SAYURI

Memoirs of a Geisha

「SAYURI」パンフレットアーサー・ゴールデンの原作を「シカゴ」(2002年)のロブ・マーシャル監督が映画化。当初、監督候補に挙がっていたスピルバーグは製作に回った。序盤の日本家屋の光と影を丁寧に捉えて構成した映像を見た時には、これは傑作なのではないかと思った。最近の日本映画の、のっぺりした映像とは異なって映像に厚みがあり、豊かな情感を備えている。日本を舞台にした映画だけに、なおさら日本映画より優れた部分が目立つのだ。

しかし後半、映画は急速に失速していく。ドラマがありきたりで訴求力に欠ける。芸者同士の確執が権力争いと同じように描かれては面白くなるわけがない。こういう話、もう少し陰湿で日本的な感じが欲しいし、女の性にも踏み込んでいって欲しいものである。日本を舞台にしていながらセリフのほとんどが英語という作りに僕はそれほど違和感はなかった。基本設定が激しく間違いで、サムライをアメリカ先住民のように描いたにもかかわらず、ドラマの説得力で納得させたエドワード・ズウィック「ラスト・サムライ」(2003年)を見れば分かるように、そういう部分を超えて技術で無理矢理成立させてしまうのがハリウッド映画なのである。主演格の3人がすべて中国系女優なのは日本人としては面白くないが、英語のセリフに堪能な女優が日本にはいなかったのだろうから仕方がない。ただし、この映画の失敗はやはり日本文化への理解が足りなかったことが一因なのだろう。加えてマーシャル自身の資質にもあると思う。「シカゴ」の時にも思ったが、ロブ・マーシャル、基本的に人間のネガティブな部分の描き方が下手なのである。陰影豊かな映像の厚みに比べて人間の陰影は薄く、陰湿な世界を描きながらも、映画は意外にカラリとしている。歌と踊りの演出が得意なマーシャル、人間を深く捉えるようにならないと、今以上のものは作れないだろう。良くも悪くもハリウッドの大作らしい味の薄い映画だと思う。

戦前から戦後にかけての物語である。貧しい漁村に生まれた千代(大後寿々花)は姉と一緒に身売りすることになる。母親譲りの青い目をした千代はおかあさん(桃井かおり)が仕切る置屋で下働きをすることになるが、姉は女郎屋に売られていく。売れっ子芸者の初桃(コン・リー)は千代を目の敵のようにしていじめる。千代は姉と一緒に逃げようとするが、けがをして逆に借金を膨らませ、芸者の道は閉ざされる。このあたりの「おしん」を思わせるひたすらかわいそうな描写には大衆性があり、大後寿々花の可憐な好演もあって見せる。この調子で行くと、映画はまずまずのものになったのかもしれない。悲しみに暮れる千代はある日、橋の上で親切な“会長さん”(渡辺謙)に出会う。会長さんは優しく、千代にかき氷を食べさせてくれた。千代は会長さんに再会するために芸者の道を目指そうと決意する。ここで千代役がチャン・ツィイーにバトンタッチ。僕はツィイーのファンだが、大後寿々花の後では少し分が悪い。役柄の15歳に見えないこともマイナスだろう。ある日、芸者の豆葉(ミシェル・ヨー)が千代を芸者として育てたいと申し出る。いったんは閉ざされた道が開け、千代はさゆりという名前を与えられて、芸者の道に励むことになる。

芸者になったさゆりが会長にすぐに再会するのは興ざめだが、そこからラブストーリーとして構成していけば、まだ面白くなったのかもしれない。だが、映画が力を入れているのは初桃とさゆりの確執で、コン・リーのいかにも憎々しい演技は悪くないのだけれど、どうも狭い世界のどうでもいいような話だなと思えてきてしまう。置屋の跡を継ぐのがさゆりか、コン・リーの妹分のおカボ(工藤夕貴=英語でパンプキンと呼ばれているからカボチャのおカボ。あまりと言えば、あまりの名前だ)かというのが重大に語られるが、置屋がそれほど重要なものには思えないのである。このあたりは芸者の世界を詳細に描いた(つもりの)原作の問題なのかもしれない。マーシャルの演出も前半に比べると、優れた部分は見あたらなくなる。というより、映像美だけでは2時間以上持たせるのは難しいのだ。

日本側の俳優では強突張りの桃井かおりが出色で、初めてのハリウッド映画なのにこんな役柄を堂々と演じているところに逆に感心する。しかし、こういう役では2作目の声はかかりにくいかもしれない。役所広司と渡辺謙はいつもの演技でいつものように悪くない。

【データ】2005年 アメリカ 2時間26分 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン) 松竹
監督:ロブ・マーシャル 製作:ルーシー・フィッシャー ダグラス・ウィック スティーブン・スピルバーグ 原作:アーサー・ゴールデン「さゆり」 脚本:ロビン・スウィコード ダグ・ライト 撮影:ディオン・ビーブ 衣装デザイン:コリーン・アトウッド プロダクション・デザイン:ジョン・マイヤー 音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:チャン・ツィイー 渡辺謙 ミシェル・ヨー 役所広司 桃井かおり 工藤夕貴 コン・リー 大後寿々花 ランダル・ダク・キム ケイリー=ヒロユキ・タガワ 舞の海

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キング・コング

King Kong

「キング・コング」パンフレット「失われた世界」+「美女と野獣」。1933年版の「キング・コング」(メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック監督)はそのようにして作られている。1976年版がダメだったのは「失われた世界」の部分を描かなかったからだ。恐らく、お仕着せの企画を引き受けたジョン・ギラーミンはそのように映画化しても何ら支障はないと考えたに違いない。もちろん、今回のピーター・ジャクソンはオリジナルの世界を愛しているから(これを見て映画監督になろうと思ったほどだから)、スカル(髑髏)島の部分を怒濤の展開にしてある。首長竜の暴走、小型肉食恐竜の襲撃、3頭のティラノサウルス(実際のティラノサウルス=TREXにアレンジが加えられ、バスタトサウルス=VREXと名付けられている)とコングの戦い、巨大昆虫の襲撃、巨大コウモリとコングの戦いと延々と続くスペクタクルな場面はいずれも圧倒的な迫力に満ちている。もうここだけで怪獣映画の最高峰と思える出来である。

当然のことながら、技術的な部分ではオリジナルをすべて凌駕している。しかし、オリジナルの影響力を凌駕できたかというと、そうはなっていない。それはジャクソン自身が一番よく分かっているだろう。実際、最初にテレビで33年版を見たときに感じたのは、なぜこんな大昔の映画にこんなにたくさんの怪獣が出てくるんだという新鮮な驚きだった。ストップモーション・アニメーションのぎこちない動きであるにもかかわらず、髑髏島は怪獣映画のファンにとって実に魅力的な場所だった。あの時代にああいう映画を作ったことは永遠に評価されることだと思う。

ジャクソン版の映画のエンド・クレジットの後にはオリジナルの製作スタッフへの献辞が出る。「あなたたちの映画は後に続く者に勇気を与えた」。その勇気をもらった一人がジャクソンなのであり、この映画はオリジナルへのリスペクトに満ちている。オリジナルな映画が一番強いと分かっていながら、ジャクソンには自分の手で愛する映画をリメイクしたいという抑えきれない衝動があったのだろう。ジャクソンは33年版を愛する他の多くの観客と同じ視線でこの映画を作っている。だからこの映画に僕は強く惹かれる。

1930年代の不況のニューヨーク。フーバー・ヴィルの様子なども描写した後、映画はヴォードヴィルの舞台に立つ喜劇女優のアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)に焦点を当てる。アンが仕事をしていた劇場は給料を未払いのまま興行主が逃げてしまった。別の興行主を頼ったアンはストリップティーズの劇場を紹介される。一方、映画監督のカール・デナム(ジャック・ブラック)は逃げた主演女優の代わりを探していた(さまざまな女優候補の中にフェイ・レイがいる。「別の映画を撮影中だ」との答えにカールが「ああ、メリアン・C・クーパーの映画か」と言うのがおかしい)。劇場の前でアンを見かけたカールは跡を付け、アンが果物屋のリンゴを盗んで店の主人からとがめられたところを助ける(これはオリジナルにもある場面だ)。映画に出るよう誘われたアンは脚本家が尊敬するジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)と知って承諾。ベンチャー号という小さな船で髑髏島へ向かうことになる。

冒頭のニューヨークの場面はいいにしても、船の中の場面が少し長く感じる。ここはもう少し切りつめてもよかっただろう。髑髏島に着いてからは好調で、原住民の不気味なメイク、キング・コングの凶暴さもいい。アンがコングに殺されないのはオリジナルでは白い肌にブロンドの髪だったからだが、この映画ではアンのヴォードヴィルの才能が心を通わせる要因になっている。そして、役柄としては年を取りすぎていると思えたナオミ・ワッツの演技力がこの映画を情感豊かな説得力のあるものにしている。それはジャック・ブラックにも言えることで、才能があるんだか、詐欺師みたいなやつなのか判然としない監督役をブラックは実にうまく演じていると思う。

ピーター・ジャクソンという人は決して天才肌の人ではないと思う。天才肌の監督だったら、この映画も2時間半程度にまとめただろう。ただし、こつこつと積み上げていく完璧主義者ではあり、どの画面もないがしろにはしていない。髑髏島でコングの住む場所から見る風景をアンが「ビューティフル」という場面はエンパイアステートビルの場面に呼応している。ニューヨークの路上をアンがコングに歩み寄る場面の静けさも印象的だ。

「指輪物語」「キング・コング」と自分の愛する世界を描き尽くしたジャクソンの次作はアリス・シーボルドの「ラブリー・ボーン」の映画化という。これまでとは全く異なるジャンルで、どういう映画になるのか楽しみだ。

【データ】2005年 アメリカ 3時間8分 配給:UIP
監督:ピーター・ジャクソン 製作:ジャン・ブレンキン キャロリン・カニンガム フラン・ウォルシュ ピーター・ジャクソン 脚本:フラン・ウォルシュ フィリッパ・ボウエン ピーター・ジャクソン 撮影:アンドリュー・レスニー プロダクション・デザイン:グラント・メイジャー スペシャル・メイクアップ・クリーチャーミニチュア:リチャード・テイラー 視覚効果監修:ジョー・レッテリ 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ナオミ・ワッツ ジャック・ブラック エイドリアン・ブロディ トーマス・クレッチマン コリン・ハンクス ジェイミー・ベル イヴァン・パーク カイル・チャンドラー サンディ・サーキス

[UP]

チキン・リトル

Chicken Little

「チキン・リトル」パンフレットディズニーとしては初めての全編3DCGのアニメ。上映時間は1時間21分と短く、明らかに子供向けの作りである。アメリカでヒットしたのは子供を連れた親が映画館に詰めかけたからだろう。アメリカでも子供向け作品がヒットするのは日本と同じ理由があるのである。内容的にはディズニーが配給しているピクサーの3DCGアニメに比べると、物足りない部分が多く、ストーリー的にも技術的にもあまり見るべきところはない。昨年公開されたピクサーの「Mr.インクレディブル」と比べれば、その差はとても大きいと思う。それでも小学生の子供は喜んで見ていたから、ディズニーの狙いは間違ってはいないのだろう。監督は「ラマになった王様」のマーク・ディンダル。演出に大きな不備はないが、特に優れた部分も見あたらない。つまり平凡である。ディズニーが今後も3DCGアニメを作るつもりなら、脚本にもっと力を入れて、子供と一緒に見る親も楽しめる映画を目指した方がいいと思う。

「狼少年」に「宇宙戦争」を加えて父と息子の相互理解をテーマにした話である。1年前、チキン・リトルは「空のかけらが落ちてきた」と警報の鐘を鳴らす。町中は大騒ぎになるが、確かに見たはずの六角形の空のかけらは消えていた。父親も信じてくれず、結局、ドングリと間違ったのだろうということになってしまう。それ以来、チキン・リトルは何をやっても失敗ばかり。体育の授業中、いじめられたアヒルのアビーをかばおうとしたチキン・リトルは火災報知器のスイッチを引いてしまい、スプリンクラーが動作して体育館は水浸し。父親はますますチキン・リトルの話を聞いてくれなくなる。チキン・リトルは野球選手として有名だった父親を見習って野球で名誉挽回を図ろうとする。

ちょっとした計算違いではないかと思うのはベンチ・ウォーマーだったチキン・リトルが代打で出場してヒットを打ってしまうこと。これで少なくとも父親はチキン・リトルを見直すので、ここで終わってもいいなと思えるのである。これに続く空のかけらの真相が分かるシーンは明らかに「宇宙戦争」で、宇宙船からトライポッドのような機械が出てきたり、人を消滅させる光線を出すあたり、スピルバーグのリメイク作品とよく似ている。公開時期から考えて模倣ではないが、結果的に目新しさには欠けることになった。このシーンによって、チキン・リトルは町の住民たちからも見直されることになる。ただし、この展開、物語を派手にするための展開のような気がしないでもない。話自体にあまりオリジナリティーが感じられず、志は高くないと思う。ついでに言えば、ギャグのレベルも高くはない。

みにくいアヒルの女の子アビーについては明らかに差別的な表現があり、少し気になった。チキン・リトルはアビーに好意を寄せるのだが、アビーの外見を超えた内面の魅力が描かれないので終盤のキスシーンが唐突に思える。チキン・リトル自体はかわいいキャラクターなのに、他のキャラクターはあまりかわいらしさのないデザインが多かった。

【データ】2005年 アメリカ 1時間21分 配給:ブエナ ビスタ インターナショナル(ジャパン)
監督:マーク・ディンダル 製作:ランディ・フルマー 脚本:スティーブ・ベンチック ロン・J・フリードマン ロン・アンダーソン 音楽:ジョン・デブニー
声の出演:ザック・ブラフ ゲイリー・マーシャル ジョーン・キューザック スティーブ・ザーン エイミー・セダリス ドン・ノッツ ハリー・シアラー パトリック・スチュアート ウォレス・ショーン

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プルーフ・オブ・マイ・ライフ

Proof

「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」パンフレット数々の賞に輝くデヴィッド・オーバーンの戯曲「プルーフ/証明」をジョン・マッデン監督とグウィネス・パルトロウの「恋におちたシェイクスピア」コンビで映画化。マッデンとパルトロウは2002年のロンドンの舞台でも演出・主演を務め、高い評価を受けたという。手慣れた題材のはずだが、なかなか話が見えてこない映画の前半が思わしくない出来なのは映画化にあたって付け加えたという葬儀とパーティーのシーンがやや精彩を欠くためか。舞台劇らしく会話が多いことも映画的なノリにブレーキをかけているようだ。

しかし、後半、世紀の数学の証明に関する話になって映画は輝き始める。天才的な数学者でありながら精神を病んだまま死んだ父親から、その負の側面までも受け継いだと思いこみ、精神的に不安定な娘の再生への光を映画はくっきりと浮かび上がらせるのだ。この父と娘はロン・ハワード「ビューティフル・マインド」のラッセル・クロウのように精神を病んでいるけれども、天才的なひらめきを持っていて、そこがとても興味深い。化粧気のないパルトロウの演技は繊細で、ある意味、エキセントリックで感情移入しにくいヒロインに複雑な陰影を与えている。知的な女優だなと思う。

映画は27歳の誕生日に一人でシャンパンを飲むキャサリン(グウィネス・パルトロウ)と父親ロバート(アンソニー・ホプキンス)の会話で始まる。話しているうちに父親は1週間前に死んだことが分かる。黒木和雄「父と暮せば」を思わせるシチュエーションだが、それはここだけ。3年前、精神を病んだ父親が1年間だけまともだったころの思い出から始まって過去と現在を行き来しながら、映画は父娘の関係とキャサリンの苦悩、ロバートのかつての教え子ハロルド(ジェイク・ギレンホール)やキャサリンとは対照的な姉クレア(ホープ・デイビス)との関係を描いていく。ロバートは20代のころ、数学の世界で次々に偉大な功績を残し、天才と言われたが、その後、精神を病んだ。ハロルドと親しくなったキャサリンが1冊のノートに書かれた世紀の数学の証明を書いたのは自分だと話す場面からがこの映画のメインで、筆跡がロバートのものだとして信じないクレアとハロルドにキャサリンは絶望する。通貨アナリストとして成功しているクレアは現実的なタイプで、キャサリンが父親の病気を受け継いでいると思っており、自分の住むニューヨークに連れて行こうとする。

人生の証明などと分かった風な意味を付け加えたこの邦題は直截すぎるばかりか意味を限定して良くないと思うが、確かに映画が描くのは数学の証明の秘密とそれを通して自分の人生の証明を果たしていくキャサリンの姿である。脚本はデヴィッド・オーバーン自身と劇作家アーサー・ミラーの娘レベッカ・ミラーの共同。映画的に際だった手法はないけれども、オーソドックスな作りではあり、舞台を楽しむように見る映画なのだと思う。

劇中、ロバートが口にする「人間の頭脳の頂点は23歳」という言葉は、それをとうに過ぎた年代のものとしては悲しいが、これは天才だからこそ感じる不安なのかもしれない。そしてその不安こそが精神を病む引き金になったのかもしれないと思う。99%のパースピレーションと1%のインスピレーションからなる天才はインスピレーションを生むためにもがき苦しんでいるのだ。

【データ】2005年 アメリカ 1時間43分 配給:ギャガ・コミュニケーションズ
監督:ジョン・マッデン 製作:ジョン・ハート ジェフ・シャープ アリソン・オーウェン ロバート・ケッセル 共同製作:マーク・クーパー 原作・脚本:デヴィッド・オーバーン 共同脚本:レベッカ・ミラー 撮影:アルウィン・カックラー 美術:アリス・ノーミントン 音楽:ステファン・ワーベック 衣装:ジル・テイラー
出演:グウィネス・パルトロウ アンソニー・ホプキンス ジェイク・ギレンホール ホープ・デイヴィス ケイリー・ハウストン

[UP]