両腕を切断され、枯れ木を代わりに刺され、舌を切り取られた女が沼地にたたずむ。シェイクスピアの初期の戯曲「タイタス・アンドロニカス」を映画化したこの作品にはこういう悪夢のようなイメージが随所に登場する。復讐に次ぐ復讐を描いた原作も残酷なもので、映画化、舞台化の例は少ないそうだが、舞台版「ライオンキング」を高く評価されたジュリー・テイモアは舞台の技術を大胆に取り入れて映像化している。いや、大胆にという言い方は少し違うかもしれない。恐らく、ジュリー・テイモア、この方法論しか知らないのである。ここで繰り広げられる映像は演劇的ではあっても映画的とは言えず、フェリーニやヴィスコンティの影響が色濃く感じられながら、そのどちらも凌ぐことは当然のことだができていない。登場人物が話すあまりにも演劇的なセリフを見ても、基本的にジュリー・テイモアは演劇の人であるのだなと思う。異色の映画でそれなりに見応えがあることは認めるが、力作にとどまったのは単に映画製作に関する技術が不足していたためだろう。
タイタス(アンソニー・ホプキンス)はローマ帝国で最高の戦士といわれる武将。ゴート族との戦いで25人の息子のうち21人を亡くしたが、勝利を収め、女王タモラ(ジェシカ・ラング)とその3人の息子を人質とする。タイタスは息子たちの霊を慰めるため、タモラの長男を生け贄に命じる。タモラは必死に命乞いをするが、タイタスは聞き入れず、タモラの深い怨みを買うことになる。その頃、ローマでは亡くなった皇帝の長男サターナイナス(アラン・カミング)とその弟バシアナス(ジェームズ・フレイン)が皇帝の座を巡って確執を繰り広げていた。ローマの護民官は民衆の支持が厚いタイタスを次期皇帝に選ぶが、タイタスは断り、サターナイナスを皇帝に選出した。邪悪なサターナイナスはタイタスの美しい娘ラヴィーニア(ローラ・フレイザー)を妃に指名。しかし、ラヴィーニアはバシアナスと愛し合っており、タイタスの息子たちは結婚を阻止しようとする。このためタイタスは息子の1人を自分の手で殺害してしまう。しかもサターナイナスはタイタスが献上したタモラを見て、その美しさから妃に迎える。権力を握ったタモラはタイタスへの残忍な復讐を開始する。ムーア人の愛人アーロン(ハリー・レニックス)とともに謀略を巡らせ、まずラヴィーニアを2人の息子に襲わせる。ラヴィーニアは口封じのため両腕と舌を切り取られることになるわけだ。
リドリー・スコットが「グラディエーター」で古代ローマを忠実に再現しようとしたのとは対照的に、ジュリー・テイモアは衣装やセットに意識的に異質のものを取り入れている。ナチスドイツを彷彿させる衣装、自動車やオートバイ、ゲームセンター、ネクタイを締めた登場人物などなど、映画の舞台は古代ローマではなく、どこか別の時代、別の場所にあるかのようだ。映画のリアリズムとは別の演劇的方法でテイモアは世界を構築しようとしたのだろう。観客に向かって話しかける登場人物などもそうだ。決して失敗はしていないが、それほどの効果も挙げていないのがつらいところ。個人的には不快な描写が多かった。
主人公のタイタスがアンソニー・ホプキンスの熱演をもってしても頭の良い男にはとうてい見えないのは脚本のまずさで、息子2人を助ける代わりに腕を切断しろとの条件をそのまま実行してしまうのでは単に愚かな男である。元々はタモラの息子を殺したことから生じた、身から出た錆のような復讐劇。タイタスにもタモラにも共感を持ちにくく、ラストにカタルシスもない。
【データ】1999年 アメリカ 2時間42分 ギャガ=ヒューマックス共同配給
監督:ジュリー・テイモア 製作:ジュリー・テイモア 原作:ウィリアム・シェイクスピア「タイタス・アンドロニカス」 脚本:ジュリー・テイモア 撮影:ルチアーノ・トボリ 音楽:エリオット・ゴールデンサル 美術:ダンテ・フレッティ 衣装:ミレーナ・カノネロ
出演:アンソニー・ホプキンス ジェシカ・ラング アラン・カミング ジョナサン・リース・マイヤーズ マシュー・リース ハリー・レニックス アンガス・マクファーデン ジェームズ・フレイン コーム・フィオール ローラ・フレイザー
パンフレットを眺めていたら、浴槽の中に鏡を仕込んだ撮影シーンがあった。なるほど、こんな風に撮影したわけか。本編では水を張った浴槽をのぞき込んだミシェル・ファイファーが別の女の顔を見つけて恐怖におののくシーンとなる。クライマックス、ファイファーとハリソン・フォードを床下から俯瞰したショットにはヒッチコックがよく使ったガラス張りの床も使われている。ロバート・ゼメキスはヒッチコックのように撮影に凝っているのである。映画の作りもアラン・シルヴェストリのまるで「サイコ」「めまい」のバーナード・ハーマンを思わせる音楽からしてヒッチコック映画の影響が感じられる。予告編では心霊ホラーとしか思えなかったし、実際にもこの部分が大変怖いのだが、これにヒッチコックやアンリ・ジョルジュ・クルーゾー「悪魔のような女」の味わいをプラスしているわけである。ただしゼメキスの怖がらせる演出は背後から「ワッ」と脅かすような場面が至るところにあって、あざとさが目に付く。前半の「裏窓」的シチュエーションはなかなかいいのだから、ここのサスペンスを基調にして映画を構成した方が好ましかった。心霊ホラーの苦手な僕はそう思う。
クレア・スペンサー(ミシェル・ファイファー)は科学者の夫ノーマン(ハリソン・フォード)とともにヴァーモントの湖の畔にある豪華な家に住んでいる。娘のケイトリンが大学に入って夫婦2人きりの生活。隣には最近、夫と同じ職場の夫婦が越してきた。夫婦仲が悪いのか、いさかいが絶えず、クレアは昼間、泣いている妻を目にする。さらにその夜、嵐の中を車のトランクに大きな荷物を詰め込む隣家の夫の姿を目撃した。いかにも不審な行動。心配したクレアは翌日、引っ越し祝いを兼ねて隣家に花束を持っていくが、家は無人の様子。しかもポーチには血のついたサンダルが落ちていた。その夜からクレアの家の中で不思議な出来事が続発する。風もないのにドアが開く、突然パソコンに電源が入る、そしてバスタブの中に女の顔が浮かぶのを見ることになる。隣家の妻は殺されたのか。クレアは次第に不安を募らせ、精神的に追いつめられていく。
以上が「裏窓」的なシチュエーション。ゼメキスはここをホラーのように演出している。ジェームズ・スチュアートとグレース・ケリーが優雅な会話を交わし、ロマンティックでユーモラスに始まった「裏窓」とは異なり、いきなりのホラーなのである。演出のタッチは最後までこの調子で気が抜けない。というか、ヒッチコックを引用してはいてもこの作品は予告編が示した通り(ストーリーは予告編で感じた通りではないが)ホラーそのものなのである。そして繰り返しになるが、ホラーとしてはとても怖い。それならば、前半のこのエピソードは何なのかということになる。このエピソードは途中であっさりと解決し、本筋が始まるのだが、そういう展開をするのであれば、ここが必要だったのかどうか、全体から見ると疑問に思わざるを得ない。
もう一つ、真相が明らかになった後に延々と続くクライマックスも手際が悪い。こういうことをやっているから上映時間が2時間10分にもなってしまうのである。このクライマックスの最後の部分は個人的には最も恐怖を感じたところだが、その前の部分、ミシェル・ファイファーが危機にさらされるスラッシャー的場面が長すぎるのである。どうもこの映画、いろんな要素をたくさん詰め込んだのがマイナスに働いてしまったようだ。技術的には高度なのにうまさを感じさせないのである。
【データ】2000年 アメリカ 2時間10分 配給:20世紀フォックス
監督:ロバート・ゼメキス 製作総指揮:ジョン・ブラッドショー マーク・ジョンソン 製作:スティーブ・スターキー ロバート・ゼメキス ジャック・ラプケ ストーリー:サラ・ケノシャン クラーク・グレッグ 脚本:クラーク・グレッグ 撮影:ドン・バージェス プロダクション・デザイナー:リック・カーター ジム・ティーガーデン 音楽:アラン・シルヴェストリ 衣装デザイナー:スージー・デサント 視覚効果スーパーバイザー:ロバート・レガート
出演:ハリソン・フォード ミシェル・ファイファー ダイアナ・スカーウィッド ジョー・モートン ジェームズ・レマー ミランダ・オットー アンバー・バレッタ キャサリン・トーネ レイ・ベイカー ウェンディ・クルーソン
発想はとても良かった。1984年に復活した「ゴジラ」シリーズの設定をすべてなかったことにして、1954年の「ゴジラ」第1作だけを生かし、新たな世界を作り上げている。つまり、1954年にゴジラに蹂躙されたため首都は東京から大阪に移り、1966年に東海村の原発を襲われたことで日本は原発を放棄したという設定。冒頭、ニュースフィルムでこれを簡単に紹介した後、映画は1996年の大阪で自衛隊特殊部隊とゴジラとの戦いを描く。ここで隊長の永島敏行が死亡。部下だった田中美里は憎しみを込めてゴジラに向けロケット・ランチャーの引き金を引く…。なんとドラマティックな幕開けだろう。このオープニングからすれば、映画は「エイリアン」シリーズのように戦うヒロインを描くものにならなければならなかったはずだ。しかし、いつものように怪獣プロレスと大差ないレベルに落ちてしまうのだ。しかもクライマックスに登場するメガギラスの造形はあまりにも失望を招くような着ぐるみ然としたもの。戦い方にも工夫が感じられない。初監督の手塚昌明の「新しいゴジラ映画を作ろう」という意欲は技術が追いつかなかったことでかなえられていない。志そのものは高く買うが、このレベルで満足していてはいけないのだと思う。
全体的に平成ガメラシリーズの影響が多く見て取れる。ヒロインのゴジラへの憎しみは「ガメラ3 邪神覚醒」だし、巨大昆虫メガニューラの群舞シーンは「ガメラ2 レギオン襲来」だ。加えてなぜゴジラは日本に来るのかという疑問にも説明があり、これがエネルギー開発と密接にかかわっているのは見識だろう。メガギラスは古代のヤゴ怪獣メガヌロンから成虫のメガニューラにふ化する。水没した渋谷のビルの壁から多数のメガニューラが一斉にふ化するシーンは出色の出来。無人島でのゴジラとの戦いも素晴らしい。メガニューラはここでゴジラに張り付き、エネルギーを吸い取って、その巨大化形態で戦闘能力が集約されたメガギラスを誕生させるのだ。ヤゴ怪獣メガヌロンは「空の大怪獣ラドン」の序盤にも登場し、炭坑の町で人間を次々に襲った。この映画では渋谷で男女2人が襲われる。この場面自体は悪くないのだが、「ラドン」版のように、あるいはギャオスのようにもっと凶悪に多数の人間を襲わせ、恐怖感を煽るべきだったのではないか。
古代の昆虫メガヌロンが現代に復活したのはゴジラへの最終兵器マイクロブラックホールの実験で時空が歪んだため。このマイクロブラックホールというアイデアが科学的ではない。「2メートルの大きさにブラックホールを縮小する」というセリフには苦笑せざるを得ない。ブラックホールを作った途端に地球はそれに吸い込まれてしまうだろうし(そもそも地球上で作れるとは思えない)、これをゴジラに打ち込むというような制御もできるわけがない。細部の科学的ガジェットのリアリティのなさは大きな欠陥で、これはガメラシリーズの伊藤和典のようにSFの分かった脚本家に書かせないとダメだろう。
84年に復活した「ゴジラ」は旧シリーズが怪獣プロレスと揶揄され、ゴジラを正義の味方にしてしまったことを反省して、ゴジラはあくまで人類の敵という設定を崩さなかった。それはそれでいいのだが、難しいのは新怪獣との対決のモチーフなのである。どちらの怪獣も人類の敵であるなら、なぜこの2匹の怪獣は戦わなければならないのか。これに明確に答えていたのは大森一樹「ゴジラVSキングギドラ」と正義の味方モスラを登場させた「ゴジラVSモスラ」(この方法は安易)ぐらいだろう。今回もまた2匹が戦う意味があまりない。この欠点を克服するような脚本でなければ、2匹の怪獣が力比べをするだけの怪獣プロレスの域を出るのは難しい。ガメラのように“地球生態系の守護神”との位置づけだってあるのだ。東宝にとって興行上の安全パイとなった「ゴジラ」シリーズの製作にはいろいろと制限があると思うが、新しいゴジラを作る気なら、ゴジラのキャラクターからもう一度考え直し、大人が見ても納得できる設定を考える必要がある。
【データ】2000年 東宝 1時間45分 配給:東宝
監督:手塚昌明 製作:富山省吾 脚本:柏原寛司 三村渉 撮影:岸本正広 美術:瀬下幸治 音楽:大島ミチル ゴジラテーマ曲:伊福部昭 造形:若狭新一 操演:鳴海聡 ビジュアルエフェクト・スーパーバイザー:岸本義幸 大屋哲男 小野寺浩 特殊技術:鈴木健二
出演:田中美里 谷原章介 勝村政信 池内万作 鈴木博之 山口馬木也 山下徹大 永島敏行 中村嘉葎雄 かとうかずこ 極楽とんぼ 伊武雅刀 星由里子
原題は神が6日目にしたこと、つまり人間を作った日を意味する。クローンをテーマにしたおなじみアーノルド・シュワルツェネッガーのSFアクションで、監督がロジャー・スポティスウッドなので、それなりに凝った映像を見せてくれる。ヘリコプターの場面をはじめSF的な小道具は良い出来である。ただ、ストーリー的には今ひとつ深みに欠ける。例えば、フィリップ・K・ディックの小説のような本物と偽物を巡る思索的部分などは皆無なのが惜しいところだ。アクションとしての映画化だから、仕方がないのだが、こういう大がかりなだけのアクションは古いパターンになりつつあるのではないかと思う。心底思うが、シュワルツェネッガーはもっときりっとした映画に出た方がいい。そろそろ方向転換しないと、ヤバイような気がする。おっと、これは去年の「エンド・オブ・デイズ」でも同じようなことを書いたのだった。つまり、シュワルツェネッガー、この1年間で少しも進歩していないのである。もはや正月映画の定番となりつつあるのだから、もう少し考えて欲しいものだ。
クローンの技術が確立したちょっと先の時代。人間のクローンは6d法という法律で禁止されていた。しかし、ペットのクローンは普通に行われている。アダム・ギブソン(アーノルド・シュワルツェネッガー)は郊外の家に妻と娘の3人で暮らすヘリコプターのパイロット。家のペットの犬が死に妻からペットの再生を頼まれる。仕事を同僚のハンク(マイケル・ラパポート)に頼み、リペット屋に行くが、気が進まない。帰りのタクシーの中でなぜか眠り込んでいたアダムは家に帰ると、もう1人の自分がいるのを見て愕然とする。しかも正体不明のグループが襲ってきた。アダムは危機一髪のところで逃れ、謎を探り始める。
同じ人間が何度も何度もクローンされるのが面白い。死の直前までの記憶も保持されるので、この技術を使えば、人間は不死を得たのと同じになる。ただし、個体としての死の記憶は残るわけで、死の恐怖だけは消えないのではないかと思う。こういう設定、SFの分かった監督や脚本家なら、もっと発展させていたはずである。例えば、デヴィッド・クローネンバーグなら、もっと迷宮的な要素を取り入れただろう。映画は6d法を破って、クローンを秘かに実行している組織と主人公との戦いに焦点を絞り、アクションを展開していく。スポティスウッドは水準的な演出を見せており、一般的にもこの方が受けるのかもしれないが、物足りないことも確かだ。
【データ】2000年 アメリカ 2時間4分 パイオニアLDC・日本テレビ・東宝東和共同配給
監督:ロジャー・スポティスウッド 製作総指揮:デヴィッド・コーツワース ダニエル・ペトリ・ジュニア 製作:マイク・メダヴォイ アーノルド・シュワルツェネッガー ジョン・デイビソン 脚本:コーマック・ウィバリー マリアンヌ・ウィバリー 撮影:マーク・コンティ プロダクション・デザイナー:ジェームス・ビッセル ジョン・ウィレット 音楽:トレバー・ラビン VFX:リズム&ヒューズ・スタジオ メイクアップ効果:アレック・ギリス トム・ウッドラフ・ジュニア 衣装:トリッシュ・キーティング
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー トニー・ゴールドウィン ロバート・デュバル マイケル・ラパポート マイケル・ルーカー サラ・ウィンター ウェンディ・クルーソン ロドニー・ローランド テリー・クルーズ