宣戦布告

「宣戦布告」チラシ明らかに北朝鮮がモデルの北東人民共和国の潜水艦が福井の海岸に座礁して乗組員11人が山中に逃げ込む、というのが発端。乗組員は特殊工作員らしく警察の武器では歯が立たない。自衛隊の出動となるが、そこまでの法的手続きクリアに大きな困難が伴う。自衛隊が出動すれば、北は“宣戦布告”と見なす、と政府首脳の間では喧々囂々の論議となる。加えて射撃にも許可、手榴弾使用にも許可、ヘリのバルカン砲使用にも許可が必要で、許可を待っている間に警察官や自衛隊員はバタバタと敵の銃弾に倒れる…。主人公は古谷一行演じる諸橋首相。これは政府の立場から有事の際の日本の弱さ(自衛隊の弱さも?)を描いた映画で、有事法制推進映画と受け取られてしまいかねない側面がある(そんな主張もあるのかもしれない)。残念なことに前半から描写は荒っぽいし、全体としては「トータル・フィアーズ」の縮小版のような感じである。北の目的は最後まで明らかにされない。北を単なる正体不明の仮想敵国としてだけ描くのでは「トータル・フィアーズ」よりも後退した作りと言わざるを得ない。周辺事態のシミュレーションならば、もっと緻密な組み立てが必要だっただろう。予算が少なかったとはいえ、アクション場面は悪くなく、エンタテインメント志向も買うが、大仰な語り口は興ざめだし、これぐらいのレベルで誉めてはいけないと思う。

麻生幾の原作を石侍露堂(せじ・ろどう)監督が映画化。昨年のうちに完成していたという。映画はクライマックスにアメリカ、中国、韓国、台湾など周辺国が次々に一触即発の戦闘態勢に入り、一気に緊張が高まる様子を描く。宣戦布告もなく戦争が始まろうとしているのだ。ただ、この緊張感は長く続かず、そこからの描写がやや腰砕けになってしまう。一つの偽情報が国の方針を変えるというのは甘い認識と言うほかない。動き出した歯車をどう止めるのか。それにもっと説得力を持たせる必要があったし、もっともっと重点的に描いてほしかった。監督はパンフレットに、(完成して間もなく起きた米同時テロによって)「時代遅れの映画が一夜にして『現代の映画』になったのです」と書いているが、それを言うなら、昨年暮れの不審船事件の方だろう。現実の北と日本の関係が大きく変化する中で公開されたこの映画は、良きに付け悪しきに付け、批判される運命にある。

日本は平和憲法を持っている以上、自衛隊に手枷足枷をかけているのは当然のことだ。それがシビリアン・コントロールというものである。これに対する批判は国際紛争の解決として武力を永久に放棄した日本国憲法に反する。だから、この映画を材料にして、日本は有事への備えをしなければならないという主張をする人がいたら、笑止で幼稚なレベルのことと言わねばならない。それにしても、この程度の映画を製作するのにも、政府首脳から圧力があったというのは本当か。よくよくレベルの低い政治家がいたものだ。

内閣調査室が北のスパイを追う過程を見せるサブプロットは悪くなかった(白島靖代の金で雇われた女スパイがよろしい)。ここを十分に描けば、映画はもっと面白くなっていたのではないかと思う。

【データ】2001年 1時間46分 配給:東映
監督:石侍露堂 製作:石侍露堂 プロデューサー:増田久雄 和田康作 原作:麻生幾 脚本:小松與志子 石侍露堂 撮影:阪本善尚 音楽:礒金俊一 岩渕一真 二本柳一明 米村武 美術:福澤勝広
出演:古谷一行 杉本哲太 石田太郎 天田俊明 鶴田忍 西田健 中田浩二 河原崎健三 小野武彦 夏木マリ 財津一郎 多岐川裕美 岡本富士太 深水三章 木之元亮 塩屋翼 田中実 白島靖代 池内万作 佐藤慶 夏八木勲

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OUT

「OUT」パンフレット桐野夏生のベストセラーを「愛を乞うひと」の平山秀幸監督、鄭義信(チョン・ウィシン)脚本のコンビが映画化。原作は未読だが、脚本は重苦しい原作の雰囲気を払拭するよう努力したそうだ。その成果で、これは生活に疲れた中年女性が日常からOUTしていく様子を描いて見応えのある映画に仕上がった。原田美枝子と倍賞美津子が日常をどんどん踏み外していく様子はブラックなユーモアを交えて描かれ、だからといってリアルさも失わず、「テルマ&ルイーズ」を思わせる。優れた映画化だと思う。惜しいのはブラックユーモアが先走りしすぎた場面があることで、原作ではどうなっているのか知らないが、死体解体の腕を見込まれてビジネスにするあたりがちょっと浮き足立ってしまった(「年寄りは脂肪が少ないから楽ね」という倍賞美津子のセリフがおかしい)。しかし、平山秀幸の演出は夢に向かって進む原田美枝子に十分な説得力を持たせており、部屋に閉じこもって口をきかない息子とリストラされた夫を持つ中年主婦の息苦しさから解放されていく様子が映画の気持ちよさにつながっている。主人公は結果的に日常から弾き出されてOUTするのだが、その後は能動的な存在に変わる。主人公の行く末は決して安楽なものではないだろうが、希望を持たせたまま終わるラストは、だから当然の処理といっていい。平山秀幸はユーモアとリアルの案配をよくわきまえている。ユーモアは人柄からにじみ出るもので、必然的に人間を深く描く必要があるのだ。

もともとは夫から暴力を受け続けている弥生(西田尚美)が寝ている夫を発作的に殺してしまったことが発端。この場面、この映画にとってはそんなに重要じゃないよ、という感じでてきぱきと進む(DVなんかがテーマではないのだ)。弥生から泣きつかれた雅子は死体を預かり、処理に困って解体する羽目になる。1人での解体はとても無理で、“師匠”のヨシエに協力を頼む。たまたま雅子に金を借りに来た邦子(室井滋)も巻き込み、こうしてそれぞれに不幸な女4人は共犯関係になってしまう。この解体シーンは映画のポイントなので、描写もしっかりしているうえにおかしい。死体の解体は日常を守るために行わなければならなかったことだが、死体の首に包丁を押し込んだ瞬間、雅子は絶望的な日常から足を一歩抜け出したのだろう。

中盤、ヨシエ(倍賞美津子)が「知床のオーロラが見たい」と夢を語る場面がある。毎日10円ずつ貯金すれば、1年で3650円、10年で3万6500円になる。それぐらいあれば、ちょっとした旅行ぐらい行ける。しかし義母の介護を続けながら弁当工場で働くヨシエには暇も金もなく、それは単なる夢よ、と雅子(原田美枝子)に笑って話すのだ。ここは何でもない場面なのだが、2人の女優の演技がバチバチと火花を散らす。そして、雅子は終盤、その夢を引き継ぐようにオーロラを目指して北海道へ向かう。北海道からアラスカへと、オーロラへの夢を膨らませる雅子は、オーロラを見ても何も変わらないことを知っている。同時に何か目的を持つことが明日への力になること、退屈な日常から飛翔する手段になることを雅子は知っているのである。その姿は「明日に向って撃て!」の絶望的状況の中でオーストラリアへの夢を語ったポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを思い起こさせ、平山秀幸の世代を考えれば、これはきっとアメリカン・ニューシネマあたりをも意識しているのではないかと思えてくる。

4人の女優それぞれにいいが、やはり原田美枝子と倍賞美津子が出色。特に原田美枝子はこれが代表作になるのではと思える。消費者金融の十文字(香川照之、相変わらずうまい)から口説かれて、まんざらでもない様子をうかがわせる場面(家に帰ってペティキュアを塗る)や、十文字が福岡へ向かうバスの中からかけた別れの電話に「キスぐらいしておけばよかったわね」と答える場面など、中年女性の貫禄という感じである。

【データ】2002年 1時間59分 配給:20世紀フォックス
監督:平山秀幸 製作:古澤利夫 木村典代 製作総指揮:諸橋健一 プロデューサー:中條秀勝 藤田義則 福島総司 原作:桐野夏生 脚本:鄭義信 撮影:柴崎幸三 美術:中沢克己 音楽:安川午朗
出演:原田美枝子 倍賞美津子 室井滋 西田尚美 香川照之 間寛平 大森南朋 千石規子

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なごり雪

「なごり雪」パンフレット「または、五十歳の悲歌(エレジー)」とサブタイトルが付く。28年前、22歳で名曲「なごり雪」を作った伊勢正三も50歳。主演の三浦友和もベンガルも50歳だそうだ。確かにこの映画はそうした中年男たちの悔恨と苦渋に満ちた回想を描く映画でもあり、回想を終えた主人公は現在の孤独で空虚な日常を脱却するために「一生懸命に生きる」という気概を持つことになるのだが、こちらが感動するのは回想の中で描かれる青春のほろ苦さと残酷さ、純粋でひたむきな少女の姿にある。雪がめったに降らない臼杵の街に雪が降るとき奇跡が起きると信じ、恋する人との約束を信じて春を待ちわびる少女。その姿を大林宣彦は鮮烈に描き出して見せた。同じく回想で描かれるチャン・イーモウ「初恋のきた道」とは正反対に、少女の思いは通じず、恋は実らなかったが、その懸命な姿にはやはり涙せざるを得ない。大林宣彦は素晴らしい映画を作ったと思う。「なごり雪」という名曲はこの映画を生むために28年前に生まれたのではないかとさえ思える。パンフレットで伊勢正三が「僕はまず『なごり雪』という歌を、こんなに大切に扱っていただいたことに感動しています」と話しているが、分かりすぎるぐらいによく分かる。日常生活のすべてを放り出して見る価値のある希有な傑作であり、もちろん、今年のベスト。

「妻が…、雪子が死にかけている。祐作、帰ってきてくれないか、臼杵に」。28年間連れ添った妻から逃げられ、戯れに遺書を認めようとしていた梶村祐作(三浦友和)に故郷の臼杵にいる水田健一郎(ベンガル)から電話がかかってくる。水田の言葉に動かされた祐作は新幹線から日豊線を乗り継いで28年ぶりに臼杵に帰る。雪子は交通事故に遭い、全身を包帯で巻かれ、病院のベッドに横たわっていた。そして祐作と水田は雪子と出会い、別れた日々を回想することになる。全編のハイライトは祐作(細山田隆人)を愛した雪子(須藤温子)が東京に帰る祐作を臼杵駅で見送る場面にある。雪子はここでこう言う。

「…わたし今は駄目だけど、来年の春までには、きっと綺麗になる。うんと綺麗になって、あなたを驚かせてあげるわ。…だから帰ってきて。…」

「…今度この駅のホームであなたと会う時、あなたは言うわ。きっと、こう言うわ。…春が来て君は綺麗になったって。…去年より、ずっと綺麗になったってね」

祐作は東京の大学に入って、2年目の夏休みに女友達のとし子(宝生舞)を連れて故郷の臼杵に帰ってくる。冬休みと春休みに帰らなかったのは大学生活が忙しかったからだと雪子に説明するのだが、ふとしたことで実はとし子とスキー合宿に行っていたことが雪子に分かってしまう。だからこのセリフの前に雪子はこう言っている。

「冬休みの事は、わたし諦めます。又志賀高原のスキー合宿でしょう。大学生活の為には、それも大切ですもの。でもお願い、春には帰ってきて。今度の三月でわたしは十七歳。わたしあなたに約束するわ。…」

雪子はとし子から祐作を取り戻したい一心でこのセリフを言うのである。大学1年の夏休みに祐作が帰ってきた時は夢に見るような幸福な日々だった。それがたった1年で変わってしまった。そんな思いが故郷で祐作の帰りを待ちわびる雪子にはあったのに違いない(この設定には「なごり雪」だけでなく、「木綿のハンカチーフ」のモチーフも入っていると思う)。雪子の思いが決定的に崩れるエピソード、祐作が故郷に戻らなくなる要因となったエピソードが実は誤解に基づくものであったということが終盤に分かる。この誤解が明らかになる時、映画は小さな奇跡を用意している。リアルに描かれる映画であるからこそ、このファンタスティックな場面が効いている。そして祐作は「違う、違う」と叫んだ雪子の真意を知った時、再生への勇気を得ることになる。

大林宣彦はこの映画でロマンティシズムの復権を図ったのだと思う。撮影に入って、2日目で米同時テロがあり、大林宣彦はこう決意したという。「だからこそ僕は『なごり雪』では穏やかでチャーミングな映像を撮ろうと思いました。『なごり雪』の映像を見れば、あんな破壊の映像なんか観たくないと、みんなに思わせるものにしようと」(キネマ旬報10月上旬号)。それはつまり、大林にとって初心に返るということでもあるのだろう。この映画の須藤温子は尾道3部作の第2作「時をかける少女」の原田知世のように素敵だ。物語が終わった後に描かれる4人の男女が臼杵駅に並んでいる場面で、須藤温子がカメラに向かって来る姿は「時をかける少女」の原田知世のように演出されている。

俳優たちのセリフ回しが実にいい。まるで増村保造の映画を見るよう(大林宣彦はセリフをぜんぶ朗読するように演出したそうだ)。これは言葉に重きを置いた映画なのである。その効果で増村映画の主人公にあった切実さをこの映画の登場人物たちも受け継ぐことになった。時代背景が70年代であれば、それも当然のことだ。ベンガルの若い頃を演じる反田孝幸のまるで山本周五郎の小説に出てくるようなキャラクターも含めて、役者がことごとく良く、この美しくて切なくて哀しい物語にリアリティを与えている。

【データ】2002年 1時間51分 配給:大映
監督:大林宣彦 製作:大林恭子 工藤秀明 山本洋 原案:伊勢正三「なごり雪」 脚本:南住根 大林宣彦 撮影:加藤雄大 音楽:學草太郎 山下康介 伊勢正三 美術:竹内公一 衣装:千代田圭介
出演:三浦友和 細山田隆人 ベンガル 反田孝幸 須藤温子 宝生舞 日高真弓 田中幸太朗 斎藤梨沙 長澤まさみ 津島恵子 左時枝 小野恒芳 大谷孝子 広瀬大亮 

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Dolls(ドールズ)

「Dolls ドールズ」パンフレット北野武監督の第10作。ベネチア映画祭ではかすりもしなかったという作品である。評判はあまり良くなかったので期待しなかったが、そんなに悪い出来ではない。最初の30分ほどをもう少してきぱきと見せれば、もっと良くなっただろう。映画の中心となる「つながり乞食」のモデルはパンフレットによると、北野武が大学を辞めて浅草で働いていた頃に見た男女を基にしているという。赤い紐で結ばれた男女が美しい風景の中を歩くイメージにはインパクトがある。インパクトはあるが、話の作りはうまくない。最初の30分で映画は2人の過去を説明するのだが、ここの手際が悪い。演出が律儀すぎる感じがある。2人は正体不明のオブジェにしてしまって、他のエピソードを語った方が良かったのではないか。赤い紐の男女を含めて、映画で描かれる3つの話に共通するのは深すぎる愛、あるいは異形の愛を描いていること。それぞれに悪くはないが、オムニバス形式になるところを無理矢理に話をつないだ感もある。赤い紐の男女を描くのなら、あとの2つのエピソードを大きく扱う必要はないし、愛の深さを描くのなら、赤い紐の男女のエピソードをもう少しうまく演出する必要があっただろう。

結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を捨てて社長令嬢と結婚式を挙げるところだった松本(西島秀俊)は佐和子が自殺未遂を起こし、精神に異常を来したと知らされる。松本は結婚式を放り出して病院に駆けつけ、佐和子を連れて放浪の旅に出る。車の中で暮らすホームレス同然の生活。2人はやがて車を捨てて歩き出す。赤い紐は佐和子が勝手に歩き回らないようにするためだ。2人の行く末はこの状態から容易に想像できる範囲のところにある。映画はこのほかに2つのエピソードを語る。一つは松原智恵子演じる初老の女が何十年も2人分の弁当を作って公園で男を待ち続ける話。男は不況のため務めていた工場を辞め、「立派になって迎えに来る」と言い残して姿を消す。女はそれ以来、毎週土曜日に弁当を持ち、待ち続けているのだった。ヤクザの親分になった男(三橋達也)は数十年後に公園に行き、女の姿を見つける。もう一つはアイドル歌手の追っかけの男(武重勉)のエピソード。アイドル(深田恭子)が顔にけがをして引退したのを知り、男は自分の目を潰して会いに行く。「たぶん、見られたくないだろうと思って」と男はアイドルに言うのである。これは北野武が自分で言っているように「春琴抄」そのままの話である。

北野武が最初に意図したのは日本の四季の風景を美しく撮ることらしく、その点に関しては桜並木や紅葉の森や雪景色が十分に美しく撮られているので成功はしている。北野武はイメージ先行型の演出家なのだな、と思う。問題はイメージをうまく話に組み立てていく技術で、これはしっかりした脚本家が補佐した方がいいだろう。タイトルのDollsは山本耀司の衣装を身にまとい、人形のような赤い紐の2人をイメージしていることは分かるのだが、だからどうしたという感じである。冒頭で描かれる文楽の「冥土の飛脚」がほとんど意味をなさないのもうまくない。

菅野美穂を映画で見るのは個人的には「エコエコアザラク」「富江」以来。テレビのバラエティ番組で笑顔を振りまく好感度もいいが、こうした無表情な役柄も似合っていると思う。

【データ】2002年 1時間53分 配給:松竹 オフィス北野
監督:北野武 プロデューサー:森昌行 吉田多喜男 脚本:北野武 撮影:柳島克己 衣装:山本耀司 音楽:久石譲 美術:磯田典宏
出演:菅野美穂 西島秀俊 三橋達也 松原智恵子 深田恭子 武重勉 岸本加世子 津田寛治 大家由祐子 大杉漣 清水章吾 金沢碧 大森南朋 大塚よしたか 西尾まり 吉沢京子 アル北郷 種子 紀伊修平 モロ師岡

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