映画とネットのDIARY(tDiary版)

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2004年12月13日 [Mon]

画像ファイルアップロードマクロ

前のパソコンでこの日記に画像を付ける際はFTP Exchangeを使っていた。これ、更新ファイルのみをアップロードできるのが便利。ただ、日記を秀丸で書いている以上、他のアプリケーションを起動せずに秀丸内で終わらせたい。画像ファイル(jpgファイル)をアップするマクロを書いてみた。きょう作成した画像ファイルすべてを一時フォルダ(c:\temp)にコピーした上でFTPする。終了後に一時フォルダ内の画像ファイルを削除する。FTPコマンドのmputを使用している。

//jpgftp.mac (C)hiro http://homepage3.nifty.com/cinema1987/
//コピー元フォルダ
$dir1 = "d:\\\diary\\images\\*.jpg";
//コピー先フォルダ
$dir2 = "c:\\temp";
//接続するサーバー
$server = "foo.bar.ne.jp";
//ユーザー名
$user="hoge";
//パスワード
$passwd="pass1234";
//アップロードするサーバーのパス
$ftpdir ="/home/hoge/public_html/diary/images";
//------設定終了-----------------------------
$today = month + "-" + day + "-" + year;
$filecopy = hidemarudir + "\\filecopy.bat";
openfile "";
insert "xcopy" + " " + $dir1 + " " + $dir2 + " " + "/D:" + $today;
saveas $filecopy;
runsync $filecopy;
$scriptfile = "mput.scr";
openfile "";
insert "user" + " " + $user + " " + $passwd ;
insert "\n";
insert "binary";
insert "\n";
insert "cd" + " " + $ftpdir;
insert "\n";
insert "mput" + " " + $dir2 + "\\*.jpg";;
insert "\n";
insert "bye";
insert "\n";
saveas hidemarudir + "\\" + $scriptfile;
question "画像ファイルをコピーしました。\nアップロードしますか?";
	if(result == yes){
	runsync "ftp -i -n -s:mput.scr" + " "+ $server;
		if (!result){message "FTPに失敗しました\n設定を確認してください。";}
		else{message "画像ファイルをアップロードしました。\n一時フォルダの画像ファイルを削除します。";
		runsync "deljpg.bat";
		 endmacro;
		}
}else{endmacro;}
exit;

一時フォルダ内の画像ファイルを削除するには秀丸のインストールフォルダにdeljpg.batというバッチファイルを置く必要がある。中身はdel /P c:\temp\*.jpgと書いておくだけ。/Pオプションをはずすと、確認せずに削除する。

[MOVIE] 「レディ・ジョーカー」

「レディ・ジョーカー」チラシ「グリコ・森永事件」を基にした高村薫の原作を平山秀幸監督が映画化。脚本は鄭義信(チョン・ウィシン)。「愛を乞うひと」「OUT」に続くこのコンビの第3作なのだから期待したのだが、完成した映画はがっかりさせられる出来だった。犯人グループ5人のそれぞれの犯行の動機の描き方が希薄で、物語に説得力がない。これが一番の敗因と思う。平山監督はパンフレットで「(原作の)全体から浮かび上がってくるのは、すきま風だらけの日本の現状です」と言っている。だからといって、すきま風だらけの映画にすることはなかった。僕はなんとなく「新幹線大爆破」を思い出しながら映画を見たが、「新幹線…」にあった犯人たちの切実さがこの映画からは感じられなかった。登場人物の多い原作だから、その中の誰に焦点を当てるかによっても映画の印象は変わってくる。誘拐される社長か、犯人か、合田刑事か。それを単に均等に描いていったのでは映画は面白くならない。どれかに重点を置いた方が良かっただろう。そうしなければ、こうした原作ものによくある原作のダイジェストにしかならないのは自明のことだ。脚本の段階でもう少し詰めが必要だったのだと思う。

昭和22年、日の出ビールを解雇された物井清二が故郷の青森に帰ってくる場面で映画は始まる。清二は被差別部落出身者とともに不当解雇された。弟の清三は兄が日の出ビールに批判の手紙を出すのを見る。そして現代。清三(渡哲也)は東京で薬局を経営しながら一人暮らし。兄は特別養護老人ホームに入っており、やがて死ぬ。その5カ月前、清三の孫は日の出ビールの入社試験に落ちた後、バイク事故で死亡する。ここが重要なのだが、なぜ清三が競馬仲間4人と共謀して日の出ビールを恐喝するのかがよく伝わってこない。レディ・ジョーカーと名乗る犯人グループの5人はそれぞれに事情があるらしいが、それがはっきり見えないのである。レディとは犯人グループの1人、布川(大杉漣)の重度障害を抱えた娘。布川は自分の境遇を「ババを引かされたようなものだ」と自嘲的に言うが、企業恐喝に向かう理由は見あたらない。同じく刑事でありながら犯行に加わる半田(吉川晃司)についてもその理由は明確ではない。

加えて、犯行の描き方も不十分で、最初の日の出ビール社長(長塚京三)の誘拐はいいとしても、その後の恐喝の描写がきわめて物足りない。ビールに毒物を入れることをにおわせただけで、企業が20億円もの金を払うのかどうか。犯人グループの日の出ビールに対する明確な優位性をアピールする場面がほしかったところだ。

平山監督は「これは被差別側が、差別する側に対する復讐劇ですよね」と言ったら、高村薫に「違う」と言われたそうだ。確かに原作は社会の闇を含めてもっと幅が広いけれど、映画にするのならそういう風な単純な映画化もありだなと思う。原作のすべての要素を入れることは無理なのだから、一面的と言われようが、筋の通った映画にした方が良かった。いや、少なくともわかりやすさを捨てて、原作に近づこうとした平山監督と鄭義信の努力は買うべきなのかもしれない。不幸なことにそれが実を結んでいないのだ。

合田刑事役の徳重聡はやや弱いのだが、渡哲也、長塚京三、大杉漣、松重豊、吉川晃司、吹越満、國村隼、岸部一徳らがことごとく重みのある演技をしている。特に吉川晃司はすさんだ感じがいい。こうしたうまい役者をそろえながら、描写が表面的なもので終わってしまったことが惜しまれる。映画に核がないのである。


2005年12月13日 [Tue]

「キング・コング」(1933年版 DVD)

ピーター・ジャクソンの新作が今週末から封切りなので久しぶりに見ておく。スカル(髑髏)島で次から次に恐竜が出てくるところなどサービス満点で、この映画がすべての怪獣映画の原点なのを再確認。といってもこの映画自体、「失われた世界」を参考にしているのだろう。1時間40分の映画のうち、出航前から島でキング・コングを捕らえるまでが1時間20分もあったのは意外だった。もう少し、ニューヨークのシーンが長いと思いこんでいた。

コングは凶暴で原住民を3人ほど食べたり、踏みつぶしたりする。ニューヨークでも何人か殺される。フェイ・レイは確かに叫び声を上げているだけで、これなら新人女優でも大丈夫だったのだなと思う。

ピーター・ジャクソン版は予告編を見ると、かなり原版に忠実な作りのようだ。ただし、上映時間は3時間7分もある。ニューヨークの場面を長くしたのだろうか。ちなみにジョン・ギラーミン版(1976年)は2時間14分。これがつまらなかったのは怪獣映画として作っていなかったからだろう。ギラーミン、怪獣映画の魅力を理解していなかったに違いない。下手なテーマを入れるよりは怪獣の魅力を素直に伝えた方がこういう映画は面白くなる。さて、ジャクソン版はどうか。IMDBでは今のところ評価が高いが、例によって最初はマニアが中心の投票だろうからもうしばらくしないと、分からない。

[MOVIE] 「8月のクリスマス」

「8月のクリスマス」パンフレットホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」(1998年)を長崎俊一監督がリメイク。ホ・ジノ版は見ていなかったのでDVDで見たが、細部の設定に細かな違いはあってもほぼ同じ話である。写真スタジオを営む30代の青年が若い女性と知り合う。青年は不治の病にかかっているが、家族のほかには知らせていない。女性にも知らせないまま静かに死を迎える。燃え上がる恋ではないが、徐々に徐々に気持ちが通い合っていく描写は好ましい。病名さえ出てこず、難病ものになっていない点もいい。ただし、いずれもそれはオリジナルにもあった美点である。

ホ・ジノ版との違いはラストにだめ押し的な泣かせのシーンを入れていること。ホ・ジノ版では女性は青年が死んだことさえ知らない。キネ旬の「四月の雪」の批評で森卓也はそれに触れ、「やがて、女は写真館のショーウィンドーに、以前青年が撮った写真を見て微笑む。青年の死にまだ気づかない鈍感とエゴ」と書いている。この映画では青年が書き残した手紙を見つけた妹が死後にその手紙を女性に送る。女性はそれを読んで泣き崩れることになる。これはこれで悪くない。

笑顔が印象的なハン・ソッキュにはかなわなくても、主演の山崎まさよしは無難な演技をしている。映画の出来もまずまずなのだが、なぜリメイクしたのかがよく分からない。こういう話が見たいなら、ホ・ジノ版を見ればすむこと。韓流ブームの今、わざわざ日本に置き換える必要があるのか。まして、この映画、大規模に公開されたわけでもない。長崎俊一がこの映画を気に入ってどうしても作りたかったわけでもないだろう。企画が貧困なのか。

例えば、ピーター・ジャクソンが「キング・コング」をリメイクしたのは自分が大好きな映画を今の技術で作り直したかったからだろう。VFX技術が72年前とは比べようもないぐらいに進歩しているのだから、それは理解できる。あるいはアメリカ映画が他国の映画をリメイクするのは(企画の貧困さもあるが)、字幕ではヒットしにくいからという興行的な理由がある。この映画の場合は、どういう理由があったのか知りたくなる。同じ内容の映画にするなら、リメイクの意味は薄いと思う。

出演者に関しては、ホ・ジノ版よりもいいと思った。女性を演じるのは関めぐみ、青年の妹に西田尚美、その友人に戸田菜穂、父親に井川比佐志、青年の友人役で大倉孝二。このスタッフ、キャストで別の映画を見たい気分になる。リメイク作品への観客の要求水準は高いのだ。


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