真剣なようだ。小林薫とのかなり際どいシーンも難なくこなしている。交通事故で重傷を負った妻の意識が死ぬ直前に娘の体に乗り移るというファンタスティックなストーリーを納得させるには、かなりの演技力が要求される。広末はそれに見事にこたえている。ただのアイドルとは違うのである。これに比べると、好演は十分認めるものの、小林薫の演技はややしつこく感じる。ユーモラスな場面での演技は作りすぎだろう。
原作では妻が乗り移るのは小学生の娘の体。だから前半のスラップスティック調が生きている。映画ではいきなり高校生だが、上映時間の関係上、これは仕方がない。問題は娘の意識が戻り始め、妻の意識が消えていくクライマックスからラストに至る描写が、やや駆け足になってしまったことだ。原作を読んでいると、この場面が短くて物足りない。ここだけでも一本の映画になりうるほどの題材なのだ。ラストの“秘密”が分かる仕掛けも映画なりに最初から伏線を張って工夫してはいるが、原作の方が奥が深く切ない。ただし、斉藤ひろしの脚本は原作の雰囲気を損ねてはいない。バス運転手の息子(金子賢)と小林薫が心を通わせる場面は、ホロリとさせられた。
特筆すべきはCGIの自然さ。スキーバスの転落事故が起きる真冬のシーンはCGIで雪や吐く息の白さを表現したそうだ。真冬にロケしたとばかり思っていたので驚いた。クランクインが7月18日なので、考えてみれば、雪などあるはずがない。
原作を読んだときにも思ったのだが、橋本先生(石田ゆり子)には後半にも登場してほしかった。映画では特に石田ゆり子がいいので、前半で消えてしまうのはもったいない。
【データ】1999年 東宝 1時間58分
監督:滝田洋二郎 原作:東野圭吾 脚色:斉藤ひろし 音楽:宇崎竜童 撮影:栢野直樹
出演:広末涼子 小林薫 岸本加世子 金子賢 石田ゆり子 伊藤英明 大杉漣 山谷初男
篠原ともえ 螢雪次朗 國村隼 斉藤ひろし 東野圭吾
★滝田洋二郎監督作品の映画評 「僕らはみんな生きている」「病は気から 病院へ行こう2」
第一勧銀の総会屋への不正な利益供与事件をモデルにしたと思われる“ビジネス・パニック”映画。腐敗した銀行内部を改革しようとする中堅社員の戦いを描く社会派の題材を、原田真人監督は日比谷公園を背景にした「ビジネス・ハードボイルド」として撮ったという。ハードボイルド好きな原田監督らしい言葉だが、映画は若手からベテランまでオールスターキャストと言える顔ぶれで、群衆劇の趣もある。ややもするとステレオタイプな演技が見えるベテランよりも椎名桔平や若村麻由美ら若手俳優の頑張りが目立つ。細かな傷はたくさんあるが、現実社会を切り取る邦画は最近少ないだけに大いに評価したい力作だ。
1997年、証券会社から不正融資を受けた大物総会屋が逮捕された。朝日中央銀行(ACB)もその総会屋と関係していたが、政界と深いつながりのある役員たちは「捜査の手は及ばない」とタカをくくっていた。しかし、東京地検は次の立件対象をACBと決め、強制捜査に乗り出す。役員らは次々に聴取、逮捕される。そんな中、中堅社員で佐々木相談役(仲代達矢)の娘婿でもある企画本部副部長の北野(役所広司)、MOF担の片山(椎名桔平)、石井(矢島健一)、広報部の松原(中村育二)の4人は闇社会との呪縛を断ち切り、銀行を再生しようと、改革に乗り出す。映画はこの4人を軸にACB事件を追い続けるブルームバーグテレビのアンカーウーマン美豊(若村麻由美)、東京地検の検事大野木(遠藤憲一)らを絡め、緊張感を保って進行する。
4人組の最終目標は役員らの一新。役員は次々に辞任・解任し、新頭取に海外支店の中山(根津甚八)が就任する。だが、呪縛の根源である最高権力者の佐々木相談役は居残ったまま。佐々木をいかにして辞めさせるか、総会屋との呪縛をいかにして断ち切るかが見どころとなる。総会屋発行の経済紙購読をやめたことで、会社には脅迫状が舞い込み、石井は凶弾に倒れる。さらに北野の周辺にも総会屋の脅しの影が見え始める。一触即発の危険をはらみながら、映画はクライマックスの株主総会へとなだれ込んでいく。
「自分はこんな融資が許されると教えられた覚えはありません。あってはならないことだと教わりました」「誰もやれなかったことを、俺達はやる」との決意で立ち上がる4人組が極めてかっこいい。たくさんの登場人物を手際よく描き分けながら、原田監督はスピーディーな演出を見せる。銀行内部の古い体質から地検の強制捜査のリアルさまでリサーチも行き届いているようだ。ハードボイルドを意識した作りが、社会派だからといって硬いばかりではない上質のエンターテインメントを生んだ。
そうしたドラマとしての面白さは認めるものの、見た後で何か釈然としない思いも少し残る。結局、ACBはこれで再生への道を歩みだした。果たして、現実はどうなのか。中小企業が今ばたばた倒産しているのも銀行の貸し渋りのためである。銀行の再生を内部から描くこの映画の危険性は、銀行側からのプロパガンダ映画と受け取られかねないことだ。もっと深く、もっと鋭く現実をあぶり出していたら、映画は胸を張って傑作と呼べるものになっていたかも知れない。
【データ】1999年 東映 1時間54分
監督:原田真人 原作:高杉良 脚本:高杉良 鈴木智 木下麦太 音楽:川崎真弘 撮影:阪本善尚
出演:役所広司 仲代達矢 根津甚八 佐藤慶 椎名桔平 風吹ジュン 若村麻由美 矢島健一 中村育二 石橋蓮司 遠藤憲一 もたいまさこ 本田博太郎
DEEP BLUE SEA
A級になりきれないレニー・ハーリン監督の海洋アクション。今回もまたツボをはずした作りで、別に期待はしていなかったのだけれど、やはりこの程度の出来ではがっかりさせられる。「ジョーズ」と比較されるのを承知の上でサメの映画を撮った心意気は買うが、スピルバーグを甘く見てはいけない。映画を見せる技術に関しては、ちょっとレベルが違うのだ。いくらSFXが進歩しようと、映画はやはり演出の力いかんにかかってくるという当たり前のことを改めて感じさせられる映画である。24年も前の「ジョーズ」の足下にも及ばない。
冒頭、ヨットの4人の男女がサメに襲われる。4人は危機一髪のところを一人の男に助けられる。男は海洋研究施設アクアティカで働くカーター(トーマス・ジェーン)だった。アクアティカは海上に建設された施設で、サメの脳組織を利用してアルツハイマー病治療薬を作る実験をしている。リーダーは女性科学者スーザン(サフロン・バローズ)。研究の結果、サメは人間並みの知能を得る。しかし、スーザンに資金を提供している会社はなかなか薬の結果が出ないのにいらだち、資金ストップを警告。社長ラッセル(サミュエル・L・ジャクソン)が視察にやってくる。スーザンは一気に研究を早め、実験ザメから脳組織を抽出。アルツハイマー病に効果があることを実証した。しかし、その直後、サメが暴れ出し、研究員の手を食いちぎる。さらに救援に駆けつけたヘリがサメに引きずられて、アクアティカに激突、大破してしまう。アクアティカには海水が流れ込み、沈没の危機となる。折しも外はハリケーンが接近していた。残された7人の男女は必死の脱出を試みるが、一人また一人とサメの餌食になっていく。
「ジョーズ」に「ポセイドン・アドベンチャー」と「ミミック」を加えたような設定だ。実はスーザンは禁止された遺伝子操作もやっていた。自分が作った怪物に襲われるのだから、これはもう「フランケンシュタイン」の昔から自業自得と相場が決まっているのである。スーザンはアルツハイマー病の父を持った経験から、研究を始めたのだが、いくら理由があろうと、いわゆるマッドサイエンティストなのである。「ミミック」のミラ・ソルビーノの場合はその魅力で納得できる部分もあったけれど、サフロン・バローズには少しも同情する気にならない。ここがまずマイナス。ハーリンの演出にもキレがなく、物語の設定を説明する前半は退屈だ。事前に好意的な批評も読んでいたので、ここを我慢すれば、あるいはと思ったが、やはり駄目だった。
サミュエル・L・ジャクソン以外はノースターといえる映画で、その分、ストーリーにも意外性が加えられる。誰が餌食になるのか、生き残るのかの楽しみは残されている。だから詳しくは書かないけれど、脇役として登場したジャクソンが一瞬、主役になり、すぐに脇役に退いてしまう場面は面白かった。信心深くプリーチャーと呼ばれるアクアティカのシェフ(LL・クール・J)も同じような意味で面白い存在。ヒーロー役のトーマス・ジェーンにはもう少し貫禄がほしいところだ。
【データ】1999年 アメリカ映画 1時間45分
監督:レニー・ハーリン 脚本:ダンカン・ケネディー、ドナ・パワーズ、アラン・リーシュ
撮影:スティーブン・ウィンドン 音楽:トレバー・レイビン 視覚効果監修:ジェフリー・A・オークン
特殊効果監修:ジョン・リチャードソン
出演:トーマス・ジェーン サフロン・バローズ サミュエル・L・ジャクソン ジャクリーン・マッケン マイケル・ラパポート ステラン・カースガード LL・クール・J
Simon Birch
スティーブン・キングの小説や映画のような味わいを持つ映画だ。といってもホラーではなく、「スタンド・バイ・ミー」の路線。障害を持つ子供サイモン・バーチ(イアン・マイケル・スミス)と親友のジョー(ジョゼフ・マッゼロ)の交流がアメリカの一般的な少年たちの日常を描いたキング(やレイ・ブラッドベリやロバート・マキャモン)作品の雰囲気によく似ている。サイモンが受ける仕打ちや浴びせられる言葉に重たいものはあるのだけれど、それはあくまでも点景。日常の描写が良くできているから、障害者が主人公の映画にありがちな感動の押し売りがなく、好ましい。
監督デビューのマーク・スティーブ・ジョンソンはジョン・アーヴィングの原作の一部を膨らませてこのストーリーを書いたという。舞台は60年代、メイン州の小さな街。サイモン・バーチは母親のくしゃみとともに、小さな小さな子どもとして生まれた。その障害のため1日持つかどうかも危ぶまれたが、サイモンは生き抜いた。しかし、12歳になっても身長は1メートル足らずで、その命は普通の人のように長くはないと分かっている。両親は障害にがっかりしてサイモンを徹底的に無視。サイモンの心のより所は、私生児のためサイモンのように差別される親友のジョーとその美しい母親レベッカ(アシュレイ・ジャッド)だけだった。映画はジョーの回想として描かれる。成人したジョーに扮し、ナレーションも務めるのがジム・キャリー。いい味を出しているが、特別出演の扱いでクレジットはされていない。
サイモンは自分の障害について「神様が大きなプランを持っている」と信じている。障害は何かの使命をさせるために与えられたものであり、自分はその時に使われる「神様の道具だ」と考えているのである(フェデリコ・フェリーニの「道」にも「どんなものでも何かの役に立っているんだ。ほら、この小石だって」というセリフがあるけれど、ひねくれ者の僕は別に何の役にも立たなくたって、生きていっていいじゃないかと思う)。こういう設定だから、映画の結末は容易に予想がつく。それをどう見せるかが監督の手腕だろう。
ジョンソン監督は先に書いたように少年たちの日常をきめ細かく描くことで、それをクリアしている。少年野球や学校や教会を舞台にレベッカの突然の死やジョーの父親は誰かという謎を絡めながら、映画はユーモアを交えて語られる。ジョーの視点から描いたことで、映画の奥行きは深いものになった。クライマックスで描かれるサイモンの“使命”はSFがかった奇跡ではなく、自らの決意と行動によるものである。サイモンはその状況を「神様のプラン」と考えただろうけれど、決して道具なんかではなく、主体的なものだったことに意味がある。
出演者の中では天使のように優しいアシュレイ・ジャッドが印象的だ。パンフレットには辛口の映画評論家ジーン・シスケルの「なにせ、アシュレイは、彼女の出演が映画の質の高さを保証するという稀な女優に成長しているのだ」との言葉が紹介されている。
【データ】1998年 アメリカ映画 1時間53分
監督・脚本:マーク・スティーブ・ジョンソン 原作:ジョン・アーヴィング「オーウェンのために祈りを」 撮影:アーロン・E・シュナイダー 音楽:マーク・シャイマン
出演:イアン・マイケル・スミス ジョゼフ・マッゼロ アシュレイ・ジャッド オリヴァー・プラット デイビッド・ストラザーン ジム・キャリー(クレジットなし)