不思議な能力を持つ黒人死刑囚ジョン・コーフィをめぐるスティーブン・キング原作の映画化。一つの小説を6カ月にわたって毎月分冊出版するという形式が変わっていたとはいえ、3年前に読んだ原作をそれほど面白いとは思わなかった(続きを毎回1カ月も待つはいやだったので後半の4冊はまとめて読んだ)。キングの作品としては中の上ぐらいの出来と思う。アカデミー作品賞にノミネートされた映画の方はフランク・ダラボンの堅実な演出とトム・ハンクスやデヴィッド・モース、マイケル・クラーク・ダンカンら出演者たちの好演が光る。「マグノリア」より1分長い3時間8分という上映時間にも長さは感じなかったが、省略できる部分は多いと思う。こういう原作に忠実な映画の場合、原作のどこを生かし、どこを切るかで脚本家の能力が問われる。その意味でダラボンの脚本、決してうまくはない。細部の演出は堅実だが、脚本は凡庸なのである。原作以上の作品にはならなかったのはこのためだろう。
大恐慌の影響が残る1935年の刑務所が舞台。原作の細部はもう忘れているのだが、映画を見ながら疑問を感じたところが2カ所あった。一つは主人公の主任看守ポール・エッジコム(トム・ハンクス)が残忍で卑劣な新入り看守パーシー(ダグ・ハッチソン)に死刑囚ドラクロア(マイケル・ジェター)の刑執行指揮を命じる点。パーシーは知事のコネを鼻にかけ、皆から嫌われている。早く新しい職場に移るよう求められるが、「死刑を執行させてくれたら移る」と条件を出す。ドラクロアに恨みを持つパーシーは刑執行時に仕掛けをし、ドラクロアは電気椅子の上で感電死ではなく、焼き殺されてしまう。原作を確かめてみたら、刑執行指揮を命じたのはポールではなく、所長のハルだった。これはこうでなければ、おかしい。結果的に“ドラクロアの悲惨な死”にポールが手を貸したことになってしまうのである。
もう一つはコーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)の超能力と無実を知ったポールが救命に奔走しない点。「コーフィを助ける手段をいろいろ考えてみたが、まったくなかった」とセリフだけで片づけてしまっては説得力がない。原作では看守4人が集まり、助ける手段をいろいろ考える場面が用意されている。無実のコーフィを助けられない点について、人種差別を含めて意見が交わされるのである。むろん、コーフィは自ら望んで死刑になる。人間を救済することにすっかり疲れてしまったからだ。しかし、それとこれとは話が別である。救命の手段をあっさりあきらめるのなら、神の使いかもしれないコーフィが死を受け入れる過程に説得力を持たせるべきだった。
映画は老人ホームで暮らす現在のポールの回想で描かれる。原作にある看護人との確執をばっさり切ったのは正解で、ここを描いたら映画はもっと長くなっていただろう。だが、これで分かるのはダラボンの脚本家としての能力。エピソードをまるまる切ることはできても、要約したり、他の効果的な表現に移し替える力に欠けるのではないか。映画「トップ・ハット」の使い方を見てもそう思う。中編の「刑務所のリタ・ヘイワース」を映画化した「ショーシャンクの空に」がうまくいき、今回あまりうまくいかなかったのはそういうところに原因があるような気がする。
電気椅子をはじめとした刑務所内の描写は興味深いし、コーフィを演じるマイケル・クラーク・ダンカンは絶妙の演技を見せている。ドラクロアに可愛がられるネズミの演技にも目を見張る。映画で初めてこの物語に接する人は感動するかもしれない。しかし、原作を読んだ人間を満足させることは難しいだろう。ちなみに、神の使いのような超能力を持つ男が出てくる小説としては半村良「岬一郎の抵抗」がある。小説「グリーン・マイル」を読んだときにあまり楽しめなかったのは、このもの凄い傑作と比較していたからで、「スティーブン・キングの負けは明白」と思ったのである。
【データ】1999年 アメリカ 3時間8分 キャッスル・ロック・エンターテインメント作品 配給:ギャガ=ヒューマックス
監督:フランク・ダラボン 原作:スティーブン・キング「グリーン・マイル」(新潮文庫) 製作:デヴィッド・ヴァルデス フランク・ダラボン 脚本:フランク・ダラボン 撮影:デヴィッド・ダッターソル 音楽:トーマス・ニューマン 編集:リチャード・フランシス・ブルース 衣装デザイン:キャリン・ワグナー 美術:テレンス・マーシュ
出演:トム・ハンクス デヴィッド・モース ボニー・ハント マイケル・クラーク・ダンカン ジェームズ・クロムウェル マイケル・ジェター グラハム・グリーン ダグ・ハッチソン サム・ロックウェル バリー・ペッパー ジェフリー・デマン パトリシア・クラークソン ハリー・ディーン・スタントン ゲイリー・シニーズ
一応、トリロジー(3部作)と銘打っているのだから、前2作を見ていない僕にはきちんとした(3部作を通した)コメントはできないが、この映画に関する限りは、はっきりB級作品と断言しよう。前2作を見ていれば、もっと面白いのかもしれない。しかし、前2作を見ていたら、凄い傑作に感じるとか、まさかそういうことにはならないだろう。例えば、「ゴッドファーザー」は1作目を見ずに2作目だけを見ても傑作と思えるはずだし、「スター・ウォーズ」にしたってそうである。シリーズものの制約を超えて立派に1本の映画として完成度が高かった。この「スクリーム」の完結編、1本の映画として見ると、ウェス・クレイヴン監督だからクズではないにしても、「13日の金曜日」と似たり寄ったりのレベルであることは間違いない。事件の真相と連続殺人の動機には疑問を感じざるを得ない。それにやっぱりこういう映画の犯人にはスーパーナチュラルであってほしいと思う。スラッシャー映画のパロディとして出発したシリーズらしく、笑える場面も多いが、結局、このラストではスラッシャーそのものになってしまっている。
カリフォルニア州の田舎町ウッズボローで怒った連続殺人を基にした映画「スタブ」の3作目の撮影が始まっていた。この事件にかかわり、今は人気タレントとなったコットン・ウェアリー(ビル・シュライヴァー)は帰宅途中、「シドニーの居場所を答えなければ、恋人を殺す」と脅迫電話を受ける。恋人のアパートへ駆けつけたコットンはそこでハロウィンマスクをかぶった殺人鬼に惨殺される。というのがオープニング。映画の主人公シドニー・プレスコット(ネーヴ・キャンベル)は殺人鬼を恐れて警戒厳重な山の中の家で暮らし、電話相談の仕事をしていた。コットンの事件は「スタブ3」のキャストが脚本の順番通りに殺されるという連続殺人に発展する。現場にはシドニーの母親の写真が残されていた。ウッズボロー連続殺人の本を出版したゲイル・ウェザーズ(コートニー・コックス・アークェット)は撮影所でかつての恋人デューイ・ライリー(デイビッド・アークェット)に再会。警察から捜査に協力するよう要請される。その頃シドニーに殺人鬼から電話がかかる。事件に自分の殺された母親が関係していると知ったシドニーは山を下り、事件の真相を探る決意をする。
カメオ出演のキャリー・フィッシャー(すっかりオバサン)をはじめ楽屋落ちやパロディが散見する。それと事件の本筋がイマイチかみ合っていないのが残念。監督のウェス・クレイヴンは最初からトリロジーとして企画したと語っているが、本来がスラッシャーのパロディという小さいネタなのだから、ちょっと無理がある。事件の真相がこれでは3部作を締め括るラストとしては弱いのではないか。脚本家がケヴィン・ウィリアムソン(昨年の「パラサイト」は面白かった)からアーレン・クルーガーに代わったのもマイナスに作用しているようだ。やはり元々の作者が締め括るべきだったのだろう。
【データ】2000年 アメリカ 1時間57分 ディメンション・フィルム提供
監督:ウェス・クレイヴン 脚本:アーレン・クルーガー 原キャラクター:ケヴィン・ウィリアムソン 撮影:ピーター・デミング 音楽:マルコ・ベルトラミ 音楽監修:エド・ジェラード プロダクション・デザイン:ブルース・アラン・ミラー 衣装:アビゲイル・マレー 編集:パトリック・ラッシャ 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン ハーヴィ・ワインスタイン ケアリー・クレイナット アンドリュー・ローナ
出演:デイビッド・アークェット ネーヴ・キャンベル コートニー・コックス・アークェット パトリック・デンプシー スコット・フォーリィ ランス・ヘンリクセン キャリー・フィシャー マット・キースラー ジェニー・マッカーシー エミリー・モーティマー パーカー・ボージー ディオン・リッチモンド パトリック・ウォーバートン リーヴ・シュライバー ケリー・ラザフォード
実話である。病に倒れた兄に会うために、73歳の老人が時速8キロのトラクターで560キロの旅をする。これまでのデヴィッド・リンチなら、主人公が旅の途中でさまざまなヒドイ目に遭い、ダークサイドに引き込まれていくような展開になってもおかしくないが、映画は素直な感動作として収斂していく。「なんだ、アメリカもけっこう良い所じゃないか」と思わせるハートウォーミングな出来なのである。ただし、そこかしこにリンチらしい雰囲気はある。3週間で7頭の鹿をはねた女のエキセントリックさ、中南部のどこか「ツイン・ピークス」を思わせる佇まい、何よりアンジェロ・バダラメンティの音楽がまぎれもないリンチワールドを感じさせる。作家の手つきは消そうと思っても消えないらしい。深い皺が刻まれたリチャード・ファーンズワースもいいが、少し知恵遅れの娘役シシー・スペイセクのリアルな演技に感心させられた。
アルヴィン・ストレイト(リチャード・ファーンズワース)は腰を痛め、歩くのに両手に杖をつかなければならなくなった。そんな時、兄の家族から電話が入る。兄が心臓発作で倒れたというのだ。アルヴィンと兄は大変仲の良い兄弟だったが、10年前に仲違いしたまま口もきいていない。これで最後になるかもしれない。アルヴィンは兄に会いに行くことを決意する。車の免許を持たず、歩くのにも苦労するアルヴィンが旅に出る手段は一つだけだった。芝刈り機用のトラクターを使うこと。古いトラクターで荷物を引っ張って出発するが、トラクターは途中で故障。やむなく中古のトラクターを新たに購入し、再度出発する。映画は中南部のトウモロコシ畑など美しい風景を取り入れながら、家出した少女や親切な家族などとアルヴィンの出会いのエピソードを綴っていく。
リンチらしいのは鹿をはねる女のエピソードだ。「毎日通勤で63キロを往復しなければならないのよ。それなのに3週間で7頭も鹿を撥ねたわ。なぜ私だけ!」とまくし立てるように言い残して女は去っていく。残ったアルヴィンは死んだ鹿を見つめる。次のシーンでアルヴィンは鹿を焼いて食べている! しかもその周囲にはなぜか鹿の置物がたくさんあるのである。ストレートな話の中でこのエピソードの不条理さとおかしさはひときわ異彩を放っている。
ファーンズワース79歳、兄役のハリー・ディーン・スタントン73歳。このほか映画には高齢の人物が数多く登場し、高齢者映画の趣もある。そしてキャラクターの奥行きが深い。アルヴィンは大戦中に味方を撃ち殺してしまった苦い過去がある。知恵遅れの娘は役所から子育てはできないと判断され4人の子どもを取り上げられた。日本人にとってちょっとありふれた感じを受ける3本の矢の話を除けば、ファーンズワースが語るセリフには一つ一つに深い含蓄がある。貧しくつつましい生活をしているアルヴィンが旅をするには困難がつきまとうが、旅先でさまざまな人々がそれを援助する。そんなアメリカ中南部の生活を温かく描いており、これがアメリカで幅広い共感を受けた要因になったと思われる。
映画の終盤、アルヴィンは兄の所まで車で送っていこうという親切な誘いを「ありがとう。でも自分でやり遂げたいんだ」と言って断る。73歳のアルヴィンにとって、これが人生最後の大事業になるかもしれない。目的が兄に会いに行くだけであるなら、車で送ってもらった方が楽だし簡単だ。しかし旅の途中で、アルヴィンの目的は「自分で始めた旅を自分一人でやり遂げること」に変わったのだろう。手段が目的に変わる過程を描いて秀逸だ。
【データ】1999年 アメリカ 1時間51分 配給:コムストック
監督:デヴィッド・リンチ 製作:アラン・サルド メアリー・スウィーニー ニール・エデルスタイン 製作総指揮:ピエール・エデルマン マイケル・ボレア 脚本:ジョン・ローチ メアリー・スウィーニー 撮影:フレディ・フランシス 音楽:アンジェロ・バダラメンティ 衣装:パトリシア・ノリス 編集:メアリー・スウィーニー 美術:ジャック・フィスク
出演:リチャード・ファーンズワース シシー・スペイセク ハリー・ディーン・スタントン
焦点深度が深い。この映画、湾岸戦争を舞台にした戦争アクションと単純に言い切れないところがある。もちろん設定は単純である。サダム・フセインがクゥエートから奪った金塊を横取りしようとした米兵4人が反フセインのイラク人たちを助ける羽目になる話。前半のわけの分からなさ(なぜ村人はイラク兵に虐げられているのか。何が正しいのか)、リアルと笑いが表裏一体になった作り、ざらついた映像など最初から興味津々の展開である。映画ではイラク兵といえども完全な悪役ではない。デヴィッド・O・ラッセルの脚本と演出には視点とテンポの良さに見どころがある。「ノリノリの戦争映画」というコピーはまったくの的はずれではないにしても、極めて皮相的な捉え方だと思う。
1991年3月、イラク砂漠地帯の多国籍軍ベースキャンプが舞台。停戦が決まり、テレビの報道クルーも入り乱れて猥雑な雰囲気の中で米兵たちは帰還の準備を始めていた。捕虜のイラク兵から、サダム・フセインがクゥエートから奪った金塊の隠し場所の地図が見つかり、特殊部隊のアーチー・ゲイツ中佐(ジョージ・クルーニー)は地図を手に入れた3人とともに極秘で金塊奪回作戦を計画する。金塊があるとされた村にはイラク兵と多数の民間人がいた。村人はイラク兵に虐待されており、ゲイツたちに助けを求めてくる。金塊を見つけたゲイツたちはさっさと村から帰ろうとするが、目の前でイラク女性が撃ち殺されるのを見て、イラク兵と銃撃戦を始めてしまう。
こういう展開、普通ならお宝(金塊)を巡る攻防戦になるはずである。しかし、この映画、金塊を目当てにしているのは米兵だけでイラク兵側は頓着しない。金塊がいるなら持っていってくれという態度なのである。イラク兵が気にしているのはサダム・フセインのご機嫌を損なわないことのみ。反フセインの民間人を捕まえ、フセイン政権の転覆活動(アメリカが後押ししていたという)を抑えることのみなのである。フセインのご機嫌を損ねたら、自分の命が危ないからだ。もう一つ、湾岸戦争に対する視点。アメリカ兵を拷問するイラク兵は妻と1歳の子どもをアメリカの爆撃で亡くした。拷問の過程で空爆する側とされる側の対比、アメリカがやったことの是非が浮かび上がる。
イラク兵の死者10万人に対してアメリカ側の死者は150人。湾岸戦争はハイテクの武器を使用したアメリカに圧倒的な優位があった。日本の報道は、アメリカ側の視点からのニュースが多かったから、爆撃される側の現実はあまり伝わらなかった。CNNはイラクに残って報道したが、それもイラク側のPRに利用されたきらいがないでもない。しかし爆撃されれば、当然人が死ぬ。その悲惨さをこの映画は改めて教えてくれる。もちろん、ゲイツたちが一部のイラク民間人を助けたからといって、それがアメリカの免罪符になるわけでもないが、敵側(イラク側)の視点を取り入れたことで映画は深みを得た。湾岸戦争は泥沼にはまったベトナム戦争よりずっと短く終わったし、米兵の死者も少ないから題材に取り上げた映画は「戦火の勇気」に続いてまだこれで2作目だ。この映画はコテコテの社会派ではないし、脳天気な展開に見えるけれども、志は決して低くない。
【データ】1999年 アメリカ 1時間55分 配給:ワーナー・ブラザース
監督・脚本:デヴィッド・O・ラッセル 原案:ジョン・リドリー 製作:チャールズ・ローベン ポール・ユンガー・ウィット エドワード・L・マクドネル 製作総指揮:グレゴリー・グッドマン ケリー・スミス・ウェイト ブルース・バーマン 撮影:ニュートン・トーマス・シーガル 美術:キャサリン・ハードウィク 編集:ロバート・K・ランバート 共同製作:ダグラス・シーガル キム・ロス ジョン・リドリー 音楽:カーター・バーウェル 衣装:キム・バレット
出演:ジョージ・クルーニー マーク・ウォルバーグ アイス・キューブ スパイク・ジョーンズ クリフ・カーティス ノーラ・ダン ジェイミー・ケネディ サイード・タグマウイ ミケルティ・ウィリアムソン
「オン・ブロードウェイ」のメロディに乗って踊る娘の友達アンジェラ(ミーナ・スバーリ)に、レスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)は一目惚れしてしまう。レスターは間もなく43歳になる42歳。妻キャロリン(アネット・ベニング)と一人娘の高校生ジェーン(ソーラ・バーチ)がおり、雑誌社で広告の仕事をしている。キャロリンが乗る車はメルツェデス・ベンツのMクラス。ベンツがアメリカ向けに作った車で決して安くはないが、取り立てて高い車でもない(日本での価格は550万円。ちなみに「スリー・キングス」では高級車の象徴としてトヨタのセルシオと日産のインフィニティが引き合いに出されていた)。この車が個人で不動産業を営むキャロリンの愚かな上昇志向の一端を象徴しているとはいえ、バーナム家は郊外に家を持つ普通の家庭なのである。一見、幸福な状況。しかし、レスターは妻と性的関係が途絶え、娘ともまともに口をきいたことがない。既に死んだも同然の生活−と自分で認識している。現状に満足していないわけだ。それを打ち破るのがアンジェラとの出会いで、映画はこの「ロリータ」的状況を中心に据え、家族がバラバラになる過程をユーモラスに描く。
バーナム家を相対化させる手段として描かれるのが最近、隣に引っ越してきた家族。元海兵隊大佐で厳格な父親フィッツ(クリス・クーパー)が支配するこの家庭は、経済的には問題なくとも、まず不幸の塊である。息子リッキー(ウェス・ベントレー)はビデオおたくでジェーンから“サイコ・ネクスト・ドア”と思われている。父親の前では優等生だが、裏ではマリファナの密売をしている。母親は家の中を塵ひとつないように片づけているが、まったく覇気がない。フィッツ大佐はゲイを軽蔑し、ドラッグを否定する保守的な人間で、人はこうあるべきという幻想を抱いているのである(これが自分の欲望に対する抑圧から生じていることが後半明らかになる)。ドラッグに手を出させないために半年に一度、息子の尿検査をするという性格がその異常さを表している。家の雰囲気は息苦しい。
フィッツ大佐と同じようにレスターのアンジェラに対する思いも幸福への幻想だ(薔薇はその象徴である)。現状脱出の幻想と現状維持の幻想(あるいは欲望に自由な男と不自由な男の幻想)。この2人の幻想がいずれも打ち砕かれるラストに向かって収斂していく。根本的に違うのはレスターは幻想が打ち砕かれることによって、ある種の安らぎを得たことに対して、フィッツ大佐のそれは自身の破滅を招いてしまうことだ。いろいろな切り口から評価できる映画だが、この2人の対比がカギではないかと思う。サイコなドラマなのである。ロバート・レッドフォード「普通の人々」やウディ・アレン「インテリア」、ロバート・ベントン「クレイマー、クレイマー」のように一見、家族の問題を扱ったように見えるし、そういう解釈もできるため、本筋が分かりにくくなった側面がある。
ケヴィン・スペイシーは相変わらずうまいし、アネット・ベニングも魅力的である。サム・メンデス監督はユーモアと官能的描写を挟み、ややブラックな味わいで仕上げた。2時間2分を飽きさせずに見せる手腕は多いに認めよう。ただ、メンデスの興味が意外性などにないことは明らかだが、冒頭の「1年もたたないうちに死ぬ」との言葉は余計。メンデスはアカデミー賞受賞式でビリー・ワイルダーに敬意を表していたが、ワイルダーの「サンセット大通り」のように死者の回想形式を取ったことは、必ずしも成功とは言えない。
【データ】1999年 アメリカ 2時間2分 ドリームワークス提供 配給:UIP
監督:サム・メンデス 脚本:アラン・ボール 製作:ブルース・コーエン ダン・ジンクス 撮影:コンラッド・L・ホール 音楽:トーマス・ニューマン 衣装デザイン:ジュリー・ウェイス プロダクション・デザイナー:ナオミ・ショーハン
出演:ケヴィン・スペイシー アネット・ベニング ソーラ・バーチ ウェス・ベントレー ミーナ・スバーリ ピーター・ギャラガー アリソン・ジャーニー クリス・クーパー
2000年アカデミー賞5部門(作品・監督・主演男優・オリジナル脚本・撮影賞)受賞