マルコムX

MALCOM X

「ドゥ・ザ・ライト・シング」のラストで、「自己防衛のための暴力は暴力ではなく、知性と呼ぶべきである」との言葉を引用したぐらいだから、スパイク・リーがマルコムXの映画化に向かうのはいわば必然だったように思う。力の入った映画で、昨年の「JFK」を思わせるような大作だ(上映時間は3時間22分!)。主演のデンゼル・ワシントンが中盤に見せる数々の演説シーンは本物と見紛うばかりの熱演である。ただ、完成度の点から言えば、痛烈な批判を込めた「ドゥ・ザ・ライト・シング」には及ばない。リチャード・アッテンボロー監督の「ガンジー」のように良質の伝記映画にはなっているけれども、暗殺で終わる物語には主義主張を伝える上で限界がある。

映画は3つのパートに分かれている。マルコムの生い立ちから盗みで刑務所に入るまでの青春時代、プラック・モスリム(黒人回教団)に入団し、黒人解放運動の指導者として活躍する時代、そして教団を離れ、暗殺されるまでの短い時代である。マルコムの主張もその人となりも、映画を見れば非常に良く分かる仕上がりである。問題はそれを既に知っている観客にどう見せるかだが、スパイク・リーは極めて手際が良く、見せるための技術を心得ている。力で押しまくったオリバー・ストーンとは異なり、3つのパートのタッチをそれぞれに変えて、飽きさせないのである。

青春時代のパートはダンスホールのミュージカル的なシーンがまず溌剌として良い。コカインに手を出し、悪に身を染めるマルコムを描きながら、殺された父親や精神に異常を来した母親など不遇な生い立ちを挟み込んでいる。2番目のパートは最も力強い。教団の人間たちのスタイリッシュな描き方(ギャング映画を思わせる)、マルコムの演説の迫力が緊張感を漂わせている。3番目のパートは短すぎる気もするが、場面転換が見事である。雄大なエジプトのピラミッドや多数の人々が巡礼するメッカを見せることで、映画のスケールがくんと大きくなった。白人=悪魔という閉鎖的な教団の考え方から解放され、より大きな視点に目覚めるマルコムの姿と映画が重なり合っている。

長身で理知的な風貌のマルコムは教団の最高指導者イライジャ・モハメドを凌ぐカリスマ的な人気を得ていった。これは教団にとっては都合の悪いことで、モハメドの世俗的な側面が明らかにならなくても、いずれマルコムは教団から離れざるを得なくなっていただろう。本当に重要なのは教団から離れた後のマルコムの考え方にあるのだが、「暴力を肯定する煽動者」というそれまでのイメージは世間一般から抜けなかった。それがマルコムの不幸だった。

ロドニー・キングの暴行事件に端を発したロス暴動は、「ドゥ・ザ・ライト・シング」の拡大版だったと思う。あの映画には韓国人の問題も含めて、現在の人種問題が描かれており、極めて予見的だったのだ。「マルコムX」に欠けているものがあるとすれば、「ドゥ・ザ…」のような同時代性だろう。スパイク・リーは映画の冒頭にロドニー・キング暴行事件のニュース映像を入れて、状況は何ら変わっていないこと、マルコムの思想が現在にも通用することを提示しているが、何か物足りない思いが残る。それが結局、伝記映画の弱さということになるのだろうか。(1993年4月号)

【データ】1992年 アメリカ 3時間21分
製作・監督・脚本:スパイク・リー 製作:マービン・ウォース 原作:アレックス・ヘイリー 脚本:アーノルド・パール 撮影:アーネスト:ディッカーソン 美術:ウイン・トーマス 音楽:テレンス・ブランチャード
出演:デンゼル・ワシントン アンジェラ・バセット アル・フリーマンJr. アルバート・ホール デロイ・リンド テレサ・ランドル スパイク・リー

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ケープ・フィアー

CAPE FEAR

バーナード・ハーマンの音楽とソール・バスのタイトル! マーティン・スコセッシ初のスリラー映画はヒッチコックの装いをまとって登場した。スコセッシは出世作となった「タクシー・ドライバー」でもハーマンを起用していた(そして、それがハーマンの遺作となった)から、スリラーを撮る際にスリラー映画にたくさんのスコアを提供したハーマンを考えたのは当然といえば当然のことだったのだろう。しかし、いかにも60年代風の音楽を背景に描かれるのは、まぎれもないスコセッシの密度の濃い映像だ。スピルバーグ率いるアンブリンの映画とは思えない重たさがある。

14年前、凶悪犯を刑務所に送った弁護士サム・ボーデン(ニック・ノルティ)の一家が出所した犯人マックス(ロバート・デ・二ー口)から付け狙われるという話である。犯行が狂暴すぎたため、サムは裁判でマックスに有利な証拠を隠滅した。マックスはそれを悟り、復讐を誓ったのである。文字も読めなかったマックスは刑務所の中で知識をたくわえている。このため復讐のやり方も法律すれすれの巧妙なものとして始まる。ボーデン家の周辺に出没し、愛犬を殺し、サムの愛人に重傷を負わせ、娘に近付く。恐怖を覚えたサムは私立探偵を雇い、マックスを痛め付けようとするが、それをたてに取られて弁護士資格剥脱の危機にさらされる。マックスは遂にサムの家にも侵入、探偵とメイドを殺す。一家は船でジャングルのようなケープ・フィアーに逃れるが、そこにもマックスは現れた。クライマックスは船内での壮絶なやりとりとなる。全身火だるまになっても死なず、執念深いマックスの在り方はホラー映画の怪物を思わせる。こういう最近のパターンとなってしまったのはちょっと損な設定で、一工夫欲しかったところだ。だが、刺青だらけの野獣のような男を演じるデ・二ー口には凄みがある。不安におののくノルティとヒステリー気味の妻役ジェシカ・ラングもいい。

演出におけるヒッチコックの影響は例えば、不安感を煽る斜めの構図やパン・フォーカスのような場面(恐らく合成と思う)にも感じられる。しかし、ヒッチコックが中身よりもストーリーテリングのための技術に心を砕いたのに対して、スコセッシは中身を重視している。それが大きな違いだ。キネ旬1月上旬号でスコセッシは「アートを追求すると、客が来なくなってしまう」と語り、エンタテインメントに徹したとしているが、スコセッシはアメリカ映画では珍しいアート系の作家であるから、本人はそのつもりでも一般的な意味でのエンタテインメントに激することなどできないのである。映画化する際にスコセッシは宗教的なイメージと官能的なタッチを取り入れたという。サムの家族の内情もただの幸福なものではない。「第三の男」や「七人の侍」などエンタテインメントを追求した映画が優れた芸術性をも備えた場合とは異なり、「ケープ・フィアー」は当初からそうした映画の方向性と逆にある。アート系の作家がスリラーやスペクタクルに向かないのは映画に意味を持たせようとするからで、アンドレイ・コンチャロフスキー「暴走機関車」の失敗もそこにあった。「ケープ・フイアー」は十分面白いが、スコセッシの資質には合わない映画になっている。

原作はA級になりきれなかったミステリ作家の故ジョン・D・マクドナルド。1962年にJ・リー・トンプソン監督が既に「恐怖の岬」(原題は同じ)として映画化しており、今回の映画はリメイクである。オリジナルでは犯人役をジェームズ・ミッチャム、弁護士をグレゴリー・ペックが演じた。この二人は今回も特別出演している。ついでに書いておくと、アメリカ南部のケープ・フィアーは「ワイルド・アット・ハート」の舞台にもなっていた。(1992年2月号)


【データ】1991年 アメリカ 2時間8分 監督:マーティン・スコセッシ 製作総指揮:キャスリーン・ケネディ フランク・マーシャル 製作:バーバラ・デ・フィーナ 原作:ジョン・D・マクドナルド 脚本:ウェズリー・ストリック 撮影:フレディ・フランシス 音楽:エルマー・ナーンスタイン
出演:ロバート・デ・ニーロ ニック・ノルティ ジェシカ・ラング ジュリエット・ルイス グレゴリー・ペック

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スニーカーズ

SNEAKERS

オールスター・キャストで描く軽いフットワークのコンピューター・サスペンス・コメディ。アナグラム(文字の綴り変え)のタイトルで始まって拍手、拍手のラストまで一気に見せる。このところ重たい役が続いていたロバート・レッドフォードが快作「ホット・ロック」のころに戻って軽やかに演じており、好感が持てる。脇を固めるシドニー・ポワチエ(元CIA局員役がぴったりの貫禄だ)や、紅一点のメアリー・マクドネルらも魅力的だ。ストーリーに「ウォー・ゲーム」のようなスケールがあればもっと良かったと思うが、「フィールド・オプ・ドリームス」で男を上げたフィル・アルデン・ロビンソン監督は、まず期待を裏切らない作品に仕上げた。

冒頭、白黒で描かれるのは1969年、ハッカーの学生マーティンとコスモが政府のコンピューターを操作する場面。ニクソン大統領の口座から全額をブラックパンサーに振り込んだりするのだが、マーティンがピザを買いに行った間に、コスモは踏み込んだFBIに逮捕されてしまう。そして現在、指名手配中のマーティン(ロバート・レッドフォード)は身元を偽り、銀行などの保安システムをチェックする5人組スニーカーズのリーダーになっている。5人はポワチエを除いていずれもコンピューターおたくで、脛に傷を持つことでも共通している。

ある日、マーティンはNSA(国家安全保障局)を名乗る2人の男から依頼を受ける。政府関係の仕事はしない方針だが、指名手配のことを持ち出され、半ば強制的に仕事を引き受けさせられる。仕事の内容は有名な数学者が開発したブラックボックスを盗む出すこと。仕事は成功するが、このブラックボックスはすべての暗号を解読する機械であることが分かる(盲目のデヴィッド・ストラザーンがブラックボックスを解析する場面がスリリングだ)。これを悪用すれば、アメリカのセキュリティ・システムはずたずたに壊滅してしまう。2人がNSA局員という話も嘘で、裏には獄中で死んだはずのコスモ(ベン・キングズレー)がいた。コスモは犯罪組織の幹部になっていたのである。スニーカーズたちはブラックボックスを取り返すために、ハイテク機器で警備されたコスモの要塞に侵入する。

脚本はフィル・アルデン・ロビンソンと「ウォー・ゲーム」を製作したウォルター・F・パークス、ローレンス・ランガーの共同。「ウォー・ゲーム」が青春映画の側面を持っていたように、「スニー力ーズ」もマーティンとコスモという2人の男の対立の物語として収斂していく。そしてキャラクターの愉快さ!何でも政府の陰謀にしてしまうダン・エイクロイド、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」とはまったく異なる役柄のマクドネル、若い観客にアピールするための出演と思えるリバー・フェニックスまで、それぞれキャラクターの造型が豊かで、ハッピーな感覚に満ちている。最後にNSAの幹部役の某有名黒人俳優に一泡ふかせる場面が痛快である。

レッドフォードは「愛と哀しみの果て」あたりから年取ったなと思っていたが、今回はスタジアム・ジャンパー姿で若さをのぞかせる。私生活を通じて一貫したリベラルな姿勢は好ましく、もっと映画で活躍してほしい。監督に専念した「リバー・ランズ・スルーイット」にも期待しておこう。(1993年3月号)


【データ】1992年 アメリカ 2時間6分
監督・脚本:フィル・アルデン・ロビンソン 製作総指揮:リンズレー・パーソンズ 製作:ウォルター・F・パークス 撮影:ジョン・リンドレイ 音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ロバート・レッドフォード シドニー・ポワチエ デヴィッド・ストラザーン ダン・エイクロイド リバー・フェニックス メアリー・マクドネル ベン・キングスレー

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シコふんじゃった。

傑作。年内の公開だったらベストテンに入れるところだ(残念ながら大相撲初場所に合わせて、来年1月の公開になるそうだ)。周防正行監督と本木雅弘コンビの前作「ファンシイダンス」よりおかしくて、題名通りのセリフで終わるラストまで笑いっぱなしだった。一方で「ロンゲストヤード」や「がんばれ!ベアーズ」「メジャー・リーグ」などのスポーツ・コメディの定石をしっかりと踏まえ、表面的なおかしさだけに終わっていない。相撲をテーマにこんな面白い映画ができることなど予想もつかなかった。

相撲がテーマといってもプロではなく、学生相撲の話だ。教立大学(!)の4年生・山本秋平(本木雅弘)は就職も決まってルンルンの日々。しかし、卒論指導教授で相撲部顧問の穴山(柄本明)から、「単位をやる代わりに1度だけ相撲の試合に出てくれ」と条件を出される。教立大学の相撲部はかつては名門だったが、今は入部希望者がいなくて廃部寸前。“3部リーグのビリッケツ"になっている。部員は4年生の時に相撲の魅力に取りつかれ、それ以来部をつぶさないために留年を続けている青木(竹中直人)ただひとりだ。

リーグ戦に出場するため秋平の弟・春雄(宝井誠明)と立派な体格の割に内気な田中(田口浩正)を勧誘して頭かずはそろえたが、初めて出場した大会は惨敗。その後も連戦連敗し、OBたちから「こんなやつらを試合に出すより殺した方がましだ」と罵られて、怒った秋平は「勝ちゃいいんだろ、今度は勝ってやるよ」と啖呵をきってしまう。1度だけ試合に出ることで終わるはずだった教授との約束を自分から反古にしてしまったのだ。英国人留学生のジョージ・スマイリー(ロバート・ホフマン)も引き入れ、目標を3ヵ月後のリーグ戦に決めて夏の合宿と猛練習が始まった。練習の成果は実り、リーグ戦でも勝ち続けるが…。

対戦相手の大学名が本日医科大学、応慶大学、衛防大学…。英国人でジョージ・スマイリーと言えば、ル・カレのスパイ小説に出てくる情報部員と同じ…。設定は非常に、ふざけており、笑いの連続で映画は進むが、どっこい中身は本物だ。落ちこぼれ軍団が苦労しながら、勝利を手にするというスポーツ・コメディ映画の王道を行く作りなのである。日本映画でこういうタイプの作品が成功した例は非常にまれである。スラップスティックのタッチとストーリー・テリングのうまさに感心してしまった。

それにしても部員たちの落ちこぼれぶりは度を越している。青木は緊張すると下痢をする体質、スマイリーは「人前でお尻を見せるのはいや」でまわしの下にタイツをはく。田中は気弱すぎて話にならない。春雄はやせっぽちで力がない。唯一まともな秋平にしても相撲の技術はゼロなのである。周防監督はそれぞれのキャラクターを明確に描き分け、ゼロからというよりマイナスからスタートした部員たちの奮闘を軽妙に綴っていく。周防監督のデビュー作でピンク映画の「変態家族兄貴の嫁さん」は今年ビデオになったが、いつも貸し出し中の札がかかる人気ぶり。だから、小津安二郎の「秋日和」にオマージュを捧げたといわれるこの映画を僕はまだ見ていない。だが、今回の映画を見て、「ファンシイダンス」を見た時以上にまず処女作を見てみなければ、と強く思った。

本木雅弘は軟派から硬派への転換をうまく演じて、今やすっかり映画俳優である。見せる演技でひたすらおかしい竹中直人と相撲部名誉マネジャー役の清水美砂も大変よろしい。親が見たら泣くような役柄を演じた新人の梅本律子にも工一ルを送っておこう。(1992年1月号)

【データ】1991年 1時間28分 大映=キャビン
監督・脚本:周防正行 製作:徳間康快 平明暘 撮影:栢野直樹 美術:部谷京子 音楽:周防義和
出演:本木雅弘 清水美砂 竹中直人 松田勝 田口浩正 ロバート・ホフマン 宝井誠明 梅本律子 柄本明

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おもひでぽろぽろ

原作にある昭和40年代の少女の話よりも高畑勲監督が新たに付け加えた現在の話の方がグッとこたえる。前作「火垂るの墓」のようにりアルな作画もさることながら、取り上げたテーマもキャラクターの造形も実写を超えた出来だ。完成度の点では「火垂るの墓」を超えてはいないけど、極めて映画的で素晴らしいラストシーンには久しぶりに強く心を揺さぶられた。

27歳のOLタエ子が小学5年生の自分を連れて旅に出る。映画の中での現在は昭和57年だから、タエ子は昭和30年生まれらしい。旅の行く先は義兄の実家である山形。東京生まれのタエ子にとってほしくてたまらなかった田舎だ。旅の途中、そして山形に着いてからも、タエ子は小学5年生の頃のいろいろな思い出を反芻する。それは「ひょっこりひょうたん島」であったり、夏休みに行った熱海の温泉であったり、ほのかな恋心であったりして、その年代の女の子に普遍的なものである。原作の「おもひでぽろぽろ」の世界であるわけだが、年代が自分に近い女の子の話であっても、それだけならノスタルジーに終始してしまい、映画的な広がりはなかったことだろう。

高畑勲は演出ノートの中に、そうしたノスタルジー(レトロ気分)は現代人が生きていくうえである種の精神安定剤になっていると認めながらも、こう書いている。「しかし、レトロ気分を満たすために我々は映画を作りたいとは思わない。むしろその逆である。レトロ気分によってきたるところを、私たち現代人の自己確立のむつかしさと考えるからには、その傾向を助長することに組みしたくはない」。そこに現在のタエ子を置き、切実なドラマを展開させることで高畑勲は閉鎖的な物語を打破することに成功した。例えば「スタンド・バイ・ミー」のように現在の主人公が昔を懐かしがっているだけの映画とは一線を画しているのである。

現在のタエ子は仕事志向でもないのに、お見合いの話にも乗れない。気が付いたら20代後半になっていたOLである。今の生活に行き詰まりを感じていると言ってもいいだろう。山形で紅花の収穫を手伝うことは、タエ子にとって息抜きでもあった。山形の生活を続けているうちにタエ子は遠い親戚の農業青年トシオと親しくなる。トシオはタエ子より年下だが、タエ子の苦い思い出にズバリと解答を与えるなど、深い考察力を持つ。自然に生きている分、タエ子より大人なのである。二人が親しくなったことは傍目にも分かって、タエ子はおぱあちゃんから「トシオの嫁に」と言われることになる。そこからの展開に実に深みがあって、捻らされてしまう。息抜きのはずだったものが日常になるとなれば、深く悩むのは当然で、高畑勲はそれを十分に描きながら素敵なラストシーンにつないでいくのである。

田舎の生活は恐ろしくリアルな作画がなされ、綿密な取材があったことをうかがわせる。脚本も十分に練られている。いくつかの場面を除けば、これは実写で撮っても差し支えない作品である。箸にも棒にもかからぬ新人監督が跋扈する日本映画界だから、「火垂るの墓」やこの映画を見たプロデューサーが高畑勲に実写を撮るよう勧めてもおかしくないし、将来高畑勲自身が実写を撮ることを試みても何ら不思議ではない。「おもひでぽろぽろ」のようなしっかりした作品が実写の方にもなくてはならないと本当に思う。アニメーションの作り手に優秀な人材が揃っているとはいっても、実写がそれに後塵を拝するぱかりの現状は情けない。(1991年9月号)

【データ】1991年 1時間59分 徳間書店=日本テレビ=博報堂
監督・脚本:高畑勲 製作:宮崎駿 原作:岡本螢 刀根夕子 キャラクターデザイン・作画監督:近藤喜文 作画監督:近藤勝也 佐藤好美 美術:男鹿和雄 音楽:星勝
声の出演:今井美樹 柳葉敏郎 本名陽子 寺田路恵 伊藤正博 北川智絵 山下容莉枝 三野輪有紀

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八月の狂詩曲

前作「夢」に続いて、黒沢映画のメッセージ色はより顕著になった。原爆のゲの字もなかった村田喜代子原作「鍋の中」を長崎原爆投下の影響を軸にした話にアレンジして反戦を強く訴えている。その主張の仕方に僕は少し疑問を感じて、「これなら外人記者から反発が出るのも当然だ」と納得してしまった。映像は見事なまでに美しく、力強いクロサワ・タッチを堪能したが、話の作りがそれほどうまくないのである。

長崎市街地から少し離れた所に住むおぱあちゃん(村瀬幸子)にある日、エアメールが届いた。ハワイに移住し、今はパイナップル農園を経営して大金持ちになった兄からのものだった。十三人も兄妹がいたおばあちゃんに、この兄の記憶はなかったが、息子(井川比佐志)と娘(根岸季衣)は大喜びしてハワイまで出掛けてしまう。お陰で四人の孫が夏休みをおばあちゃんの家で過ごすことになった。小学校の教師だったおばあちゃんの夫は原爆で死亡。ほかの兄妹のうち何人かも原爆の犠牲になった。おばあちゃんは爆心地から遠い所にいたため助かったが、やはり放射能の影響を受けて頭髪が薄くなっている。孫たちはおばあちゃんの話と原爆の傷跡(おじいちゃんが勤めていた小学校にはグニャリと溶けたジャングルジムがある)を見て、原爆とそれを投下したアメリカに対する怒りを募らせていく。平和祈念公園には世界各国から平和を願って、さまざまな像が届けられているが、アメリカからのものはない。「アメリカが原爆を落としたんだから、当然じゃない」と孫たちは語り合うのだ。そんな時、ハワイの兄の息子クラーク(リチャード・ギア)がおばあちゃんを訪ねてくる。

原爆は付け足し程度のことだろうと予想していたが、それが話の中心になっていることに驚いた。むろん反核・反戦の主張は良いことである。しかし、原爆を投下したからアメリカは悪いという描き方では「それならパール・ハーバーはどうか」「日本軍がアジアで行った虐殺は悪くないのか」と切り返されてしまう。おばあちゃんは「アメリカが悪いのではなく、すべて戦争のせいだ」と孫たちに諭すが、これもほとんど誤りと言わねばならない。こうした論法は戦争を抽象的なレベルに落とすだけのことなのである。外人記者たちの反発の中心は、被害者意識からの反戦の主張にあった。日系人でもある甥のクラークが原爆投下を謝りに来るというまったくありえない設定が、それに拍車をかけている。

映像は「夢」に比べるとおとなしいが、黒沢らしさが随所に見られる。孫たちの着る洋服の色までに神経を配り、画面の色彩は隅々まで計算されつくしているようだ。ラストの暴風雨や迫力のある滝の描写、森の中の不気味な雰囲気などに映像派の面目がある。ただ、そうした素晴らしい映像をもってしてもストーリーを納得させることには失敗している。

脚本が弱いのだ。かつての黒沢映画なら、脚本はチームを組んで十分に練られていた。今回は「夢」と同じく黒沢ひとりで書いている。映像のスケッチとしての意味合いが濃かった「夢」では脚本の比重は大きくなかった。今回はどうしても優れた脚本がなければ、成立しない類の話なのである。

今の黒沢にもっとも必要なのは、脚本の共同執筆者なのだと思う。完壁な映像と極めて平凡な脚本。「八月の狂詩曲」にはアンビバレンツな思いを抱かざるを得ない。30作目となった黒沢映画が、これで最後にならないことを強く願う。(1991年6月号)

【データ】1991年 1時間38分 黒沢プロ
監督・脚本:黒沢明 原作:村田喜代子 撮影:斎藤孝雄 上田正治 音楽:池辺晋一郎
出演:村瀬幸子 吉岡秀隆 大浜智子 鈴木美恵 伊崎充則 リチャード・ギア

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