映画とネットのDIARY(tDiary版)

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2004年10月30日 [Sat]

HTML版『スタイルシートWebデザイン』

「スタイルシートWebデザイン」の表紙「PC関係本は寿命が短いのが運命でして、2003年初頭に本書も絶版」となったため、HTMLにして公開したとのこと。著者はこの本を書いた時、24歳だったという。僕もスタイルシートはこの本で勉強させてもらった。HTMLでの無料公開は大変有益なことだと思う。アーカイブも配布している。

この本、技術評論社から出ていたもので、価格は1,980円だった。初版は平成10年8月10日。僕が持っているのは同年12月1日発行の第2刷。最初は読んでもわけが分からなかった。辞典的な本ではないし、初心者向けではないけれど、スタイルシートの考え方がよく分かり、詳しくて良い本だ。

tDiary支援マクロ

 自分で使っているのはリンク挿入や画像挿入機能を付けているが、原型はこんな感じ。マクロを実行すると、名前がない場合は20041030diary_1.txtとその日の日付にdiary_1と付けて保存する。上書きしないように同名ファイルがある場合はdiary_2、diary_3と連番で名前を付けていく。
//tDiaryWriter.mac
//日記を保存するフォルダ
$dir = "C:\\tdiary";
//日記更新に使うブラウザ
$browser ="C:\\Program Files\\sleipnir\\Sleipnir.exe";
//日記更新ページのURL
$update = "http://foo.bar.ne.jp/diary/update.rb";
//---------設定終了-----------
if(basename == ""){
  $basename = year + month + day + "diary";
  call autosavesub;
  endmacro;
}
menu
"脚注    (&F)",
"引用    (&B)",
"PRE     (&R)",
"段落    (&P)",
"更新    (&U)";
if (result == 0){
   endmacro;
}else if(result == 1){
   insert "<%=fn '' %>";
   left 4;
}else if(result == 2){
   insert "<blockquote>\n</blockquote>";
   up;
}else if(result == 3){
   insert "<pre>\n</pre>";
   up;
}else if(result == 4){
   insert "<p>\n</p>";
   up;
}else if(result == 5){
   selectall;
   copy;
   run $browser + " " +$update;
   if(!result){message "ブラウザを起動できませんでした。";}
}else {endmacro;}
endmacro;
//ファイル保存サブルーチン
autosavesub:
  #filenumber = 0;
  $filename = $dir + "\\" + $basename + ".txt";
  while(existfile($filename)){
  #filenumber = #filenumber + 1;
  $filenumber = str(#filenumber);
  $filename = $dir + "\\" + $basename + "_" + $filenumber + ".txt";
  }
  saveas $filename;
  return;

[MOVIE]「シークレット・ウィンドウ」

「シークレット・ウィンドウ」パンフレット昨日、見た。「自分の小説を盗作した」と見知らぬ男から脅迫を受けた作家を巡るサイコなサスペンス。スティーブン・キングの原作「秘密の窓、秘密の庭」は8年ほど前に読んだが、内容をほとんど忘れていた。覚えていたのは「ダーク・ハーフ」のように作家を主人公にした小説だったなということぐらいである。脚本家としても知られるデヴィッド・コープ(「ジュラシック・パーク」「スパイダーマン」)の監督2作目で、コープは原作とは結末を変えて脚本化している。その姿勢は歓迎すべきことではあるが、それならば、原作以上に面白い結末を用意する必要がある。残念なことに、映画の結末はありふれている。途中で予想できるラストで、それ以上のものがないので、なんだか物足りない気分になってしまう。家の中に異常な男が潜んでいるかもしれないという恐怖などサスペンスの醸成はうまいし、事件のきっかけとなった出来事と物語を関連づけた構成もいいのに、結末がこれでは映画の印象は強いものにはならない。物語のツイストが足りなかった。原作より面白くならないなら、改悪と言われても仕方がないだろう。

車の中で逡巡している主人公モート(ジョニー・デップ)の場面で幕を開ける。意を決したモートはモーテルに車を乗り付け、妻のエイミー(マリア・ベロ)とテッド(ティモシー・ハットン)の浮気現場に踏み込む。6カ月後、モートは別居状態で湖畔の家に1人で住んでいる。作家だが、仕事ははかどらず、寝てばかり。そこにジョン・シューター(ジョン・タトゥーロ)と名乗る男が訪れ、「俺の小説を盗んだ」と言いがかりを付ける。シューターが持っていた小説はモートが以前発表したものと一字一句同じだった。シューターは7年前にその小説を書いたと言う。モートが小説を発表したのはその2年前。当時の掲載紙「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン」を見せれば、簡単に解決する話だったが、その雑誌はエイミーの住む家に置いてある。その夜、モートの愛犬が殺された。シューターにはどこか異常な部分があった。70歳の保安官に頼んでもラチがあかないので、モートは私立探偵のケン・カーシュ(チャールズ・S・ダットン)に調査を依頼する。翌朝、エイミーの家が放火されて全焼し、盗作疑惑を晴らす証拠は消えてしまう。そして、モートの周辺で殺人事件が起きる。

物語は離婚間近のモートの現状と盗作疑惑とが絡まり合って進行する。徐々に精神的に追いつめられていくモートをジョニー・デップはいつものように巧みに演じ、ジョン・タトゥーロも異常者を実にピッタリと演じている。不気味な映画の雰囲気も悪くない。これであとふたひねりぐらいあれば、言うことはなかった。原作のラストはキングらしく、ちょっと超自然的な部分が顔をのぞかせる。映画はその部分をばっさり省略し、その前のエピソードも変えている。パンフレットは結末を書いているため、封印されているが、詳しく説明されなければ分からないような難しい話では全然ない。もう実に単純で、過去にいくつも例があり、今さらこのストーリーで映画化することに何か意味があるとは思えない。


2005年10月30日 [Sun]

[MOVIE] 「ティム・バートンのコープス ブライド」

「ティム・バートンのコープス ブライド」パンフレットティム・バートン監督のストップモーション・アニメーション。子供を連れて日本語吹き替え版で見た。だからオリジナルの歌の良さやジョニー・デップ、クリストファー・リー、ヘレナ・ボナム=カーターなどのセリフ回しなどは楽しめなかったのだが、それでもそれなりに面白い(欲を言えば、吹き替え版であっても歌だけは原曲を使ってほしいと思うが、子供のことを考えれば無理なのかもしれない)。個人的には「チャーリーとチョコレート工場」よりもこちらの方が好きである。物語を過不足なく(ストップモーション・アニメとしては大作の1時間17分に)まとめた作りは見事。ダークな雰囲気の中でクスクス笑わせながら温かいストーリーを語るのはバートンらしく、それを忠実にアニメ化したのが共同監督のマイク・ジョンソンなのだろう。完璧なアニメーティングと構図に加えて、セットの造型も細かく丁寧である。良い出来だと思いつつ、何だか物足りない思いも残るのはこれがチョコレート工場同様にファミリー向け映画だから。もちろんだからこそ、子供を連れて行ったのだれども、「スリーピー・ホロウ」「バットマン リターンズ」のようなバートン映画が好きなファンとしてはファミリー映画ばかり作らず、次作こそは大人向けの映画を作ってほしいと切に願う。

結婚を翌日に控えた青年ビクターが森の中で誓いの言葉の練習をしたために死体の花嫁(コープス・ブライド)エミリーと結婚する羽目になる。親が決めた婚約者ビクトリアを一目で好きになっていたビクターはさてどうする、というシチュエーション。ビクターの両親は成金で、ビクトリアの家は金庫がスッカラカンの貧乏貴族。富と名声をそれぞれに欲した両親が進めた結婚話だったが、ビクターのナイーブさとビクトリアの清楚さはそれぞれが惹かれ合うのに十分な理由を持っている。一方、エミリーは幸福な結婚を夢見ていたのに結婚してすぐに夫から殺されてしまった過去がある。この3人の善良な三角関係に絡んでくるのが正体不明の男バーキスで、この映画唯一の悪役である。生者か死者か、ビクターはどちらを選ぶのか。普通なら生者を選ぶに決まっているが、映画は死者の世界を明るいカラーで、生者の世界はモノクロームに近いくすんだ色合いで描き、死者の世界のデメリットを打ち消している。バーキスの存在は三角関係の解消による切なさを和らげる方向に働いており、この脚本、なかなか巧妙だ。つまり、結ばれた2人だけでなく、取り残された1人にも満足感が得られる構造になっているわけである。

ストップモーション・アニメの常で技術的な部分についつい目が行ってしまう。「キング・コング」(1933年)の昔からストップモーション・アニメはどこか動きにぎこちない部分が残るものだが、この映画、一瞬、CGではないかと思えるほど滑らかな動き。花嫁のブーケやドレスが風に揺れるシーンなど極めて自然である。この撮影、なんとデジタル・スチール・カメラが使われたという。スチール・カメラの画像を1秒間に24コマつなげれば、確かにアニメになるのだが、その作業は想像を絶するほど根気のいるものだろう。いや、ストップモーション・アニメは元々根気のいるものであり、画像の処理がデジタルならば簡単にできるという利点は確かにあるのだが、スチールを使うというのは普通は考えない。これはもう気分的なもので、ムービーカメラを使ったにしても一コマずつ撮っていくしかないのだから、スチールで撮ったって別に構わないのだ。編集もパソコンでできるメリットがある。そうした技術的な部分を映画からは感じさせないのが良いところで、技術が物語を語る手段に収まって前面に出てこないのは好ましい。


2006年10月30日 [Mon]

[MOVIE] 「父親たちの星条旗」

「父親たちの星条旗」パンフレット一枚の完璧な構図の写真を巡る物語。硫黄島の摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士のうち、生き残った3人が英雄としてもてはやされ、戦時国債を売るための広告塔の役目を強要される。しかし、3人が立てた星条旗は2番目のものであり、6人の中には実際には加わっていない兵士もいた。いわば3人は虚飾のヒーローだったわけである。無名の兵士がばたばたと死んでいく硫黄島の凄惨な激戦と3人の揺れる心情が時間軸を前後して交互に描かれ、「戦争に英雄などいない」「国家は人間を簡単に使い捨てる」というテーマを浮き彫りにしていく。戦場シーンはスケールも悲惨さも際だっており、色彩を落とした映像が効果を上げている。虚飾に耐えきれず、酒に溺れるようになったアメリカ先住民の兵士など「昨日のヒーロー」となった3人のその後も深い余韻を与える。もちろんクリント・イーストウッド監督作品だから水準以上の出来なのだが、個人的にはもう少し上層部への明確な批判があっても良かったような気がする。

国家が人間を使い捨てるのなら、このテーマの行き着く先は国家そのものの批判だろう。それが鋭くならないのはハリウッド・メジャー作品の限界か。日本やドイツのような敗戦国は終戦時にいったん国家体制がリセットされたために、戦争中の軍国主義やナチズムの批判が当たり前で、戦争映画にはその視点がたいてい出てくる。アメリカの戦争映画に非人間的な軍隊への批判はあっても国家そのものの批判が少ないのはアメリカは第2次大戦後もずっと戦争を続けているからではないかと思う。第2次大戦時も今も基本的には変わらないのである。当時の体制を批判することは今の体制批判にもつながる。この映画を見ている時に感じたもやもや感は批判の矛先があいまいな部分から生じているように思う。

死んでいく兵士たちは自分たちを戦場に送った国への恨み言も口にしないし、国を論評することもない。それどころか、日本兵を罵ることもない(これは興行上の戦略だろう)。彼らはただただ何も言わずに銃撃され、爆撃で体を無惨に吹き飛ばされて唐突に死んでいく。彼らはいったい何を思って死んでいったのか。そこを映画はすくい上げるべきではなかったか。

例えば、笠原和夫脚本の「大日本帝国」にはこんなセリフがある。この映画は以前も書いたが、「二百三高地」のヒットに気をよくしたプロデューサーが太平洋戦争の勝ったところばかりピックアップしてつなぐという企画を出したのに対して、笠原和夫は逆にシンガポール、サイパン、フィリピンと激戦地ばかりをつないで脚本を書いたものである。映画の中で終戦後に東南アジアで軍事裁判にかけられた西郷輝彦の腹の底から振り絞るような口調のセリフ。

「大元帥陛下が我々を見殺しにするはずはなかでしょ。我々は天皇陛下の御楯になれと言われてきたとです。そう命じられた方がアメリカと手を結んで我々を見捨てるなんちゅう事は絶対にありません。日本政府はポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられたとしても、必ずわたしらを助けにきてくださるはずです。こげな、いかさまみたいな裁判で死刑にされて浮かばれますか」。

不当に死んでいく者の恨みつらみというのはこういうセリフのことを言う。「父親たちの星条旗」の主人公で衛生兵のジョン・ブラッドリーは戦後、家族に硫黄島のことを何も言わないまま死んでいったという。その無言の姿勢を戦争批判につなげたい意図は分かるのだが、時として具体的なセリフがあった方が映画は効果を上げる。脚本のポール・ハギスは映画の冒頭でブラッドリーに「戦争を知っているというバカ者。戦場の事実を何も知らない」と言わせているけれど、この映画に必要なのはそうした一般論ではない。この映画には死んでいく兵士たちの肉声が欠落しており、それが高い技術に感心させられながらも絶賛できない要因になっている。

日本側視点で描く「硫黄島からの手紙」には兵士の思いを入れやすいはずだ。捲土重来を期待したい。


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