キル・ビル vol.1

Kill Bill vol.1

「キル・ビル vol.1」パンフレット結婚式を4人の殺し屋に襲われ、瀕死の重傷を負わされたザ・ブライド(ユマ・サーマン)が殺し屋とそのボス、ビル(デヴィッド・キャラダイン)に復讐するクエンティン・タランティーノ監督のアクション映画。撮影中に長くなりすぎて2本に分けたそうだ。首が飛んだり、腕が飛んだりするこういう血みどろアクションを3時間以上も見せられたら観客は体力的にもまいっていただろうから、その意味でも2本に分けたのは正解だったと思う。アクションのタッチは劇画調で、途中にあるアニメも劇画調。時間軸を前後に動かして話を語るいつものタランティーノの語り口だが、最初に“映画の巨匠”深作欣二への献辞が出て、そのまま映画は70年代の東映アクションを思わせる展開を突っ走る。もうタランティーノの趣味の世界。好きなものをあれもこれもと詰め込んで、独自のアレンジを加えて、どこにもないような日本風味を振りかけてある。

ヤクザの女親分、オーレン・イシイ(ルーシー・リュー)が片言の日本語で「ヤッチィマイナー」と叫ぶ場面とか、その用心棒がゴーゴー夕張(栗山千明)という名前であったりとか、沖縄に服部半蔵(千葉真一)がいたりとか、時々ある誤解に満ちた日本ロケ作品を思わせもするのだが、タランティーノの日本趣味は東映映画に偏っているところがもうなんというか、スバラシ過ぎる。エンドクレジットには梶芽衣子「怨み節」まで流れるのだから恐れ入る。「怨み節」のフルコーラスを聴いたのは久しぶりだ(サントラには「修羅雪姫」のテーマソングはあっても「怨み節」は入っていない)。「鬼警部アイアンサイド」のテーマとか他の音楽の選曲も趣味に走りっぱなしである。

こういうハチャメチャさはとても面白く、映像や音楽のセンスも抜群なのだが、惜しむらくはクライマックス、グリーン・ホーネットみたいなマスクを付けたクレイジー88の軍団とヒロイン、ザ・ブライドの壮絶なシーンの弾け具合が少し足りない。単に残虐なだけで、爽快さがない。これは2本に分けたことの弊害で、ヒロインにとってオーレン・イシイは復讐相手の1人なだけなのだから、延々と続く凄絶なアクションの理由づけに乏しいのである。あれだけ見せられると、ユアン・ウーピンの殺陣も単調に感じてくる。内容が意外に薄く感じるのも2本に分けたためだろう。上映時間1時間53分だが、1時間ちょっとで収まりそうな内容。間延びした部分がある。

返り血を浴びながら日本刀を振り回すユマ・サーマンはきれいで殺陣もまずまず決まっていていいのだけれど、こういう復讐のヒロインにはどこか暗い情念を持つ雰囲気が必要だ。その意味でユマ・サーマンは少し健康的すぎる気がする。リメイク版「修羅雪姫」の釈由美子や本家の梶芽衣子みたいな暗さ切実さ必死さが欲しかった。「バトル・ロワイアル」を見たタランティーノが抜擢したという栗山千明は出番は少ないが、印象は強く、他のアメリカ映画からも引き合いがあるのではないか。vol.2は来春公開らしい。首を長くして待つほどではないが、続きは見たい。

【データ】2003年 アメリカ 1時間53分 配給:ギャガ=ヒューマックス
監督:クエンティン・タランティーノ 製作:クエンティン・タランティーノ ローレンス・ベンダー 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン ハーヴェイ・ワインスタイン エリカ・スタインバーグ E・ベネット・ウォルシュ 脚本:クエンティン・タランティーノ 撮影:ロバート・リチャードソン 武術指導:ユアン・ウーピン 美術:種田陽平 デヴィッド・ワスコ 衣装:小川久美子 キャサリン・マリー・トーマス 音楽:The RZA アニメーション制作:プロダクションI.G
出演:ユマ・サーマン ルーシー・リュー ヴィヴィカ・A・フォックス マイケル・マドセン ダリル・ハンナ デヴィッド・キャラダイン 千葉真一 ジュリー・ドレフュス 栗山千明 ゴードン・リュー マイケル・パークス 國村隼 菅田俊 麿赤児 大門伍郎 北村一輝 風祭ゆき 佐藤佐吉 大葉健二

サントラ収録曲:ナンシー・シナトラ「バン・バン」 チャーリー・フェザース「サートン・フィーメール」 ルイス・バカロフ「怒りのガンマン 銀山の大虐殺」 バーナード・ハーマン「密室の恐怖実験」のテーマ The RZA「オウド・トゥ・オーレン・イシイ」 アイザック・ヘイズ「ラン・フェイ・ラン」 アル・ハート「グリーン・ホーネット」のテーマ 布袋寅泰「新・仁義なき戦い。」のテーマ サンタ・エスメラルダ「悲しき願い」 ザ・5,6,7,8'S「ウー・フー」 The RZA/チャールズ・バーンスタイン「クレイン/『白熱』のテーマ」 梶芽衣子「修羅の花」〜「修羅雪姫」のテーマ ザンフィル「ロンリー・シェパード」 デヴィッド・キャラダイン「ユー・アー・マイ・ウィキッド・ライフ」 クインシー・ジョーンズ「鬼警部アイアンサイド」のテーマ ノイ!「夜間美学PART2」より 

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マトリックス レボリューションズ

The Matrix Revolutions

「マトリックス レボリューションズ」パンフレットこれまでの経緯を一切説明せず、いきなり本編が始まる。今回はマトリックス内よりもリアルワールドの描写が中心である。マシン・シティーの中枢に向かうネオ(キアヌ・リーブス)とトリニティ(キャリー=アン・モス)、センティネルの無数の大群を戦闘ロボットAPUで迎え撃つザイオンの兵士たち、ザイオンに向かうためホバークラフトで補助パイプラインの中を突っ走るナイオビ(ジャダ・ピンケット・スミス)とモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)―の3つのエピソードが描かれていく。脚本の構成は極めて単純である。細かい背景説明は前作「リローデッド」でしてあるので、スペクタクルな描写に徹しており、それが前作よりも面白くなった理由だと思う。マトリックス内の描写は最初の方の意識を失ったネオを助けるためにトリニティーたちが活躍する場面とクライマックスのネオとエージェント・スミス(ヒューゴ・ウィービング)の決戦の場面(ここは「スーパーマン2」を思わせる)だけ。これでマトリックス・シリーズの完結編と言えるのかという思いも頭をかすめるが、マトリックス内が中心だった「リローデッド」と合わせて4時間27分の映画と思えば、納得はいく。ただし、2作目と3作目を合わせても1作目の革新性には大きく及ばない。これだけの長さでも、まだまだ描写が足りないと思える部分もある。

2作目で印象的だったザ・ツインズ(ニール&エイドリアン・レイメント)が出てこないのは残念だし、メロビンジアン(ランバート・ウィルソン)とパーセフォニー(モニカ・ベルッチ)の登場場面も少ない。ならば、2作目の展開は何だったのさ、という感じである。モーフィアスも生彩を欠いており、ほとんど脇役の扱いだ(監督との確執が原因か)。話の細部は相変わらず分かりにくいが、今回は描写で押し切った観がある。無数の、本当にあきれるぐらい数が多いセンティネルとの絶望的な戦いの場面はクライマックスのネオとスミスの戦いよりも良くできており、面白い。面白いけれど、従来のクールでスタイリッシュなマトリックスとは異なる面白さである。何か大きな脇道に入ったような感じがつきまとい、それが評価を躊躇わせる理由にもなっている。

一応の完結編ではあるけれど、この決着の付け方では根本的な解決になっていない。機械と人間の戦争は終わったが、これで眠らされ、エネルギー源となっている人間たちは解放されるのか。エネルギー源を失えば、機械側は存続できないだろう。ラストに予言者とアーキテクトがマトリックスの世界で会う場面があるのを見ると、マトリックスはまだ存続しているわけだ。マトリックスの仮想現実は眠らされた人間たちのためのものなのだから、マトリックスが存続している以上、事態は何ら変わっていないことになる。人間側の勝利とは言えず、見終わってどうもすっきりしないのである。

2作目と3作目の本当の敵はマシンそのものではなく、スミスだった。スミスはマシンにとっても人間にとっても脅威の存在ということになっているけれど、この設定が話の本筋をずらすことになったのだと思う。マシンの本体を殲滅しなければ、本当の解決にはならないだろう。2作目と3作目は結局のところ、大いなる番外編なのではないか。

【データ】2003年 アメリカ 2時間9分 配給:ワーナー・ブラザース
監督・脚本・製作総指揮:アンディ&ラリィ・ウォシャウスキー兄弟 製作:ジョエル・シルバー 制作総指揮:グラント・ヒル ブルース・バーマン 撮影:ビル・ポープ 美術:オーウィン・パターソン 音楽:ドン・デイビス 視覚効果監修:ジョン・ゲイター 衣装:キム・バリット
出演:キアヌ・リーブス ローレンス・フィッシュバーン キャリー=アン・モス ヒューゴ・ウィービング ジャダ・ピンケット・スミス モニカ・ベルッチ コリン・チャウ ノーナ・ゲイ ハリー・レニックス ハロルド・ベリノー ランバート・ウィルソン アンソニー・ウォン バーナード・ホワイト イアン・ブリス タンビーア・アトウォル ブルース・スペンス メアリー・アリス ナサニエル・リーズ クレイトン・ワトソン

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ラスト・サムライ

The Last Samurai

「ラスト・サムライ」サムライを少数民族のように描くこの映画の設定はどう考えても間違っている。すなわち、サムライたちは明示維新以降の近代化にそろって反対し、天皇に対して反乱を起こすのだ。サムライたちを鎮めるためにネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)は政府軍に西洋式の戦術を教えるよう依頼され、日本に来ることになる。サムライをまるでアメリカ先住民のように描く基本設定は激しく間違っているのだが、恐ろしいことに監督のエドワード・ズウィックはここから説得力のあるドラマを描き出してみせる。基本設定などどうでもよく、ハリウッドがこれまでにいくつもの映画で描いてきたような弱者に与する白人男性のストーリーに転化してしまうのだ。官軍も賊軍もなく、サムライたちを一緒くたにして一族のように描き、その精神と生き方を賞賛するこの映画の強引な手腕、自分たちが理解した範囲内でベストを尽くす在り方には逆に感心させられる。西洋式の物質文明一辺倒になることの否定と、伝統的な精神を重んじる訴えにも無理がない。ハンス・ジマーの日本風にアレンジした音楽も効果を挙げている。

最初にタイトルを聞いた時、「ラスト・オブ・モヒカン」のような映画なのではないかと思ったが、その通りの展開だった。急いで付け加えておくと、これは日本を舞台にした映画によくある誤解だらけで失笑を買うような映画にはなっていない(「キル・ビル」よりは相当まともである)。剣さばきと殺陣を見事に決めるトム・クルーズもいいが、サムライたちのリーダー勝元役の渡辺謙、その右腕・氏家役の真田広之、勝元の妹たか役の小雪など日本の俳優たちが頑張っている。特に渡辺、真田の2人は日本の描写におかしな部分がないように監督にも意見したという。渡辺謙はハリウッド映画に登場する日本人としては極めてカッコイイ役柄だ。

主人公の設定もいい。オールグレンは報復名目で行われたアメリカ先住民の虐殺に関わったことを深く後悔している男で、殊勲を挙げた大尉とはいっても酒浸りの毎日である。それが日本の政府軍に加わって戦い、サムライたちの捕虜になり、武士道を理解することによって再生を果たしていく。先住民を虐殺した男が逆の立場に立って名誉と誇りを取り戻すわけだ。話に普遍性があるのはこの主人公の設定と、弱者に味方する正義があるからだろう。この映画で描かれたことは他の少数民族に置き換えても十分に通用する話なのである(映画の最初の方にある日本の風景はほとんど西部劇のようだ)。ズウィック監督の描写の仕方、話の語り方も極めて映画的である。

ただし、そうは言っても、誤解に満ちた基本設定がある以上、傑作と言うわけにもいかない。クライマックスのスケールの大きな戦闘シーンは見応えはあるものの、撮り方としては取り立てて優れているとは言えないし、2時間34分の上映時間も少し長く感じる。大作だから仕方ない面もあるが、もう少し刈り込んでも良かったのではないか。英語力を買われての起用がどうかは知らないが、監督の原田真人がサムライを制圧する政府側の悪役を演じていてなかなかうまい。もう少し憎々しい感じを出すともっと良かったと思う。

【データ】2003年 アメリカ 2時間34分 配給:ワーナーブラザース
監督:エドワード・ズウィック 製作:エドワード・ズウィック スコット・クルーフ トム・エンゲルマン トム・クルーズ ポーラ・ワグナー マーシャル・ハースコヴィッツ 製作総指揮:テッド・フィールド リック・ソロモン チャールズ・マルベヒル ビンセント・ウォード 脚本:エドワード・ズウィック ジョン・ローガン マーシャル・ハースコヴィッツ 撮影:ジョン・トール 美術:リリー・キルバート 音楽:ハンス・ジマー 衣裳:ナイラ・ディクソン
出演:トム・クルーズ ティモシー・スポール ビリー・コノリー トニー・ゴールドウィン 渡辺謙 真田広之 小雪 中村七之助 菅田俊 福本清三 原田真人 

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フォーン・ブース

Phone Booth

「フォーン・ブース」パンフレットニューヨークの8番街にたった一つ残った電話ボックスを舞台に繰り広げるサスペンス。実験映画的で不条理劇的な色彩もあるが、ジョエル・シューマカー監督はきっちりと娯楽映画に仕立てた。上映時間1時間21分。無駄な描写を入れて長くしなかったのは潔い。というか、パンフレットには書いてないが、元々は1996年に学生が作った短編映画(End of the Line=ポール・ホー監督、14分40秒)で、それをラリー・コーエンが徹底的に書き直したそうだ。ということは劇場映画にするために精いっぱい長くした結果が1時間21分なのだろう。出ずっぱりのコリン・ファレルの好演に支えられており、ファレルは容貌も似ているが、ブラッド・ピット同様の演技派でもあるということをこれで納得させた。

主人公のスチュ・シェパード(コリン・ファレル)は携帯電話を片手に仕事をこなす宣伝マン。傲慢な男で妻(ラダ・ミッチェル)はいるが、独身と偽って女優を目指すパム(ケイティ・ホームズ)をものにできないかと考えている。そのパムと話すのに携帯は使わず、いつも8番街の電話ボックスを使っていた。パムに電話中になぜかピザが配達されてくる。身に覚えのないことに怒ったスチュは横柄な態度でピザ屋を追い返す。電話ボックスを離れようとすると、電話が鳴り、とっさにスチュは電話を取ってしまう。電話の主はパムとの関係を非難し、妻に告白しろと脅迫する。相手はライフルで狙っているらしい。スチュの長電話に怒ったフッカーたちが騒ぎ出し、そのポン引きがスチュを襲いかかったところで脅迫者に撃たれる。フッカーたちはスチュが撃ったと騒ぎ立て、警察も多数やってきてあたりは騒然となるが、スチュは事情説明を脅迫者に禁じられ、電話ボックスからも離れられない。そこに妻とパムもやってくる。脅迫者は妻かパムのどちらを殺すか選べと選択を迫る。

基になったEnd of the Lineは IFILM で見ることができる。本当に短い一幕の話で、パラノイアに捕まった男のサスペンスを描いている。電話を切れば殺されるというシチュエーションはほぼ同じだが、これを見ると、ラリー・コーエンの脚本はよく考えられていることが分かる。サスペンスと同時に傲慢な男が変わっていく過程も描いており、クライマックス、妻に謝り、心からの思いを訴えるスチュの姿などは感動的である。犯人の処理もうまい。唯一の不満を言わせてもらえば、脅迫者がスチュを狙った理由が倫理だけでは弱いことか。これは不条理なまま終わらせても良かったのではないか。まあ、そうすると、マイナーな映画になってしまうのかもしれない。

ニューヨークの電話事情をさらりと説明して始めるシューマカーの演出はスピーディーで的確。この人は職人タイプの監督なので、脚本が良いと映画の出来もグンと良くなる。

【データ】2003年 アメリカ 1時間21分
監督:ジョエル・シューマカー 製作:デヴィッド・ザッカー ギル・ネッター 製作総指揮:テッド・カーダイラ 脚本:ラリー・コーエン 撮影:マシュー・リバティック 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ プロダクション・デザイン:アンドリュー・ローズ
出演:コリン・ファレル フォレスト・ウィテカー ケイティ・ホームズ ラダ・ミッチェル キーファー・サザーランド

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