かあちゃん

「かあちゃん」

山本周五郎の同名原作を和田夏十(故人)が脚本化、市川崑が監督した。市川崑にとっては昨年の「どら平太」に続く山本周五郎原作ものとなる。パンフレットによると、この原作は1958年、西山正輝監督が映画化(「江戸は青空」)する際、市川崑と和田夏十が脚本を提供したそうだ。これは60分余りの中編だそうで、「日本映画作品全集」(キネマ旬報)にさえ収録されていないから、あまり重要な作品ではないのだろう。原作に惚れ込んでいた市川崑は、いつか自分で監督したいとの思いがあったのだという。落語によく登場する人情長屋を舞台にした、いかにも山本周五郎原作らしい味わいの作品に仕上がっている。

天保末期、飢饉による米価の高騰と過酷な税の徴収により江戸の庶民の生活は貧窮を極めていた。貧乏長屋に住むおかつ(岸恵子)は5人の子どもと暮らしているが、吝嗇として知られ、長屋の付き合いもそこそこにかなりの金を貯め込んでいる。それを聞きつけた勇吉(原田龍二)がおかつの家に泥棒に入る。一人起きていたおかつは勇吉を諭し、なぜ一家が他人から非難されてまで、金を貯める必要があるのかを話す。3年前、長男の市太(うじきつよし)の大工仲間・源さん(尾藤イサオ)が出来心から盗みを働いた。こんな世の中に罪を犯さざるを得なかった源さんの将来を案じたおかつは、源さんが牢から出てきた時のために、家族が協力して新しい仕事の元手となる金を貯めることにしたのだ。事情を聞いて家を去ろうとする勇吉に、おかつは「行くところなんてないんだろ」と引き留める。勇吉は家族同様に扱われて、この家に居候することになる。

牢から出てきた源さんのために一家は魚を焼き、ごちそうを作り、源さんの一家をもてなす。おかつは「このお金は貸すのでもあげるのでもない。あんたのお金なんだよ」と源さんに金を渡し、一家も源さんの家族も勇吉も泣き崩れることになる。この場面が大きな見せ場で、映画もここで一つの区切りとなる。その後に描かれるのは勇吉が本当に家族の一員となるエピソード。これもいいのだが、クライマックスの後の長いエピローグのような印象を受けてしまう。逆に言えば、源さんを助ける場面が盛り上がりすぎなのである。映画全体とのバランスを少し崩すことになった。

しかし、これは小さな傷と言うべきだろう。市川崑はセピア調の画面で温かい物語を描き出している。大作ではなく、しっかりと作られた小品で、同じ現像処理(銀残し)を施した「幸福」(1981年)と同じく、職人としての技を見せられたような印象を受けた。おなじみの明朝体の文字と、和田誠のイラストで幕を開けるタイトルから市川崑らしい映像に彩られる。出演者も人情長屋の話にふさわしいメンバーがそろっている。主演の岸恵子は言うに及ばず、大家の小沢昭一、長屋に住む春風亭柳昇、コロッケ、江戸家子猫、中村梅雀、石倉三郎といった面々とおかつ一家のうじきつよし、勝野雅奈恵らいずれも好演している。

【データ】2001年 1時間36分 配給:東宝
監督:市川崑 製作:西岡善信 中村雅哉 長瀬文男 松村和明 原作:山本周五郎 脚本:和田夏十 竹山洋 音楽:宇崎竜童 タイトル画:和田誠 美術:西岡善信
出演:岸恵子 原田龍二 うじきつよし 勝野雅奈恵 山崎裕太 飯泉征貴 紺野紘矢 石倉三郎 宇崎竜童 中村梅雀 春風亭柳昇 コロッケ 江戸家猫八 尾藤イサオ 常田富士男 小沢昭一

[HOME]

赤い橋の下のぬるい水

「赤い橋の下のぬるい水」

土着的な性を取り上げ続けている今村昌平らしいテーマと言えるが、出来の方は普通の映画である。今村昌平の外見はすっかり好々爺になってしまったけれど、この映画にも枯れた印象がある。撮影中に妊娠数カ月だった清水美砂に色気が足りないということは置いておく(もともと清純派だから、そんなに色気はない)にしても、秘密を共有した男女の親密な描写が不足している。男の方の快楽にのめり込む様子も不十分である。では女の性を追求しているかというと、そうでもない。性の本質ではなく、その周辺のいろいろな事情が子細に語られるだけである。だから映画は水であふれているのになんだか枯れた印象になる。主演の2人が同じなので「うなぎ」の延長のような感じになってしまうが、「うなぎ」の重たさに比べてこちらは軽く、心地よい。心地よいけれど、やはり「赤い殺意」や「神々の深き欲望」などなど過去の今村昌平の傑作群に比べると、不満を感じずにはいられない。倍賞美津子や北村和夫、中村嘉葎雄、坂本スミ子ら脇役の充実ぶりは光るが、映画全体に抜きん出たものはなく、巨匠が作った水準作と言うべきか。

富山県のある町が舞台。赤い橋のたもとの家にすむサエコ(清水美砂)は体の中に水がたまる体質。水がたまると苦しく、万引きをしてしまう。この水はセックスをすることで放出される。リストラで失業中の中年男・笹野(役所広司)は仲のよかったホームレス・タロウ(北村和夫)の生前の言葉「盗んだ宝を赤い橋のたもとの家にある壺の中に隠した」を思い出し、この家にたどり着く。サエコに迫られて初対面でいきなりセックスし、事情を打ち明けられた笹野はサエコの要望に応じてせっせとセックスに励むことになる。という設定ならば、男女の性の深淵を描くことになるはずなのだが、そうはならない。サエコが出す水の描写は本当に放出という感じで、堰を切ったように、噴水のように水が噴き出す(あんなに出たら、脱水症状になるに違いない)。部屋は水浸しになり、部屋から流れ出たぬるい水に川の魚が集まってくるのだ。ラストには噴出する水に虹がかかる描写(!)さえある。この映画、基本的にはおおらかな艶笑譚なのである。

すぐに東京に帰るつもりだった笹野は若い漁師の新太郎(北村有起哉)から漁の手伝いを頼まれ、民宿に泊まってこの町に住むことになる。映画は笹野とサエコを軸に、サエコと同居する老婆(倍賞美津子)や釣りの老人(中村嘉葎雄)、民宿を経営するその妻(坂本スミ子)、新太郎の父親(夏八木勲)らを描いていく。この人間関係のドラマがなかなか面白い。「人生は○○○が硬いうちだぞ」と言う北村和夫をはじめ、いかにも今村昌平らしいキャラクターばかりである。こういう話にどう決着をつけるのかと思っていたら、映画は終盤、サエコの過去を知るヤクザ(ガダルカナルタカ)を登場させる。「うなぎ」のような展開だが、こちらはあっさり片が付く。

今村昌平の過去の映画はどれもエネルギッシュな力にあふれていた。どろどろした描写には一部辟易もしたけれど、今回の映画のようにそれがないとなると、物足りなくなる。年を取ったからといって悟りの境地に行かなかったのは今村昌平らしいが、体力の衰えは描写の力の衰えにもつながるのかもしれない。

【データ】2001年 1時間59分 配給:日活
監督:今村昌平 製作総指揮:中村雅哉 企画:猿川直人 製作:豊忠雄 伊藤梅男 石川富康 原作:辺見庸「赤い橋の下のぬるい水」(文藝春秋)「くずきり」(「ゆで卵」所収・角川書店) 脚本:冨川元文 天願大介 今村昌平 撮影:小松原茂 音楽:池辺晋一郎 美術:稲垣尚夫
出演:役所広司 清水美砂 中村嘉葎雄 夏八木勲 不破万作 北村和夫 倍賞美津子 北村有起哉 ミッキー・カーチス ガダルカナルタカ 坂本スミ子 田口トモロウ 不破万作 でんでん 根岸季衣 小島聖 モハメド・ラミン 三谷昇

[HOME]

ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃

「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」 地球生態系の守護神だったガメラに対して、この映画に登場するバラゴン(婆羅護吽)、モスラ(最珠羅)、キングギドラ(魏怒羅)は大和の国土を守る護国三聖獣。スケール的に小さいし、ややもすれば国粋主義的と受け取られかねない。そういうところが脚本に伊藤和典が加わらなかった弱さなのだろう。伊藤和典が手を加えれば、SF的な設定にもっと説得力を増したと思う。しかし、ガメラシリーズを怪獣映画の決定版にした金子修介の演出はスピーディーで的確。怪獣のドラマと人間のドラマをうまく融合させ、平成ゴジラシリーズではもっとも怪獣映画らしい作品になった。怪獣が現れれば街が壊れ、人が死ぬ。そんな当たり前の描写が怪獣映画には大事なのである。第1作の設定に頼っていることで、第1作を超えることはできないのだが(平成ガメラのように第1作として描くことは、シリーズに伝統がありすぎるゴジラにはもはや無理だろう)、当然のことながら技術的には上回り、これはゴジラ映画の最高峰の位置を占めたと言える。水爆エネルギーで突然変異した生物に太平洋戦争の死者の怨念が宿ったという設定のゴジラは白目で凶暴、凶悪、最強。護国三聖獣をまったく相手にしない強さを見せつける。ゴジラと怪獣の戦いに意味がないというこれまでのシリーズの最大の欠点を克服しただけでもこの映画には価値がある。

昭和29年のゴジラ初上陸から50年後の設定だから時代は2004年(「前世紀末にアメリカにゴジラに酷似した生物が上陸したが、専門家の間ではゴジラではないとされている」というセリフがおかしい)。ゴジラは再び日本に、小笠原諸島の孫の手島に上陸する。迎え撃つのは50年前にゴジラを撃退したのが唯一の実戦経験になっている国防軍(撃退したのは国防軍ではなかったことが後で分かる)。そのころ、国内ではさまざまな場所で怪獣出現の兆候が現れていた。妙高山でバラゴン、鹿児島の池田湖でモスラ、富士の樹海からギドラが出現する。それは「護国聖獣傳奇」にある記述と一致した。弱小BSテレビ局のレポーター立花由里(新山千春)は怪獣たちの動きを追う。由里の父親で国防軍准将の立花泰三(宇崎竜童)は50年前、ゴジラに両親を殺された恨みを胸にゴジラ撃退の指揮を務める。

前半、三聖獣の登場のさせ方などはオーソドックスな怪獣映画の定石を踏まえたものだし、特にバラゴンとゴジラの戦いは見応えがある。ゴジラの吐く光線によって街が壊れ、キノコ雲が上がるシーンはゴジラの本質を突いて秀逸だ。光線を吐く際に周囲の空気が変化するのも細かい気配り。ただし後半の横浜でのモスラ、キングギドラとの戦いは良くできているとはいっても従来の怪獣プロレスの域を出ていないもので、いかにも両手を入れているというのが見え見えのギドラの造型は大いに不満。SFXも一部リアリティーを欠くものがある。しかし、怪獣映画の本質は実はSFXにあるのではない。要は非現実的な物語にリアリティーを与える説得力なのである。SFXがチャチであっても、僕らは過去のゴジラ映画で胸をときめかせ、興奮したものだ。これは、いかに製作者が怪獣映画の可能性を信じているかにかかってくることなのだと思う。その意味で怪獣映画ファンでもある金子修介は監督として適役なのだろう。宇崎竜童、新山千春をはじめゲスト出演の俳優まで人間側のドラマや描写は納得の行くもので、怪獣映画のリアリティーを支えるのはしっかりした人間ドラマであることを思い起こさせてくれる映画でもある。

だからこそ、脚本はもう少し練った方が良かった。護国三聖獣の設定が後半に生かされないし、単に設定だけで終わった印象がある。このあたり、最後まで少女の恨みを引きずった「ガメラ3 邪神覚醒」と比較してみれば一目瞭然だろう。あの程度の力では国を守る三聖獣の名が廃る。恨みを持った人間に決着を付けさせるというのはエモーションの持続からいっても分かるのだが、それに三聖獣を絡める工夫が必要だったのだと思う。そうした脚本の不備を補っているのが大谷幸の音楽だ。平成ガメラに続いて素晴らしく格調高いスコアを提供しており、この音楽がなかったら映画の魅力は半減しただろう。

この映画は十分合格点ではあるが、半世紀近く前に生まれた怪獣とその仲間を再利用しているだけでは決定的に面白い映画を作ることは難しいのではないかと思う。ゴジラもキングギドラもモスラもよく言えば過去の遺産、悪く言えば使い古しである。ガメラとゴジラという2大怪獣を映画化し、現在の怪獣映画監督のリーダーになった観がある金子修介に今後望みたいのは、全く新しい怪獣が出現する映画の製作。一から設定を作り出し、ゴジラ第1作のようなインパクトのある映画を作って欲しいものである。オリジナルを作った人がやはり一番強いのだから。

【データ】2001年 1時間45分 配給:東宝
監督:金子修介 製作:富山省吾 プロデューサー:本間英行 脚本:長谷川圭一 横谷昌宏 金子修介 撮影:岸本正広 美術:清水剛 音楽:大谷幸 [特殊技術]特殊技術:神谷誠 造型:品田冬樹 撮影:村川聡 視覚効果プロデュース:小川利弘 VFXスーパーバイザー:松本肇
出演:新山千春 宇崎竜童 小林正寛 佐野史郎 仁科貴 南果歩 大和田伸也 村井国夫 渡辺裕之 葛山信悟 中原丈雄 布川敏和 津川雅彦 天本英世

[HOME]

WASABI

WASABI

「WASABI」

TAXi2」のジェラール・クラヴジック監督、広末涼子、ジャン・レノ共演のアクション。同じリュック・ベッソン脚本・製作でも「キス・オブ・ザ・ドラゴン」とはまったく異なる味わいで、あちらが大人の映画とすれば、こちらは広末涼子のイメージ通りどこか幼い映画である。テレビの2時間ドラマかと思うような安直なストーリーに凡庸な演出。おかしなファッションの広末といつも通りのジャン・レノは悪くないが、どちらも本来の魅力を引き出しているとは言い難い。一番いけないのは脚本に日本への理解が不足していることで、誤解に満ちた描写が目に付く。ベッソンの脚本の不備を正す日本人スタッフが必要だったのだろう。監督のジェラール・クラヴジックも、つくづく才能がないのだなと思う。光っていたのはエリック・セラの音楽のみだった。企画、即実行というベッソンのプロダクションは認めるけれど、逆に言えば、製作姿勢が安易に陥る場合もあるわけである。

パリの刑事ユベール(ジャン・レノ)が捜査中に署長の息子を殴って大けがをさせ、休暇を命じられる。ユベールは19年前に別れた日本人女性小林ミコのことをまだ忘れられないでいる。当時、情報機関に勤務し、日本に滞在していたユベールの前からミコは突然姿を消した。わずか8カ月の付き合いだった。そんな時、ユベールにミコが死んだとの連絡が入る。ミコは遺言の立会人にユベールを指定していた。ミコにはユベールとの間にできた一人娘ユミ(広末涼子)がいることも分かる。日本に飛んだユベールは弁護士からユミが 20歳になるまで面倒を見るようにとのミコの遺言を告げられる。ユミはあと2日で20歳。ユベールは父親であることを隠して2日間、面倒を見ることになる。ミコの死には不審な点があり、銀行口座には2億ドルの預金があった。その上、何者かがユミの命を狙ってくる。ユベールは以前の相棒モモ(ミシェル・ミューラー)とともに謎を探り始める。

ジェラール・クラヴジック監督は「TAXi2」でも(変な)日本人を登場させていたので、ベッソンとしては日本人つながりで演出をまかせたのかもしれない。しかし日本の描写は表面をサラーっと流しただけで、よくあるカルチャー・ギャップの上に成り立った誤解に満ちた作品と変わらない(ワサビをあんな風に食べるのは奇人変人だけだろうし、預金の2億ドルという金額もリアリティーに欠ける)。これがパリが舞台なら、もう少しましになったのではないか。外国を舞台にした映画は難しさがつきまとうものだ。「TAXi2」と同じくとぼけたユーモアがあるけれど、センスは今ひとつ感じられない。日本の俳優も広末だけでなく、もっと名のある人を使えばよかったのにと思う。

クラヴジックの次作は「TAXi3」という。基本的にはああいうスラップスティック系の監督なのだろう。ユベールが父親であることをユミが知る場面など、ドラマティックになるべき場面が効果を挙げていないのはそのためか。だいたい、8カ月つき合った後に別れて19年と言えば、広末の役が20歳直前なのも計算は合うが、別れる前には既に妊娠中期以降だったはず。それに気づかなかったというのではユベール、バカだ。ユベールの現在の恋人役でキャロル・ブーケが出演。これは、もう少し出番が欲しかった。

【データ】2001年 フランス 1時間35分 配給:K2 日本ビクター
監督:ジェラール・クラヴジック 製作:リュック・ベッソン 脚本:リュック・ベッソン 撮影:ジェラール・ステラン 美術:ジャック・ブフノワール ジャン=ジャック・ジェルノール 衣装:アニエス・ファルク 音楽:エリック・セラ、ジュリアン・シュルタイス
出演:ジャン・レノ 広末涼子 ミシェル・ミューラー キャロル・ブーケ リュドヴィク・ベルシロ ヤン・エプスタイン ミシェル・スコーノー ジャン・マルク・モンタルト

[HOME]