映画が始まって、豆腐屋の孫娘が殺され、雑誌記者のダンナが殺され、その他何人かの女が殺されるまでの描写は非常に雑である。いったい何人殺されたのかも分からず、本来ならじっくり描くべき豆腐屋のじいさん(山崎努)の無念の思いもあっさり流れている。感情移入しようがないような簡単な描写に終始して、とりあえず原作の設定を話し終えましたという感じ。
ところが、ピース(中居正広)が出てきて、グッと調子が変わる。中居正広が好演しているのである。森田芳光のライト感覚と中居正広の軽い演技は合っているのだろう。ここからそれまでとは違う映画になり、描写も丁寧になる。頭はよいが、どこかねじれた方向に行ってしまったピースと浩美(津田寛治)の関係はなかなかいいし、それまでの話をピースの視点で語り直すのも面白い。この部分はなんとなく「アメリカン・サイコ」を思わせる話なのだが、残念なことに「アメリカン・サイコ」同様、犯人が殺人を続ける理由にあまり説得力がない。
森田芳光監督としてはシリアル・キラーを描くことよりも犯人と山崎努の対決に(山崎努が犯人役を演じた黒沢明「天国と地獄」のように)話を絞っていくのが狙いだったようだ。しかし、犯人の動機や背景を十分に描いてくれないと、こういう話は面白くならないのだ。中居VS山崎の構図、つまりゲーム感覚の殺人犯と真っ当な遺族という構図は常識的、道徳的な結論に至り、意外性はない。最後に赤ん坊を出してくるあたり、これまた黒沢明の「羅生門」を意識したのではないか。そして「羅生門」のあのヒューマンなラストにがっかりさせられたように(これがいいという人も多いだろうが)、この映画もまたこの取って付けたようなラストにがっかりさせられることになる。
原作は上下2巻の膨大なものだから、森田芳光は最初から細部の描写を放棄している。エピソードを端折って端折って端折ってしまった結果がこの脚本なのだが、宮部みゆきの原作がスティーブン・キングを思わせるような描写とキャラクターの小説であるのに対して話が簡単なものになってしまった。本筋とは関係ないテレビCMをいくつもわざわざ作ったりするのが森田芳光らしいところなのだが、そういう部分とこのストーリーは相容れないものである。
中居正広はいいのだが、原作の犯人のような冷たさが感じられないのが難。殺人を犯すシーンはなく、それがこの映画を軽い感じのものにした要因と思う。映画の作りもゲーム感覚なのである。
【データ】2002年 2時間4分 配給:東宝
監督:森田芳光 製作:島谷能成 亀井修 安永義郎 棚次隆 企画:鶴田尚正 中島健一郎 北條茂雄 青山悌三 プロデューサー:本間英行 アソシエイト・プロデューサー:市川南 春名慶 堀口慎 原作:宮部みゆき「模倣犯」 脚本:森田芳光 撮影:北信康 美術:桜井佳代 音楽:大島ミチル
出演:中居正広 藤井隆 津田寛治 木村佳乃 山崎努 伊東美咲 田口淳之介 藤田陽子 寺脇康文 小池栄子 平泉成 城戸真亜子 モロ師岡 村井克行 角田ともみ 中村久美 小木茂光 由紀さおり 太田光(爆笑問題) 田中裕二(爆笑問題) 吉村由美(PUFFY) 大貫亜美(PUFFY) 佐藤江梨子 坂下千里子 清水ミチコ 山田花子
ビクターの横浜工場ビデオ事業部がVHSを開発し、発売にこぎつけるまでの苦闘を実話に基づいて描く。NHKの「プロジェクトX」でも描かれたそうで、実際、予告編では中島みゆきの主題歌(「地上の星」)が流された(本編にはない)。この番組、あまり見ていないが、映画が大仰に感動の押し売りになっていたら嫌だなと気構えて見た。監督デビューの佐々部清はそういう危惧を払拭するように手堅く真摯にまとめている。西田敏行がいつものような熱演タイプの演技であるとか、主人公の家族の描写に時間を割いている割にはあまり効果を挙げていないとか、デビュー作につきまとうさまざまな瑕疵はあるにせよ、一本筋の通った映画に仕上がっており、上々の出来と言える。佐々部清は崔洋一、和泉聖治、杉田成道、降旗康男らの助監督を10年務めたそうだ。助監督からたたき上げの監督、つまり技術をしっかりたたき込まれた監督が技術者の映画を撮るというのも実にぴったりである。この題材をデビュー作に選んだ監督の思いが伝わる作品になっている。
主人公の加賀谷静男(西田敏行)は日本ビクターの開発技師。あと数年で定年を迎えるところで、横浜工場のビデオ事業部長の辞令が下る。高卒の加賀谷が事業部長となるのは異例だったが、実は業務用ビデオを生産する横浜工場はビクターのお荷物的存在。体のいい左遷だった。不況にあえぐビクターは全部門に2年間で20%の人員削減を命じる。横浜工場の人員は241人。加賀谷には50人近い人員のリストラを課せられたことになる。しかし加賀谷は「1人の首も切りたくない」と営業に力を入れ、家庭用VTRの開発で人員を守ろうとする。
そんな努力も虚しく、SONYが一足先にベータマックスを発表してしまう。ベータマックスの録画時間は1時間。加賀谷たちは野球や映画の録画には2時間の録画時間が必要と考え、残業を重ねて、可能な試作機のVHS(Video Home System)を完成させた。通産省はVTRの規格が乱立することを恐れ、家電業界に統一を促す(國村隼が憎々しい通産官僚を好演)。業界はベータマックスの導入に傾き、ビクター上層部もベータを選択しようとする。ここでビクターがベータを選べば、工場のスタッフの努力が水の泡になる。加賀谷は互換性の重要さを第一に考え、世界規格を目指してVHSの技術を公開。親会社の松下電器をVHS陣営に引き入れるため、松下幸之助(仲代達矢)に直訴し、VHSの優秀さを訴える。
映画の中に時代を示すテロップは出てこないが、1973年から76年までを描いているそうだ。リストラされるサラリーマンの悲哀は現在にそのまま通じるものだし、目頭を熱くさせる描写がところどころにある。部下を救うために必死の努力を重ねる西田敏行の姿もいいが、それを補佐する次長の渡辺謙や下請け工場の社長を演じる井川比佐志、加賀谷たちの努力をくんでVHSの発売を決めるビクター社長夏八木勲らが好演している。特に渡辺謙が西田敏行とともに大阪に向かう車の中で見せる演技はそれまでの伏し目がちな控えめさとは対照的にうまい。こういう普通の感動作が日本映画にはもっと必要だろう。いや感動作でなくとも、奇をてらうことなく普通のしっかりした映画を作れば、観客はもっと邦画に足を向ける。オーソドックスなものは強いのである。
【データ】2002年 1時間48分 配給:東映
監督:佐々部清 製作:高岩淡 原作:佐藤正明「映像メディアの世紀 ビデオ・男たちの産業史」 脚本:西岡琢也 佐々部清 撮影:木村大作 音楽:大島ミチル 美術:福沢勝広 新田隆之
出演:西田敏行 渡辺謙 緒形直人 真野響子 篠原涼子 中村育二 田山涼成 蟹江一平 樹音 江守徹 倍賞美津子 國村隼 津嘉山正種 石橋蓮司 井川比佐志 夏八木勲 仲代達矢
山本周五郎の「なんの花か薫る」と「つゆのひぬま」を黒沢明が脚本化。自分で撮るはずだったが、その願いをかなえられないまま黒沢は他界した。それを黒沢プロの依頼で熊井啓が映画化した。黒沢だったら、クライマックスの暴風雨と洪水のシーンはダイナミックな映像を見せてくれたはずだが、熊井啓はそういう部分があまり得意ではない。物語を収斂させていくこの部分が弱いので映画全体もなんだか締まりに欠け、焦点が定まらない印象になった。緩やかに増えていく水の描写はのんびりしており、画面に生きるか死ぬかの緊迫感が足りないのである。
もっとも、それ以前の部分も決して出来がいいわけではない。前半は深川の岡場所を舞台に遊女・お新(遠野凪子)が刃傷事件を起こして勘当された侍・房之助(吉岡秀隆)に抱く純な思いを描く。「こんな商売をしていても、きっぱりやめれば汚れた身体もきれいになる」という言葉に心動かされたお新と仲間の遊女たちはお新の客を代わりに引き受け、お新と房之助の結婚を夢見るようになる。ところが、房之助はお新との結婚などまったく考えていなかった。本人にはまったく悪意はなく、単なる鈍感で善良な男なのだが、迷惑なやつであることに変わりはない(“こんな商売”という言い方も気になる)。遊女たちの勘違いから端を発したことを考えれば、これは軽妙な話のはずなのに、遠野凪子の演技はシリアス。この設定でシリアスに来られると、戸惑わざるを得ない。熊井啓の演出もメリハリに欠け、まじめすぎると思う。
後半は不幸な身の上の良介(永瀬正敏)を好きになるお新と、お新の姐さんに当たる菊乃(清水美砂)のエピソードが絡む。菊乃は武家の出身だが、ヒモの銀次(奥田瑛二)から離れられず、吉原から渡り歩いてきた。材木商の隠居・善兵衛(石橋蓮司)から身請け話が進むが、銀次から別の岡場所へ売られそうになる。そこへ暴風雨と洪水が押し寄せるわけである。永瀬正敏も清水美砂も石橋蓮司もうまいし、話自体も悪くない。この後半だけを膨らませても良かったのではないか。前半のエピソードからすぐに後半の別の話に移行するこの脚本、決してうまいとは言えないと思う。2つの短編をただつなぎあわせるのではなく、並行して描いた方が良かっただろう。「隠し砦の三悪人」や「七人の侍」など絶頂期の黒沢の映画が面白かったのは脚本をチームで書いていたからで、晩年、黒沢が単独で書いた脚本には感心する部分はあまりなかった。
遠野凪子は昨年の「日本の黒い夏 冤罪」に続く熊井啓映画への出演となる。頑張ったあとはうかがえるが、まだまだだと思う。演技の引き出しが少なく、表現力も足りない。笑顔や泣き顔を見せるだけではダメである。微妙な感情表現の仕方をもう少し身につけてほしい。これはある程度、人生経験も伴わないと難しいだろう。ちなみにこの作品、カンヌ映画祭に出品しようとしたが、できなかった。カンヌの事前審査に通らなかったらしい。つまり予選落ち。もしかしたら、内容が外国人には分かりにくかったのではと思っていたが、これぐらいの出来であるなら、予選落ちも仕方がない。
【データ】2002年 1時間59分 配給:ソニーピクチャーズ・エンタテインメント 日活
監督:熊井啓 製作総指揮:中村雅哉 製作:町田治之 宮川鉱一 安藤孝四郎 里見治 鳥山成寛 依田弘長 堀龍俊生 小川祐治 企画:黒沢久雄 プロデューサー:猿川直人 原作:山本周五郎「なんの花か薫る」「つゆのひぬま」 脚本:黒沢明 撮影:奥原一男 美術:木村威夫 音楽:松村禎三 製作協力:黒沢プロダクション
出演:清水美砂 遠野凪子 永瀬正敏 吉岡秀隆 つみきみほ 河合美智子 野川由美子 鴨川てんし 北村有起哉 加藤隆之 土屋久美子 石橋蓮司 奥田瑛二
話はテレビシリーズが終わった後の設定で、番外編と言っていい内容。昨年公開された「ウルトラマンコスモス」(未見)はテレビシリーズが始まる前の話だったので、2つの映画にテレビを挟む構成となる。テレビシリーズの後なので、ムサシ=コスモスということはチームEYESのメンバーは知っている。しかし、ムサシはコスモスと別れたため、自由に変身できないというのがポイントか(単なる設定にとどまっているが)。SFXはテレビよりはるかにましだが、話に破綻はないにしても今ひとつ新鮮さがないし、引きつけられる部分もない。監督の北浦嗣巳は「特撮怪獣映画」を目指したそうだが、ゴジラやガメラのような怪獣映画はまず怪獣の魅力を十分に伝えるところが基本にある。怪獣スコーピスは出自もはっきりしないし、その親玉のサンドロスもただ強いだけである。基本的にはスーパーヒーローもののテレビの話を引き伸ばしただけという感じが拭いきれない。怪獣映画の分かる脚本家を入れた方が良かっただろう。
ムサシ(杉浦太陽)はチームEYESを離れ、宇宙飛行士になっている。調査のため向かった遊星ジュランは死の星になっていた。砂漠を好む怪獣スコーピスが破壊したらしい。ムサシの宇宙船も狙われるが、そこへコスモスが現れ、ムサシを救う。というのがタイトル前の部分。地球に帰ったムサシは友人の結婚式に出るためサイパンへ行く。幼なじみのマリ(西村美保)とダイビングした際、巨大な怪獣レイジャと遭遇。ムサシはけがを負い、マリは行方不明となる。レイジャは海底に住むギャシー星人が操っていた。ギャシー星人はスコーピスに星を破壊され、地球に秘かに逃げてきていたのだった。ギャシー星人のシャウ(斉藤麻衣)は人間に理解を示すが、ジーン(松尾政寿)は強い警戒心を抱いている。そこへスコーピスが襲来。シャウと一体化し、スコーピスに立ち向かったレイジャ(このデザインはまるでデジモン)は、反対にやられてしまう。ギャシー星人とムサシの交流を描きつつ、映画は後半、北九州を舞台にスコーピスとそれを操るサンドロスに立ち向かうムサシとコスモスの活躍を描く。
ウルトラマンシリーズの映画化の中では良い部類に入る出来と思う(これまでの映画化のレベルが低すぎるのだ)。ただ、話は予定調和の中で進行し、子ども向けの域を出ることはない。仮面ライダーシリーズがクウガから新しい領域に踏み込んだのとは対照的にウルトラマンはなかなか脱却できないようだ。俳優の魅力にも乏しい。杉浦太陽の演技はテレビでは気にならないぐらいのレベルだが、スクリーンで見ると、稚拙さが目に付く。併映の「新世紀ウルトラマン伝説」は20分程度の短編。過去のウルトラマンシリーズの各場面をつないでいく構成で、懐かしい映像も。ウルトラセブンが十字架に磔にされる場面を見て、その劇的な映像の力をあらためて感じた。セブンシリーズはやはり名作。こういうドラマティックな場面がコスモスにも欲しい。
【データ】2002年 配給:松竹
監督・特技監督:北浦嗣巳 製作:迫本淳一 東聡 角田良平 児玉守弘 門川博美 天野彊二郎 浜田順一 脚本:長谷川圭一 川上英幸 撮影:大岡新一 美術:大沢哲三 衣装デザイン:小暮恵子 音楽:矢野立美 監修:高野宏一
出演:杉浦太陽 斉藤麻衣 西村美保 松尾政寿 風見しんご 斉藤りさ 加瀬尊朗 中村浩二 杉本彩 嶋大輔 坂上香織 木之元亮 嶋田久作 高樹澪 赤井英和 石坂浩二(ナレーション)