ホーンティング

THE HAUNTING

「ホーンティング」あの傑作「ヘル・ハウス」ならぬ「ヒル・ハウス」が舞台の幽霊屋敷もの。「怖くない」との評判を聞いていたが、怪異の正体が不明な前半はなかなか怖い雰囲気がある。怖くないのは正体(出てくる理由)が分かった後半で、これはたいていのホラーだってそうなのであるから仕方ない。凄い音響(ドルビー・デジタル・サラウンドEX)と最先端のSFXで攻めてこられても、「ふーん、そういう理由ならしょうがないね」と感じてしまう。屋敷に巣くう幽霊の撃退法があっさりしていて食い足りず、ストーリーに新機軸もない。SFXの物量も圧倒されるほどではないが、退屈しない程度の出来には仕上がっている。

原作はシャーリー・ジャクソン「山荘綺談」(ハヤカワ文庫。創元推理文庫版は「たたり」)。ロバート・ワイズ監督「たたり」(1963年)のリメイクである。不眠症の3人の男女が大学教授マロー(リーアム・ニーソン)によって丘の上に立つ大きな屋敷「ヒル・ハウス」に呼び寄せられる。表向きは睡眠障害の研究のためだったが、実は恐怖の研究が目的だった。3人は母親を11年間世話した挙げ句、住んでいたアパートを妹夫婦に追い出されたネル(リリ・テイラー)と活発な美人テオ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)、皮肉屋のルーク(オーウェン・ウィルソン)。屋敷には不気味な管理人夫妻がいるだけで、夜は無人。しかも街からは遠い。教授は3人に屋敷の秘密を打ち明ける。屋敷は100年以上前、ヒュー・クレインという織物業で成功した実業家が建てた。クレインは事業では成功したが、家庭的には不幸で妻は次々に死産を繰り返した後、自殺した。クレインの死後、地元では夜になると、子どもの声が聞こえると恐れられている。

教授らが屋敷に着いたその夜から、怪異現象が続発する。教授の助手は突然ピアノ線が切れて、目にケガをする。真夜中に大きな音が響き、急激に気温が下がる。そしてネルには子ども達の声が聞こえてくる。ネルは教授から電話をもらって屋敷に来たのだが、教授はそんな電話はしていないという。それなら誰がネルを呼んだのか。やがてネルは子どもの霊に導かれ、屋敷の本当の秘密を知る。

原作も読んでいないし、「たたり」も見ていないが、ネルはどちらでもサイキック(霊媒)という設定らしい。今回は少し神経症的というだけで、特異な能力はない。屋敷との特別な関係が幽霊撃退のポイントになる。クライマックスがあまり盛り上がらないのはこれが原因だろう。ま、サイキックが登場した「ヘル・ハウス」にしても結局、屋敷の秘密を解くことで幽霊退治をしたのだったが、そこまでにはサイキックの活躍があった。こういう部分も欲しかったところだ。フィル・ティペットとILMが担当したSFX自体は良くできているし、豪勢な屋敷のセットも見事。しかしヤン・デ・ボン監督の演出には恐怖を形成するのに必要なきめ細やかさが欠けていた。

贔屓のキャサリン・ゼタ=ジョーンズは彩りを添える程度の役柄で残念。それ以上に残念なのはヴァージニア・マドセンがほんとのチョイ役であること。かつては注目の美人女優だったんですけどね。実質的な主人公リリ・テイラーはジョーンズと並ぶと、少しかわいそうな気もするが、好演している。

【データ】1999年アメリカ映画 1時間53分 ドリームワークス作品 UIP配給
監督:ヤン・デ・ボン 原作:シャーリー・ジャクソン「山荘綺談」(ハヤカワ文庫)「たたり」(創元推理文庫) 脚本:デヴィッド・セルフ 撮影:カール・ウォーター・リンデンローブ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス 
視覚効果監修:フィル・ティペット クレイグ・ヘイズ
出演:リーアム・ニーソン キャサリン・ゼタ=ジョーンズ リリ・テイラー オーウェン・ウィルソン ブルース・ダーン マリアン・セルデス ヴァージニア・マドセン

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シックス・センス

THE SIXTH SENSE

「シックス・センス」ホラーの装いをまとってはいるが、プロットは純然たるミステリ。冒頭にあるブルース・ウィリスと監督M・ナイト・シャマランによる「お願い」字幕が余計で、ミステリの読者なら、最初のシーンを見ただけで、映画の仕掛けが分かってしまうかもしれない。過去の映画にもいくつか例があった仕掛けである。だから映画の半分ぐらいまでは「ここはこうなる」「あそこはああなるはず」と容易に演出の予想がついてしまう。そしてラストも結局、この仕掛けに収斂されるのだから、途中でネタが分かってしまった観客は、分からなかった観客の驚きや感動からは取り残されてしまう。これが最大の欠点。しかし、この映画、サイキック(霊媒)の哀しみや不幸、幽霊が見えてしまうことの怖さをしみじみと描いている点では例がない。僕はその点で評価する。

小児精神分析医マルコム・クロウ(ブルース・ウィリス)の家にある晩、10年前に治療した患者ビンセントが侵入する。ビンセントは「ちっとも治っていなかった。一人でいるのが怖い」と恨み言を言った後、マルコムを撃ち、自殺してしまう。1年後、傷は癒えたものの、ビンセントの事件に打ちのめされたマルコムはビンセントと同じ症状を抱えた少年コール(ハーレイ・ジョエル・オスメント)に出会う。両親が離婚し、母親と2人暮らしのコールは何かにひどく怯え、体には多くの傷があった。治療を進めるうちにマルコムはコールの周囲に不思議な出来事が起こっているのを知る。そしてコールはマルコムに「自分には死者の霊が見える」と打ち明ける。これがメインストーリー。映画はサイドストーリーとして、仕事に打ち込んで家庭を顧みなかったマルコムと妻(オリビア・ウィリアムス)との間に深い溝ができていることを描く。妻には他の男の影も見えるようになっている。

なぜ、霊たちはコールに近づくのか。コールは「自分を死んだと思っていない。何かを僕に頼みたがっているんだ」と話す。コールの言葉を信じたマルコムは協力し、ある少女の霊の手助けをすることになる。このエピソード、描写は怖く、内容もショッキングだが、これをきっかけにコールは怯えから解放されていく。つまり、サイキックとしての役割に目覚めたわけだ。あるいは自分の能力が何かの役に立つことが分かって自信を得たといっていいかもしれない。

ハーレイ・ジョエル・オスメントはブルース・ウィリスを凌ぐ好演。もの悲しい目つきがサイキックにぴったりだ。好みから言えば、ウィリスの立場よりも少年の立場から描いた方がSF的になって良かったとは思う。ただ、そうすると、このストーリーでは困ったことになる。詳しくは書けないけれど、仕掛けに影響を及ぼすから、これはこれで仕方なかっただろう。

フィルムの感触は冷たい硬質の感じがするが、ストーリー的には温かい。本当に怖い場面は後半の幽霊が出てくる数場面だけだ。ストーリーの仕掛けとB級ホラーとは一線を画する内容があったから、アメリカで「スター・ウォーズ エピソード1」に次ぐヒットを記録したのだろう。監督のシャマランはインド出身でこれが3作目。怖さの質に東洋的な感触があるのはそのためだろうか。「エリザベス」のシェカール・カプール同様、インド出身監督として注目しておこう。

【データ】1999年アメリカ映画 スパイグラス・エンタテインメント作品 1時間47分 東宝東和配給
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン 撮影:タク・フジモト 音楽:ジェイムス・ニュートン・ハワード 
出演:ブルース・ウィリス ハーレイ・ジョエル・オスメント トニ・コレット オリビア・ウィリアムス ドニー・ウォルバーグ ピーター・タムバキス M・ナイト・シャマラン

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梟の城

Owl's Castle

「梟の城」篠田正浩が単純な娯楽大作時代劇を撮るはずはないと思っていたが、予想通り、映画は終盤、忍者(個人)のアイデンティティーの話になっていく。依頼主は心変わりし、個人的な恨みもないのになぜ秀吉を暗殺しようとするのか、その答えがアイデンティティーなのである。それはそれで悪くはない。悪くはないけれど、娯楽時代劇を締め括るのにはあまりふさわしくないし、唐突に出てくるテーマだから戸惑いが残る。ストーリーとテーマをもっと柔軟に組み合わせる脚本の工夫が欲しかった。スペクタクルシーンにも迫力が足りない。キネマ旬報いうところの”時代劇復活(リバイブ)”の始まりを告げる映画なのに残念だ。

天正9年(1581年)、忍者を嫌う織田信長は伊賀を攻め、大虐殺を行った。10年後、生き残った忍者の一人で、隠遁生活を送る葛籠重蔵(中井貴一)の元へ仕事の依頼が来る。「秀吉を殺せ」。直接の依頼人は堺の商人・今井宗久(小沢昭一)だったが、背後には年老いた秀吉の治世を危惧する徳川家康(中尾彬)がいた。原作がどうなっているのか知らないが、ここで依頼を引き受ける重蔵の気持ちがあまり伝わらない。信長を殺せとの依頼ならば、個人的な復讐になるわけだから、話は分かる。しかし、秀吉は信長の後を受けて国を治めているとはいえ、伊賀の虐殺には関わっていない。同じ天下人だからという理由では納得できない。もちろん重蔵の気持ちとしてはかつての忍者としての生活にあった充実感を再び、味わいたかった(これが終盤のアイデンティティーの話につながっていく)ということも示唆されるが、弱いのである。ここでしっかり重蔵の動機を描いておくべきだった。

依頼を引き受けた重蔵は仲間の下忍とともに秀吉暗殺を企てる。それを妨げるのは甲賀忍者・摩利支天洞玄(まりしてんどうげん=永沢俊夫)とかつての仲間で今は奉行所に士官した風間五平(上川隆也)。これに正体不明の女小萩(鶴田真由)と重蔵を慕う木さる(葉月里緒菜)が絡む。2人の強力な敵によって重蔵の手下は次々に倒されていく。重蔵自身も五平との戦いで深い傷を負う。ついに秀吉の寝所への侵入に成功した重蔵だったが…。

恐らく、娯楽映画やアクション映画の分かった監督なら、虐げられた伊賀忍者にもう少し焦点を当て、闇に生まれ闇に死ぬ者の悲哀を感じさせる映画に仕上げただろう。篠田正浩はテーマ重視派だから、そうした部分の描写が不足している。中井貴一も全くのミスキャスト。声が甲高く、忍者向きではないし、セリフ回しも軽薄だ。黒づくめの衣装のみ似合っていた。大阪城のマットペインティングなどSFXは100カットを超えているという。邦画でも普通にSFXが使われるようになったのは進歩と言うべきか。

【データ】1999年 東宝配給 2時間18分
製作:「梟の城」製作委員会 監督:篠田正浩 原作:司馬遼太郎「梟の城」 脚本:篠田正浩、成瀬活雄 撮影:鈴木達夫 美術:西岡善信 音楽:湯浅譲二 衣装:朝倉摂 SFXスーパーバイザー:川添和人 アクションアドバイザー:毛利元貞
出演:中井貴一 鶴田真由 葉月里緒菜 上川隆也 永沢俊夫 根津甚八 山本学 火野正平 マコ・イワマツ 馬淵晴子 小沢昭一 中尾彬 中村敦夫 岩下志麻

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双生児

GEMINI

「双生児」特異な美術、特異な衣装、眉を落とした特異なヘアメイクに俳優たちの不気味で特異なメイクアップ。久しぶりに見る塚本晋也の世界は一見、決して心地よいものではない。しかし、監督の趣味がこれほどあふれた日本映画も珍しく、ここまでデフォルメされると、フェリーニあたりを引き合いに出したくなる。独自の世界の構築という点で塚本晋也は際だった才能を持っている。そしてテーマは10年前の「鉄男」以来、一貫して肉体の変貌(メタモルフォーゼ)。「鉄男」に僕はショックを受けたが、今回もまた刺激は大きかった。独自の世界観に裏打ちされた「作家の映画」でありながら、江戸川乱歩の小説が持つ妖しさをもまた見事に映像化している。

予告編を見たときには「これはきっと幽霊か妖怪か死神のたぐいに違いない」と思われた異様な容貌の面々は実は貧民窟の人々だった。実際、この衣装とメイクはただ事ではない。北村道子の担当した衣装は美しさと汚さが混在したなんとも形容しがたい感覚。これは誉めているのだが、この衣装がなければ「双生児」の世界は随分と貧しいものになっただろう。北村道子はパンフレットでこう語っている。「私は明治時代をアルファベットのMEIJIとして記号化してみたんです。西暦2500年くらいの人間が想像するような明治のビジュアルなんです。…抽象的な言い方ですが、グキッ、メチャ、ボロッといった感覚がテーマなんです」。ヘアメイクの柘植伊佐夫の場合はこうだ。「貧民窟はパンク的です。シンメトリックなものの破壊。輪郭性が消えている感覚。背景と重なったときに輪郭が曖昧になることを意識しました」。この2人が果たした役割は極めて大きいと言わねばなるまい。

映画のストーリーは原作とは随分違うようだが、塚本監督らしいのは井戸に落とされた主人公の医師(本木雅弘)が泥と垢にまみれ、だんだんとメタモルフォーゼしていくことだ。主人公を突き落としたのは貧民窟で育った双生児の兄。グキッ、メチャの容貌なのだが、主人公は徐々にその容貌に近づいていくのである。そして精神もまた。疫病が流行する貧民窟の人間を魔物のように毛嫌いしていた主人公は自らがその容貌になり、大きな意識の変革を迎える。井戸から必死の思いで脱出した主人公はかつての自分とうり二つの兄を殺すのだ。いわば主人公は自分を殺すわけなのである。僕は江戸川乱歩ならぬエドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」を思い出した。

骨格はミステリだから、前半の怪異な物語はすべて合理的に説明される。ミステリ的な評価から言えば、決してストーリーテリングが際だっているわけではないけれど、この映画の場合、ストーリーは映像の手段に過ぎないような気がする。映像の鮮烈さがストーリーを上回っているのである。独自のスタイルを持った監督の映画は面白い。本木雅弘は大河ドラマとは打って変わって、複雑な二役を好演。妻を演じる映画初出演のりょうは独特の雰囲気があり、映画の不気味さに合っていた。

【データ】1999年 東宝配給 1時間24分
製作:セディックインターナショナル、丸紅 監督・脚本・撮影・編集:塚本晋也 原作:江戸川乱歩「双生児〜ある死刑囚が教誨師にうちあけた話」(角川ホラー文庫) 音楽:石川忠 衣装:北村道子 ヘアメイク:柘植伊佐夫 美術:佐々木尚
出演:本木雅弘 りょう 藤村志保 筒井康隆 もたいまさこ 石橋蓮司 麿赤児 竹中直人 浅野忠信 田口トモロウ 村上淳 内田春菊

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