ポンヌフの恋人

LES AMANTS DU PONT-NEUF

製作費30数億円。パリのポンヌフ橋とその周辺を再現した壮大なセット。しかし、内容はそんなことをまったく感じさせない小品といえる愛の映画である。実際、メイキング・ビデオでも見なければ、フランス映画史上最大といわれるあのセットがいかに大きいかは分かるはずもなく、何も知らない人はすべてロケだと思うに違いない。「ボーイ・ミーツ・ガール」も「汚れた血」もテレビでチラリとしか見たことのない僕にレオス・カラックスを語る資格はないが、この映画に関しては壮大なセットと映画製作を巡るゴタゴタなど映画外の話題に内容が負けている印象を受けた。予算をかけた割りにスケールがプライベートな範囲にとどまっている。

アレックス(ドニ・ラヴァン)は、修理のため閉鎖中のポンヌフ橋をねぐらにする孤独な大道芸人の青年。ミシェル(ジュリエット・ビノシュ)は失恋し、目の病気に絶望した画学生。2人はふとしたことで知り合って、ともにポンヌフ橋で暮らすようになる。どちらかと言えば、この2人の関係はアレックスの一方的な片思いの気配が濃厚だ。ミシェルもアレックスを愛しているには違いないが、アレックスの情熱ほどではなく、「冬になったらここには住めないわ」などと言うのである。アレックスはミシェルをつなぎとめようと努力するが、夏が終わり、冬が来ると同時にミシェルは自分の目が直ることを知って、ポンヌフを離れていってしまう。

いくつかの刺激的なシーンが印象に残る。革命200年を祝う夜空いっぱいの花火がポンヌフ橋の周辺を彩るシーン、地下道に張られたたくさんのポスターが一斉に燃え上がるシーン、アレックスが何度も何度も火を吹くシーン(これは「汚れた血」にあるシーンの拡大版だ)、そして絶望して手の指を拳銃で撃ち飛ばすシーンなどなどだ。それらはすべてミシェルを愛してしまったアレックスの激しい情熱のほとぱしりを表している。ほとんど笑顔すら見せないアレックスの代わりに、強烈な視覚的場面が感情を物語っているのである。かわいいビノシュに比べて、ラヴァンの顔つきはこちらの感情移入を拒否するような粗野なものだから、こうした表現は効果的と言えるだろう。それに登場人物の少なさと、単純でドラマティックな盛り上がりに欠けるストーリーをいくらか補ってもいる。

もちろんそれはカラックスの映画製作に対する情熱の発露でもある。映画の完成までにはさまざまな災厄に見舞われて製作費が膨れ上がり、多くの困難を乗り越えなければならなかったという。それでも映画がなんとか完成にこぎつけたように、アレックスとミシェルの愛も危機を乗り越えて、一応のハッピーエンドを迎える。映画自体もフランス、日本でヒットした。“呪われた”とも形容される映画を監督したカラックスの情熱は報われたのだろうか。

この映画を見ていると、アレックスとカラックスの姿は自然に重なり合ってくる。映画製作の裏側を知った以上、それは仕方のないことだ。しかし、だからといって僕はこの映画を積極的に評価しようとは思わない。先ほど挙げた刺激的なシーンも、心を十分には動かしてくれなかった。きっと映画は情熱だけでは駄目なのだろう。(1992年12月号)

【データ】1991年 フランス 2時間5分
監督・脚本:レオス・カラックス 製作:クリスチャン・フェシュネール 撮影:ジャン・イブ・エスコフィエ 美術:ミシェル・バンデスティアン 
出演:ジュリエット・ビノシュ ドニ・ラヴァン クラウス・ミヒャエル・グリューバー ダニエル・ビュアン

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機動警察パトレイバー2 the Movie

PATLABOR2 the MOVIE

あの完全無欠の前作から早くも4年。再び、特車二課の面々が劇場に帰ってきた。今回のキイワードは“TOKYOウォーズ”。厳戒体制の東京を舞台に緊迫したストーリーが展開される。予告編の絵のタッチがかなりシリアスだったので大いに期待した。そして裏切られることはなかった。「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」のように観念的だが、そこが魅力でもある。エンタテインメント志向が前面に出ていた前作とは異なり、押井守は自己の作家性を強く追求し、妥協のない作品に仕上げた。

ストーリーの基になったOVAの「二課の一番長い日」前後編は、余談みたいな話が多いパトレイバーのビデオシリーズの中では異質とも言える力の入った作品だった。自衛隊の一部が突然クーデターを起こし、東京を占拠する。クーデターの首謀者は特車二課第二小隊・後藤喜一隊長のかつての上司。ふだんはボーっとしているが、カミソリの異名を持つ後藤隊長が事件解決に真価を発揮する。

映画の方は単純なクーデターではない。ある日、横浜ベイブリッジにミサイルが投下される。その場面を撮影したビデオテープには自衛隊の主力戦闘機が写っていた。さらに自衛隊の三沢基地から戦闘機が発進、東京へ向かう途中で突然消える。警察は自衛隊のクーデターを疑い、国内の各基地を包囲。東京には警戒のため戦車が出動し、雪の降りしきる中、一触即発の緊張が一気に高まる。そんな折、陸幕調査部の荒川と名乗る男が後藤隊長に接触してくる。二つの事件の背後には元自衛隊員でPKOヘレイバー隊を派遣、自滅した柘植行人がいるらしい。正体不明のヘリコプターと飛行船が空を舞い、そして遂に東京で戦闘が始まる。今はそれぞれ別の道を歩んでいた特車二課の隊員たちは、後藤隊長の指令で再び結集してくる。

前作は泉野明、篠原遊馬の二人の隊員を中心にストーリーが進行したが、今回は後藤と南雲しのぶの二人の隊長がメインキャスト。南雲はかつて柘植の部下だったことがあり、愛人関係にもあったという設定である。全編を貫く緊張感が心地よい。敵の実態がはっきりしない前半には戦争に関する観念的なセリフが多く、耳で聞いただけでは分かりにくい部分もある。それを救っているのは超リアルな絵がもたらすこの緊張感だ。戦争が既に始まっているのかどうかも分からない設定。しかし、危機は確かに目の前にある。コンピューター・ウイルスがレイバーを暴走させ、東京が壊滅しそうになった前作に対して、今回は戦争のシミュレーションが人の心を惑わし、東京を自滅に追い込んで行きそうになる。

押井守はこの映画を「戦争を演出しようとする話」と結論づけている。ただのシミュレーションと思われていた出来事が具現化する瞬間、つまり平和ボケした日本にとって非現実的な戦争が現実となる瞬間を描くことが狙いなのである。「正義の戦争よりも不正義の平和の方がまだまし」という主張もさりげなく込められ、芯の太い作品にしている。

押井守の作品には出来不出来が少なくないが、パトレイバー・シリーズに関してはヘッドギアという集団の総合的な作品なので高い質が保証される。大衆性に乏しく子供には難しいだろうが、作画も伊藤和典の脚本も川井憲次の音楽も一級品だ。(1993年9月号)

【データ】1993年 1時間54分 バンダイビジュアル=東北新社=イング
監督:押井守 演出:西久保利彦 原作:ヘッドギア 脚本:伊藤和典 キャラクターデザイン:高田明美 ゆうきまさみ 音楽:川井憲次
声の出演:富永みーな 古川登志夫 大林隆之 榊原良子 池水通洋 郷里大輔 二又一成 千葉繁 竹中直人 根津甚八

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バットマン リターンズ

BATMAN RETURNS

ピーターパンとバットマンの続編同士が対決するこの夏の映画興行。作品の出来からすれば、バットマンの方が軽くピーターパンを超えていた。スピルバーグの「フック」も決して悪くはなかった。中年になったピーターパンが特訓の末に再びネバーランドの空を飛ぶシーンは「E.T.」の自転車が空を飛ぶシーンの感動を少し思い出させてくれた。しかし、「バットマン リターンズ」は重厚感のある作りと、ハマリ役の出演者たちの熱演が見事に結実した傑作である。「フック」とは正反対の暗さで、普通のヒーロー物の痛快さもないにもかかわらず、この作品世界は魅力的だ。もう少し面白くできるのでは、との不満も頭をかすめるが、お子様ランチにしなかったティム・バートンはえらい。もちろん前作以上の出来栄えで、ダニー・エルフマンの音楽も快調である。

今回の成功がペンギン役のダニー・デヴィートとキャット・ウーマンのミシェル・ファイファーにあることは衆目の一致するところだろう。ペンギンことオズワルド・コプルポットは水かきのある手を持って生まれたために、両親に捨てられ、33年間、ゴッサム・シティの下水道の中で生き抜いた。キャット・ウーマンことセリーナ・カイルはサエないオールド・ミスの秘書だったが、大富豪マックス・シュレック(クリストファー・ウォーケン)の秘密を知ったために、ビルから突き落とされて復讐を誓う。ゴテゴテのメーキャップをした白塗りのデヴィートと、体にぴったりの黒い革のコスチュームを身に着けたファイファーは、高笑いだけが記憶に残った前作のジョーカー(ジャック・ニコルソン)よりもはるかに素晴らしい敵役である。特にファイファーの魅力は弾けている。アカデミー賞にノミネートされたこともある女優がコミックの悪役を演じることなど前代未聞であるけれども、こういう役をしなやかに魅力的に演じてしまえるのがファイファーの良さだ。

それにしても何と悲劇的な話なのだろう。前作がバットマンことブルース・ウェインの暗い生い立ちを背景にした一種の復讐譚であったするならば、今回は世の中に見捨てられた2人の悪役の復讐譚なのである。ヒーローも悪役もそれぞれにかわいそうな身の上であり、暗い情念を秘めた彫りの深いキャラクター。バットマンとキャットウーマンはともにお互いの二重人格を認め合い、心を通わせる。正義と悪とに分かれたのは単に経済的な違いがあったからに過ぎないのである。そしてバットマンの正義の味方としての在り方よりも世の中に絶望したキャットウーマンの開き直りの復讐の方がよほど説得力がある。

クライマックス、下水道の中でバットマンはキャットウーマンの復讐を止めるために仮面を脱ぎ捨てる。本当の悪人であるマックス・シュレックはそれを見て「なんて格好をしてるんだ、ウェイン」と吐き捨てる。ゴッサム・シティという架空の都市でなかったら、バットマンの存在は確かに滑稽なのである。スーパーマンやスピルバーグ印のヒーローたちがどこかに置き忘れた苦悩をバットマンたちは今回、確かににじませている。もちろん、ティム・バートンはエンタテインメントとしての観客サービスも忘れていない。このバランス感覚の良さがあれば、既に企画されているという第3作にも期待できると思う。(1992年8月号)

【データ】1992年 アメリカ 2時間8分
製作・監督:ティム・バートン 製作総指揮:ジョン・ピータース ピーター・グーバー ベンジャミン・メルニカー マイケル・ウスラン 製作:デニーズ・ディノーヴィ 脚本:ダニエル・ウォーターズ 撮影:ステファン・チャプスキー 音楽:ダニー・エルフマン
出演:マイケル・キートン ダニー・デビート ミシェル・ファイファー クリストファー・ウォーケン マイケル・ガフ

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紅の豚

PORCO ROSSO

宮崎駿のベストは「風の谷のナウシカ」だ、と思っている。アニメーティングが素晴らしかったのは言うまでもないが、エコロジーのテーマと物語がうまく溶け合い、現在の地球環境問題を完全に先取りしていた。「未来少年コナン」とナウシカはそのテーマで真っすぐにつながる。自然と文明を対比するこの視点は「ルパン三世カリオストロの城」や「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」などの他の作品にも多かれ少なかれ共通している。しかし、それ以上に共通するのは空を飛ぶシーン。「紅の豚」はその空中シーンの魅力を満載した映画で、ラピュタに通じるものがある。「おもひでぽろぽろ」に疲れたスタッフのリハビリのために企画したというから、テーマ性は稀薄だけれども、派手なアクションの楽しさに満ちたスペクタクルな映画だ。

ファシズムの足音が聞こえる1920年代のイタリア、アドリア海。かつての空軍の英雄マルコ・パゴットは戦争が嫌で自分に魔法をかけ、豚になった。今はポルコ・ロッソ(紅の豚)と呼ばれ、真っ赤な飛行艇を操る賞金稼ぎとして空の海賊(空賊)たちに恐れられている。空賊たちの憧れの存在がホテル・アドリアーノの女主人ジーナ。ジーナはポルコと青春時代をともに過ごした仲間で、数少ない理解者でもある。これに空賊が雇った腕の立つ飛行艇乗りのアメリカ人カーチスと、飛行艇整備士の17歳の娘フィオが絡んで物語が展開する。宮崎駿は簡単なプロットを迫力のある空中シーンでつないでいく。というより、動きのある空中シーンを描くことがそもそもの狙いであるわけだから、物語は単純な方がいいのだ。フワリとした飛翔感と飛行艇の重量感が同居している作画が、いつもながらにすごい。フィオたちによって修理されたポルコの飛行艇が運河を大きな水しぶきを上げて飛び立つシーンや、クライマックスのポルコとカーチスの決闘シーンはスピード感にあふれている。

ユーモアもたっぷりで、マンマユート団のヒゲ面のポスをはじめとした空賊の面々はほとんど無邪気で、見ていて笑ってしまう。これに対してポルコは外観はユーモラスであるけれども、その行動はかっこいい男として描かれる。考えてみれば、宮崎駿の映画で中年男が主人公となることは珍しく、「カリオストロの城」のルパンを除けば、どの作品も主人公は少年であり、少女であった。「カッコイイとは、こういうことさ。」と、映画のコピーが歌うように、これは中年男の心意気なり、ダンディズムなりを描いたと受けとってもいいだろう。そしてそのために監督自身の思いがこれまでの作品よりも正直に出た、と僕は思う。.パンフレットの中で宮崎駿はユーゴスラビアの紛争が続くアドリア海が舞台なので、「ノーテンキな映画にするわけにはいかなくなった」と語っている。ポルコの戦争嫌い(実はファシズム嫌い)という設定や、パリ・コンミューンヘの追憶を綴うた「さくらんぼの実る頃」を主題歌にしたことなどに端的にそれは現れている。宮崎駿がこれを私映画と呼ぶのは飛行艇へのマニアックぶりだけでなく、そんな点があるためだろう。硬派な人なのである。

「紅の豚」はこれまでの作品からみれば水準作で、ナウシカもルパンも超えてはいない。(「魔女の宅急便」よりは上だ。テーマを一言で言える映画はやっぱり弱い)。しかし、宮崎駿という監督の本質を理解するためには重要な映画だと思う。(1992年9月号)

【データ】1992年 1時間33分 徳間書店=日本航空=日本テレビ=スタジオジブリ
監督・原作・脚本:宮崎駿 作画監督:賀川愛 河口俊夫 美術:久村佳津 音楽:久石譲
声の出演:森山周一郎 加藤登紀子 桂三枝 上条恒彦 岡村明美 大塚周夫 関弘子 阪脩 野本礼三 仁内建之

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学校

最初の回想が始まった時点でヤバイと思った。もしかしたら、これはこうやって下町の夜間中学に通う生徒一人ひとりの境遇を回想で見せるのではないか。果たして、映画の最初の1時間は回想に終始する。もちろん、それだけで映画を終えることには無理があるので、何かに収斂させる必要があるだろうと思っていると、予想通り、初老の生徒イノさん(田中邦衛)の死とその回想(!)が映画のクライマックスとなる。素人にでも先が読めるこの構成、決して褒められたものではないだろう。映画からは夜間中学とはこんなものでこういう生徒が通っているということは分かるが、もう一歩踏み込んだものがない。生徒の境遇を描くことで一面の現実は浮かび上がっている。しかし、夜間中学が今置かれている現状(外国人の締め出しとか、閉鎖の憂き目にあっている学校もあるのだ)にもっと目を向けるべきではないか。15年間、企画を温めているうちに現実とのズレが生じている。

考えてみれば、管理教育の大本締めである文部省が“特選”を与えるような映画に教育の真実(現実)などあろうはずがない。山田洋次の演出は描写に力があるので、生徒それぞれのエピソードはそれなりに胸を熱くさせるものはある。孫を持つ年になって初めて文字を覚えた在日韓国人のオモニ(新屋英子)や中国残留孤児の母親とともに日本にやってきたが、仕事に満足しないチャン(翁華栄)のエピソードは一昨年の「息子」のように現実との接点を感じる。父親がアル中で家に帰りたがらない不良少女みどり(裕木奈江)と黒井先生(西田敏行)との交流も良いのだが、いかにも山田洋次らしいのは「息子」同様、一見いい加減な奴に見えて実は真面目に働いているカズ(萩原聖人)であり、苦労を重ねて夜間中学にたどりついたイノさんのエピソードである。

イノさんは東北の貧しい家庭に生まれ、妹が死んだことに責任を感じて東京に出てきた。日雇いの仕事を繰り返し、50歳を過ぎてようやく下着販売会社の正社員となったが、文字を知らないために車の免許も取れない。汗をしたたらせながらリヤカーを引いている。夜間中学に通うようになって田島先生(竹下景子)にほのかな恋心を抱くが、それが破れた時、長年痛めつけられてきた体も壊してしまうのだ。

ピート・ハミルの「幸せの黄色いリボン」を「幸福の黄色いハンカチ」に変えてしまったように山田洋次の描写はいつも泥臭い。それは日本映画の伝統を引き継ぐという意味で利点でもあるのだが、この映画の場合、印象を極めて古くさいものにしてしまっている。どれも下町の人情噺の域を出ていないのである。それに輪をかけるのが、映画を締め括るあの馬鹿げた「幸福って、いったい何ですか」という問い掛けだ。私はここでコケた。それまでイノさんの重たい生涯を話していたのによくもまあ、そんなに簡単に話を切り替えることができるものだと思う。取って付けたような、とはこのことだろう。

結局、山田洋次は自分の守備範囲の中で、夜間中学を描こうとした。というか、自分の描き続けてきたものと夜間中学とに接点があったからこそ、題材に選んだのだろう。泣かせて笑わせる素晴らしい技術がありながら、これでは惜しいと思う。(1993年12月号)

【データ】1993年 2時間8分 松竹
監督・脚本:山田洋次 脚本:朝間義隆 製作:中川滋弘 撮影:高羽哲夫 長沼六男 美術:出川三男 横山豊 音楽:富田勲
出演:西田敏行 竹下景子 萩原聖人 中江有里 新屋英子 翁華栄 神戸浩 裕木奈江 渥美清 大江千里 笹野高史 大和田伸也 園佳也子 坂上二郎 すまけい 小倉久寛 浅利香津代 田中邦衛

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裸のランチ

NAKED LUNCH

難解である。試写を見た人たち(10数人しかいなかったが)は、みんな「訳が分からない」と首をひねっていた。僕にもよく分からない。SFXを多用したクローネンバーグのいつもながらの暗いタッチは魅力的なのだが、ストーリーを追おうとすると、分からなくなる。ほとんど幻覚の世界を描いているのだから、訳が分からなくて当然−と開き直ってしまっていいのかもしれない。

ストーリーよりも全体を通して意味をつかむべき映画なのだと思う。しかし難解なストーリーとは裏腹に映像は明解だ。「戦懐の絆」に続いて、文学的な味わいと悪夢のようなイメージが同居しており、僕はフィリップ・K・ディックの小説世界を連想した。原作者のウィリアム・S・バロウズとディックは、麻薬に溺れたことがある点で共通しているから、これはあながち間違ってはいないはずだ。「裸のランチ」の原作もバロウズが麻薬中毒状態で書いたのだという。

主人公はゴキブリ退治の害虫駆除員ビル・リー(ピーター・ウェラー)。ある日、ビルはいつも使用している黄色い粉末殺虫剤が減っていることに気づく。妻のジョーン(ジュディ・デイビス)が粉末殺虫剤を麻薬代わりに使っていたのである。そしてビルもこの殺虫剤の常用者になってしまう。ここから、幻覚の世界が始まる。

ビルは麻薬取引の疑いで刑事に連行されるが、取り調べ室には巨大なゴキブリが現れ、ビルに語りかける。酒場にはマグワンプと呼ばれる「スター・ウォーズ」に出てくるような奇怪なモンスターがいる。医者(ロイ・シャイダー)のところに行くと、南米の巨大なムカデから作った黒い薬を与えられるが、この薬にも秘密がありそうだ。ウィリアム・テルごっこで妻を射殺してしまったビルはゴキブリに言われるまま、インターゾーン(これは別の世界というほどの意味合いである)に逃げ込む。マグワンプに命じられて、妻を射殺した報告書を書こうとすると、タイプライターが巨大なゴキブリに変貌する。妻そっくりの女も出てくる。奇怪な出来事は次々に起こり、何かの陰謀が背後にあることが分かり始めるが…。

ディックの小説が不安定な現実の揺らぎを描くのに対して、この映画の主人公は奇怪な世界にもそのまま順応していく。タイプライターがゴキブリに変わり、マグワンプの頭に変わっても、主人公はそのままタイプを打ち続ける。タイプがゴキブリになるというのは心理学的には作家の強迫観念を表しているのだろう。ラストで別の国へ入る場面は作家への第一歩を象徴しているのかもしれない。しかし、そうしたメタファーを突き詰め、意味を無理に付けることにどれほどの意味があるのか、僕には分からない。

クローネンバーグがこれまでたびたび取り上げてきたテーマは肉体の変貌だった。「ラピッド」「スキャナーズ」「ビデオドローム」を経て、傑作「ザ・フライ」でそのテーマは頂点を極めた。双子の医者の精神の歪みとその破滅を描いた前作「戦懐の絆」と、この映画は違う方向に目を向けている。「裸のランチ」には奇怪な生物が多数出てくるなど、描写の仕方がまったく変わらないところが、クローネンバーグらしいが、本領はやはりSFにある。ファンとしては次の作品にはもっとSF的なアプローチのある原作を取り上げて映画化してほしいと思う。(1992年8月号)

【データ】1991年 1時間56分 イギリス=カナダ
監督:デヴィッド・クローネンバーグ 製作:ジェレミー・トーマス ガブリエラ・マルティネリ 脚本:デヴィッド・クローネンバーグ 原作:ウィリアム・S・バロウズ 撮影:ピーター・サシツキー 音楽:ハワード・ショア
出演:ピーター・ウェラー ジュディ・デイビス イアン・ホルム ジュリアン・サンズ ロイ・シャイダー

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