映画とネットのDIARY(tDiary版)

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2006年04月01日 [Sat]

観測史上最大級の巨大台風が日本を直撃

「現在、東シナ海沖合で、風速70メートル以上の観測史上最大級の超巨大台風が2個同時に発生しており、猛威をふるっている。発表によると、日本にも4月8日に上陸の可能性があり、十分な警戒が必要」とBIGLOBEのニュースにあって、えええええ、と思ったが、4月1日だったと気づいた。念のためにニュースサイトと天気予報サイトも見てしまった。

で、リンク先(http://cinesc.cplaza.ne.jp/typhoon/)を見ると、韓国映画「タイフーン」(4月8日公開)のニュース形式での紹介動画がある。なるほど。


2006年04月02日 [Sun]

「ショーン・オブ・ザ・デッド」(WOWOW)

イギリス製のゾンビ映画。登場人物たちがその言葉(ゾンビ)を言うなと怒ったり、ゾンビの大群から逃れるためにゾンビの動きをまねしたりのコメディタッチに好感。ちゃんと怖いシーンもあるが、まあ小学生でも我慢できる程度の怖さ(PG-12指定)。ゾンビ映画としては本家と肩を並べる面白さ、というのは褒めすぎか。面白さの質は全然違うんですけどね。

監督はエドガー・ライト。主人公のショーンを演じるのはサイモン・ペッグ。IMDBのトリビアによると、ペッグは「スター・ウォーズ」の熱烈なファンとのこと。この映画で友人役のピートを演じたピーター・セラフィノウィックは「エピソード1 ファントム・メナス」でダース・モールの声を演じたそうだ。ペッグは「M:I-3」にも出ているそうで、楽しみだ。


2006年04月08日 [Sat]

ネット環境

5日ぶりに帰宅。やはりネットが自由に使えるというのはいいなあ。引っ越し先で申し込んだBフレッツはまだ返答がない。いったいいつになることやら。

事務所の回線もあまり調子が良くない。ADSLの8mbpsだが、速度を測ってみたら、500kbps余り。しかし、実際にはもっと遅く感じる。プロキシサーバーを経由しているためか、画像が表示されなかったり、ページ自体が表示されなかったりする。おまけにOpenOfficeをダウンロードしようとしたら、できない。重いファイルのダウンロードはことごとくできない。電話にISDN回線を使っているので、それの干渉もあるのかもしれない。技術部に聞いたら、もともと接続状態は良くなかったそうだ。Bフレッツに変えてはどうか、と言っておいた。

パソコンもメモリーが128MBでは遅すぎるのでメモリーの増設を管理部に聞いてみた。このパソコンはリースで、「リース期間はあと1年。1年後には最新のやつが来るから」と言われた。リースのパソコンにメモリーを増設するのもばからしいのでやめた。

やはり自分のパソコンをネットにつながないと話にならない。今や、持って行ったパソコンはテレビ・DVDレコーダーの機能しか使っていないものなあ。


2006年04月09日 [Sun]

宮崎映画祭ホームページ(仮)

正式版は今月中旬オープンとのこと。

上映作品は「パリところどころ」(ジャン=ダニエル・ポレほか5人)「アワーミュージック」(ジャン=リュック・ゴダール)「ロッテ・ライニガーの世界 アクメッド王子の冒険」(ロッテ・ライニガー)「ローマの休日」(ウィリアム・ワイラー)「Touch The Sound」(トーマス・リーデルシェイマー)「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)「スパン・グリッシュ 太陽から来たママのこと」(ジェームズ・L・ブルックス)「小さな恋のステップ」(チャン・ジン)「世界」(ジャ・ジャンクー)「シムソンズ」(佐藤祐市)「いつか読書する日」(緒方明)「疾走」(SABU)

今年も1、2本しか見られない予感。

[MOVIE] 「タイフーン」

「タイフーン」パンフレット復讐の鬼と化したシンをもっと詳細に描くべきだったのだと思う。北からも南からも見捨てられ、家族を殺されたシン(チャン・ドンゴン)の恨みは一応描かれるのだけれど、それが南北朝鮮に核廃棄物を降らせるテロにまで説得力を持たせているかというと、そうはなっていない。激しいアクションを納得させる動機付けの部分が弱い。はっきり言って、前半はどんなに激しいアクションがあろうとも退屈。中盤、姉の口からシンの身の上が明らかになってエモーション的に盛り上がるのだけれども、以降はまたも激しいアクションだけで退屈。ドラマとアクションの融合がうまくいっていない。韓国の国家機関の人間から描くのではなく、これはシンの立場から描くべき話だったのだと思う。クァク・キョンテク監督はアクション場面の撮り方は合格点だけれども、ドラマの描き方に課題を残している。

アメリカ船籍の貨物船が海賊に襲われ、乗員を皆殺しにされて積み荷を奪われる。奪われたのは核ミサイル用の衛星誘導装置。日米両国は韓国に黙認を要請するが、韓国国家情報院は独自の捜査を始める。捜査に当たるのはアメリカで特殊訓練を受けたカン・セジョン(イ・ジョンジェ)。カンは海賊のリーダーがシンという男であることを突き止める。シンは誘導装置と引き替えにロシアから30トンの核廃棄物を手に入れようとしていた。シンは20年前に家族とともに北朝鮮から亡命しようとしたが、韓国政府は受け入れず、両親は北朝鮮兵士の手で殺された。シンと中国ではぐれ、今は娼婦となった姉のミョンジュン(イ・ミヨン)からその詳細を聞いたカンはミョンジュンと会わせることを条件にシンから誘導装置を取り戻そうとする。しかし、ロシアに既に誘導装置が渡ったと知った韓国政府は作戦の中止を命じ、シンを殺そうとする。

シンの意図は台風を利用して核廃棄物を積んだ多数の風船を朝鮮半島に運び、そこで爆発させることだった。クライマックスは史上最大級の台風が2個接近する中で、シンの船に乗り込み、テロ行為をやめさせようとするカンとその部隊の活躍が描かれる。アクション場面には別に何の文句もない。オリジナリティがそれほどあるわけではないけれども、日本のアクション映画に比べれば、はるかに迫力があり、よくできている。ただし、アクション映画の魅力というのは単なるアクションだけにあるのではない。登場人物の心情がいかに激しいアクションにシンクロしていくかにかかっているのだ。そこがこの映画は弱いと思う。「ブラザーフッド」の時にも思ったのだが、アクションの割に細部の作り込みが雑に感じるのだ。

カンの上司役で阪本順治「KT」のキム・ガプスが出演。相変わらず凄みのある顔つきをしていて良い感じである。チャン・ドンゴンもイ・ジョンジェも顔つきだけはアクション映画にぴったりな感じ。脚本をもっとうまく作ってさえいれば、傑作になっていたのにと思う。それにしても南北分断の悲劇が描かれるあたりで映画の雰囲気がきりっと引き締まるのは日本映画にはない長所だなと思う。こうした政治的材料がないのが日本のアクション映画の弱いところなのだろう。


2006年04月15日 [Sat]

[MOVIE] 「クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」

「クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」パンフレットシリーズ第14作。子供2人を連れて見に行く。初日だけあってけっこうな入りだった。

今回はジャック・フィニィ「盗まれた街」を思わせる侵略もの(秘密組織のお姉さんがジャクリーン・フィーニーという名前なのはそれを意識したものだろう)。カスカベの住人が次々に偽物に入れ替わるという話で、野原一家とカスカベ防衛隊の幼稚園児たちがいつものような活躍をする。

前半はこの設定に沿ったホラーっぽい描写がある。入れ替わった偽物の顔が怪物に変わる描写などもそれだが、ネタが分かってみると、こうした描写、整合性が取れない感じがする。視覚的な怖さだけでなく、心理的な怖さももっと強調すると良かったかもしれない。入れ替わる理由にも説得力が足りず、設定だけがあって話をまとめきれなかったようだ。いつものようにギャグを満載した展開はおかしいのだけれど、話の底が浅いので物足りない気分になる。これが原恵一なら、もっと話を面白くしたのだろうな、というのは無い物ねだりの感想か。

カスカベで次々に人が偽物に変わるといううわさが流れる。外見はそっくりだが、本人とは違う。しんのすけの通うふたば幼稚園の先生や園児もどこかおかしい。この偽物たち、なぜかサンバが大好きで音楽が流れると踊り出す。しんのすけたちは襲われたところを辛くも逃げ出す。しんのすけの父ヒロシの会社でも部下が偽物に変わったようだ。スーパーで襲われた野原一家をジャッキーという謎の女が助ける。ジャッキーの話によると、世界的にこうした現象が起こっているという。

ヒロシが偽物と対峙する場面はどちらが本物かを分からせるのにヒロシの足のにおいを持ってくるあたり、いつものクレしんの世界。この後に本物かと思われたしんのすけが実は偽物だったと分かるところなど面白いと思う。本物と偽物という概念はフィリップ・K・ディックが好んで用いたように、哲学的にもなるアイデアだ。子供向けなのでそこまでは行っていないが、できる監督ならこれをもっと巧妙に入れていただろう。ちょっと難しい部分を入れると、映画は深みがあるように思えてくるものなのである。ムトウユージ監督は素直にまとめすぎたきらいがある。

ムトウユージはテレビシリーズの監督で、映画は昨年の「伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃」に次いで2作目。オープニングのよしなが先生が入れ替わるシーンから手際がスマートではない。ここはもっと短くした方が良かった。しんのすけの友人である風間君とその母親の描写などは永井豪の漫画「ススムちゃん大ショック」を参考にしているのではないか(あるいは「妖怪人間ベム」とか)。ムトウ監督は1962年生まれなので、そのあたり、僕と嗜好が似ている。


2006年04月16日 [Sun]

[MOVIE] 「プロデューサーズ」

「プロデューサーズ」パンフレットオープニングの「オープニング・ナイト」というわくわくするような爆笑の歌を聴いて、これは面白いかもと思ったのだが、その後は感心するスコアはなかった。ミュージカルとしては歌と踊りの抜群にうまい役者がいないことが決定的にもの足りず、どれもこれもB級の歌、B級の踊りだと思う。ミュージカルが血肉となった本物のソング&ダンスマン(ウーマン)がいないことがこの映画の弱いところなのだろう。舞台のオリジナル・キャストでもあるマシュー・ブロデリックは額のしわや体型の緩みが気になった。舞台ではしわまでは見えないからいいにしても、映画に出すなら、もっと若い役者の方がこの役柄には似合っていたと思う。毛布が手放せない幼児性を持つこのブロデリックをはじめ、出てくるのはエキセントリックなキャラクターばかり。それがいかにもメル・ブルックス映画を基にした作品らしい。プロデューサー役のネイサン・レインや脚本家役のウィル・フェレル、ゲイの演出家役のゲイリー・ビーチ、およびその“内縁の助手”ロジャー・バートはおかしくて良いが、映画自体は平凡な出来である。

メル・ブルックスの1968年のコメディを基にして作られた2001年のブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ブルックスもこの映画の脚本とプロデューサーを務めている。監督は舞台での振り付けと演出を担当したスーザン・ストローマン。ストローマンの演出は舞台をそのまま映画にしたような感じを受ける。ブロデリックなどのキャラクターの性格はデフォルメされていてリアリティーとは遠いところにあり、これがコメディだからといって、オーバーな描写ばかりでは面白くない。いや、メル・ブルックスの映画でもこうしたデフォルメされたキャラクターはおなじみなのだけれど、映画にするのであれば、それなりの脚色が必要だと思う。せめて主人公ぐらいはまともなキャラクターにした方が良かった。まともな主人公がおかしな人々に巻き込まれていくという展開の方が個人的には好きなのである。観客に笑いの間を与えるような舞台目線があることも、僕には違和感となった。

時代は1959年。ブロードウェイの売れないプロデューサー、マックス(ネイサン・レイン)のところに会計士のレオ(ブロデリック)がやってくる。帳簿を見たレオは「売れないミュージカルの方が儲かる場合もある」とつぶやく。それを聞いたマックスは絶対にヒットしないミュージカルを作ろうと決意。ブロードウェイのプロデューサーになることが夢だったレオも会計事務所を辞めてマックスに協力することになる。ニューヨークの老婦人を色仕掛けでだまして出資させ、最低の脚本を探し、最低の演出家に担当させ、言葉のおかしなスウェーデン出身の女優ウーラ(ユマ・サーマン)をキャスティングする。と、ここまでが緩んだペースで描かれる。もう少しメリハリをつけるべき演出だ。脚本家のフランツ(ウィル・フェレル)が主役を務める予定だったが、開演前日に足を骨折。代わりに演出家のロジャー(ゲイリー・ビーチ)が主役を演じることになる。この「ヒトラーの春」という舞台が映画の白眉で、ヒトラーとナチズムを嗤い倒した内容と派手な演出が楽しい。ここが溌剌としているのはやはりストローマンが舞台の人だからなのだろう。

内容から見て、僕はバズ・ラーマン(「ムーラン・ルージュ」)が監督していたら、もっと面白くなっていたのではないかという感じを受けた。ユマ・サーマンは僕は好きなのだが、ニコール・キッドマンほど歌に魅力がない。キャサリン・ゼタ=ジョーンズあたりをキャスティングすると良かったかもしれない。大いに笑わせてもらったけれど、ミュージカルとしては不満が残った。


2006年04月21日 [Fri]

Justsystem オリジナルUSBフラッシュメモリ

郵送で届いていたので何かと思ったら、一太郎2006の発売キャンペーンで当たったのだそうだ。そんなキャンペーン忘れていた。メモリーは256MB。これが512MBとか1GBあれば、もっとうれしかったんだが。ま、ただなので、ぜいたくは言えない。

当たった人は1000人。Just My Shopで買った人だけが対象。一太郎と花子はどれぐらい売れたのだろう。何分の一の確率だったか、知りたいところ。


2006年04月22日 [Sat]

[MOVIE] 「ニュー・ワールド」

「ニュー・ワールド」パンフレットテレンス・マリック監督7年ぶりの作品。前作の「シン・レッド・ライン」はビデオで見たので、マリック作品を劇場で見るのは「天国の日々」以来20数年ぶり。アメリカ先住民の少女ポカホンタスとイギリス人入植者ジョン・スミスの愛がいつものように美しい映像で綴られる。映像の美しさなど普段の僕ならあまり気にもとめないところ(映画はスジだと思うのだ)だが、マリック作品の映像は重要なファクターになっている。モノローグと少ないセリフ。それを補うのが雄弁な映像なのである。前半、異文化同士がおずおずと接触し、ファーストコンタクトがワーストコンタクトに発展していく様子はとても面白く、一般的な侵略戦争と共通するものがあるように思う。自然とともに生きる先住民の生活の素晴らしさに対して入植者たちは飢えに苦しむ。マリックの狙いはそんなところを描くことにあったのではないか。だから、後半、ポカホンタスが中心になり、舞台がイギリスに移ると、映画の輝きに陰りが見えてくる。新大陸だけで完結した方が良かった話なのだと思う。

1607年、北アメリカのヴァージニアに3隻の船でイギリス人入植者たちがやってくる。それを遠巻きに先住民たちが見つめる。反乱罪で監禁されていたジョン・スミス(コリン・ファレル)は処刑されそうになるが、ニューポート船長(クリストファー・プラマー)は罪を許し、先住民との交渉役に任命する。川の上流には強大な王ポウハタン(オーガスト・シェレンバーグ)が治めるコミュニティがあるらしい。先住民の一人に案内させて川をさかのぼったスミスはそこで捕らえられる。ポウハタンが処刑を命じた時、末娘のポカホンタス(クオリアンカ・キルヒャー)が命乞いをする。スミスは先住民たちと暮らすことになり、ポカホンタスと愛が芽生える。夢のような生活。しかし王は娘がよそ者と愛し合うのを快く思わず、スミスは入植地に帰される。そこには砦が築かれていたが、食糧は乏しく、中は惨憺たるありさまだった。やがて入植者と先住民の間で争いが起こる。

という前半が素晴らしく良い。入植者たちが飢えに苦しむ描写は「北の零年」前半の北海道開拓者たちの苦闘を思わせる。あの映画でアイヌと開拓者の間に戦争はなかったが、入植者は侵略者であり、土地を守ろうとする先住民との間で争いが起きるのは必然だっただろう。自然とともに生きる先住民の様子は川の流れ、風の揺らぎ、柔らかな光を十分に捉えて撮影され、映画の魅力になっている。撮影は実際のヴァージニアにあるチカホミニー川上流で行われた。ここの風景を撮影監督のエマニュエル・ルベツキ(アカデミー撮影賞ノミネート)が余すところなく伝えている。だからポカホンタスが入植地に人質にされ、先住民の衣服から洋服に着替え、レベッカという洗礼名を与えられるに従って映画は失速してくる。マリックの映画には自然が欠かせないようだ。

ポカホンタスはイギリス国王に謁見した記録が残っている実在の人物だが、アメリカでの物語は伝説であり、映画で描かれたこともフィクションが多いのだろう。16歳のクオリアンカ・キルヒャーの素朴な風貌が映画の内容に実に合っていたと思う。


2006年04月23日 [Sun]

[MOVIE] 「名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌」

「名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌」パンフレットコナンのテレビはほとんど見ていないし、映画も第6作「ベイカー街の亡霊」以来4年ぶり。その第6作を見た時にもう見なくていいやと思ったのだが、次女が連れて行けというので泣く泣く連れて行った。やはりというか何というか、「何だこれは」レベルの作品だった。罵詈雑言しか出てこないので感想書くのはやめようかと思ったほど。とりあえず記録のために書く。

シリーズもこれだけ長くなると、ミステリとして見ている人は少なく、キャラ萌えのファンが多いのではないかと思う。そういう部分に関して僕は何も言うことはない。キャラが好きなら見ればよろしい。ただし、これがミステリとしては最低レベルにあることは認識しておいた方がいいと思う。コナンは設定自体がふるーいミステリの枠組みのパロディみたいなものなので、こうした名探偵が謎を解くという古い設定を引きずっているのだろう。今回の脚本は柏原寛司。「あぶない刑事」などアクション映画の脚本を書いている人だが、謎の提示も解決の仕方もセリフに頼ってまるでビジュアルなものがない。つまらない2時間ドラマのレベル。映画10周年記念作品と銘打つほどのものではなく、面白さで言えば、「クレヨンしんちゃん」に負けている。「クレしん」がテレビとはまったく違ったアプローチで映画を作っているのに対して、コナンは映画としての売りの部分がなく、30分のテレビを引き延ばしただけのように感じる。

コナンや毛利小五郎、蘭たちが依頼人の指示で総合テーマパーク、ミラクルランドのホテルにやってくる。依頼人の秘書は全員の手首にミラクルランドのフリーパスIDを付けさせる。コナンと小五郎を残して全員、ミラクルランドに遊びに行く。姿を見せない依頼人は午後10時までに事件を解決して欲しいというが、その事件もキーワードだけが与えられただけ。事件を解決しないと、IDに仕掛けられた爆薬が爆発する。コナンと小五郎以外のIDにはミラクルランドの外に出ても爆発する仕掛けがあった。与えられた時間は12時間。2人は必死に事件を捜査することになる。

この設定はよくあるものとはいえ、悪くはないのだが、ここからの展開がどうでも良いような古くて幼稚なトリックだらけでまったく盛り上がらない。真相が分かった時の驚きなど微塵もなく、ミステリの醍醐味は皆無。元々、映画は原作者の青山剛昌のアイデアに肉付けしていくような形で話を作っているらしい。この段階で、もっとしっかりしたミステリの分かる脚本家に書かせた方がいいのではないかと思う(と思ったが、第6作は今は亡き野沢尚が脚本を書いたのだった。それでもあの程度の出来にしかならないということは何か根本的な問題があるのかもしれない)。キャラ萌えもっこうだが、ミステリの枠組みがある以上ミステリの部分を面白くしないと、ファンはいずれ離れていくだろう。2chのスレッドを見ると、今回の映画はファンも酷評しているのだ(コナンのラブコメ的な部分を好きなファンも多いらしい。今回はそれがない)。どうせ、1年後にはテレビで放映するのだろうし、個人的にはもう映画館で見ることはないだろう(テレビでも見ないけど)。

ちなみに次女(小3)はけっこう楽しんでいた様子。一緒に行った長男(小5)は途中で飽きた様子だった。


2006年04月24日 [Mon]

掲示板スパム

掲示板からスパムの投稿通知が来るので、アクセス制限を設定。しかし、なぜか止まらない。通知されてきたメールをよく見たら、古い掲示板からのものだった。今やリンクも張っていないのでアクセスするのも難しいのだが、よく見つけて投稿してくるなあ。

古い掲示板にアクセスしてみたら、ははは、海外からの投稿スパムがいっぱい。で、削除した後、htaccessでパスワードを設定した。これで大丈夫だろう。


2006年04月30日 [Sun]

[MOVIE] 「小さき勇者たち ガメラ」

「小さき勇者たち ガメラ」パンフレット逃げまどう群衆に逆らって、子供たちがガメラに渡すための赤い石をリレーしていく。赤い石はガメラの卵の下にあったもので、怪獣ジーダスとの戦いで傷ついたガメラを回復させるために必要だった。ここで赤い石をもらったガメラの劇的な変化の描写が欲しいところなのだが、映画はそれは描かない。このクライマックスが映画の本質を浮かび上がらせている。あくまでも子供が主人公である子供向けの映画であることと、怪獣映画としては描写や設定が不足していることだ。

伊藤和典脚本、金子修介監督の平成ガメラ3部作は怪獣映画のリアリティを追求することで、怪獣映画の頂点に立った。「“怪獣映画を超えた怪獣映画”という紋切り型の表現がこれほど似合う映画はなく、方法論でこれを上回ることは難しいだろう」と僕は「ガメラ3 邪神覚醒」を見たときに書いているが、「小さき勇者たち ガメラ」の田崎竜太監督はそれを承知しているためか、まったく違うアプローチでガメラを映画化した。ジュブナイルとしては極めて順当な出来だと思う。

映画は冒頭に多数のギャオスとの死闘の末に自爆する1973年のガメラを描く。それを一人の少年が見つめている。そして現在、少年は成長し、伊勢志摩地方の海辺の町で定食屋を営んでいた。妻は交通事故で死に、一人息子の透との二人暮らし。前半は主人公透(富岡涼)と父親(津田寛司)の生活や隣に住む心臓病の少女・麻衣(夏帆)との交流などがきめ細かく描かれる。母親を亡くして初めての夏休みに透は沖合の島で赤い点滅を見つける。行ってみると、そこには小さな卵があり、透の手のひらで割れて、亀が生まれる。透はこの亀をトトと名付けて育てるが(トトは透の愛称であり、透は母親からそう呼ばれていた)、亀には空中を飛ぶ能力があり、急速に成長していく。そのころ、海では次々に船が消息を絶つ事件が起きていた。それは怪獣ジーダスの仕業だった。透の住む町に上陸したジーダスは人間をむさぼり食う。透たちが襲われそうになったところへ、8メートルに成長した亀が来て、ジーダスを撃退する。亀は33年前に自爆したガメラなのか。政府の巨大生物審議会はジーダスとの戦いで負傷したガメラを回復させ、成長を早めようとする。やがてジーダスは名古屋に上陸する。ここから赤い石をガメラに渡そうとする透たちの姿が描かれることになる。

前半には文句の付けようがない。怪獣映画も初めてなら映画自体も初めてという龍居由佳里(テレビの「砂の器」「星の金貨」などの脚本家)の脚本は子供を中心にした作劇に徹して揺るぎがない。音楽の上野洋子と合わせて映画には女性的な感じが漂っている。怪獣映画としての不満はジーダスの説明がなにもないところやガメラが人間の味方であると単純化されていること、子供向けの映画であるため、ジーダスの凶暴性が直接的には描かれないことなどだ。パンフレットには、ジーダスはギャオスの肉片を食べた爬虫類が巨大化したものと書いてあるが、映画ではそういう説明はない。恐らく伊藤和典脚本ならば、そういう怪獣の説明は必須ものとして詳細に描いたことだろう。

怪獣造型は原口智生。ジーダスは悪くはないが、ミニラを思わせるようなガメラの顔つきはいくら子供のガメラとはいっても少し違和感があった。VFXの金子功は樋口真嗣の域には達してはいないが、過不足ない出来。監督の田崎竜太は劇場版の仮面ライダーを3作手がけた(「仮面ライダーアギト PROJECT G4」「仮面ライダー555 パラダイス・ロスト」「仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL」)。そのどれもに感じた細部の大ざっぱさが今回はなかった。龍居由佳里の脚本がしっかりしていたからだろう。


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