映画とネットのDIARY(tDiary版)

since 2004/07/15
ここは古い日記です。2013年11月からadiaryを使った新サイトに移行しました。
検索エンジンからのアクセスで、お探しのキーワードが見あたらない場合はNamazuで再検索してみてください。
映画の感想一覧 2004年7月以降 2005年  2006年  2007年  2008年  2009年

2006年09月02日 [Sat]

シーガイア楽園音楽祭

「人いっぱいいてうれしいーっ」。一青窈が言った。確かに多かった。数千人から1万人ぐらいか。一青窈は「かざぐるま」(映画「蝉しぐれ」の主題歌)がオープニング。約1時間で10曲ほど歌ったか。観客が総立ちなので、背の低い次女には全然ステージが見えない。時々、抱えてやる。

しゃべりの中で「ハナミズキ」は同時テロの際に作ったというエピソードが紹介された。この歌、君と君の好きな人というフレーズが印象的なのだが、ホントは君と君の好きな人とそのまた好きな人という風につながっていけばいいという思いを込めたそうだ。なるほど。そういう説明をされて初めて歌詞をじっくり聴いた。ボートに3人は乗れないから君と君の好きな人を乗せて自分は残るという歌なのですね。一青窈はオーシャンドームで20代最後のビキニを着たそうだ。

続いてゴスペラーズが登場。観客の7割ほどが女性だったのはゴスペラーズのファンが多かったからだろう。こちらもメンバーが登場した途端に総立ち。またもや時々次女を抱える。

ゴスペラーズは1995年にやはりシーガイアでミニコンサートを開いたことがあり、1000人の観客の前で歌ったのはその時が初めてだったそうだ。ラジオの公開番組で本番は20分だったが、観客の支持を受けてアンコールが40分になったという。「持ち歌はすべて歌いきり、学生時代の練習曲まで歌って、もう歌う曲がないと言って終わりました。無名のころだったので、純粋に自分たちの音楽が評価されたのがうれしかった」という趣旨のことを語った。その時からブレイクするまではしばらく時間がかかったとのこと。

このほか宮崎出身の坂本梨奈、福岡のデュオ・ケイタクDEPAPEPEという2人組(インスト・アコースティック・ギター・デュオというそうだ。歌はなく、演奏のみ)が前座で登場。ゴスペラーズと一青窈は大学時代の先輩後輩で、最後はDEPAPEPEを含めてコラボ。アレンジした「真っ赤な太陽」など。午後6時から10時過ぎまで。アーティストがみんな乗っていたのは観客が多かったからだろう。そういう意味では良いコンサートだった。

それにしても立ちっぱなしで疲れた。駐車場から会場までも遠かったし。


2006年09月03日 [Sun]

[MOVIE] 「グエムル 漢江の怪物」

「グエムル 漢江の怪物」パンフレット映画の冒頭、米軍が大量のホルムアルデヒドを下水に流す場面は韓国で2000年に実際にあった事件だそうだが、たかがホルムアルデヒドぐらいで巨大化した突然変異の怪物ができるわけはないと思う。監督のポン・ジュノはしかし、そんなことは単なる設定だよと言わんばかりに、怪物に娘をさらわれた家族の奮闘をユーモアを絡めて徹底的にエンタテインメントに描いていく。

怪獣映画の中には怪獣の出てくる場面だけが見所で、あとは延々と退屈という作品がよくあるけれど、この映画の場合、家族を描いた部分が怪物登場シーン以上に面白い。というか、おかしい。このユーモアは登場人物のキャラクターと直結していて、主人公のソン・ガンホは小さいころ頭が良かったのに成長時にタンパク質がたりなくて今のようになってしまったとか、出てくるアメリカ人科学者がなぜか斜視であったりとか、ソン・ガンホの妹と弟も駆けつけた合同葬儀の場面のドタバタとか、怪物追跡で疲れきって寝入ってしまう場面とか、頭からウィルスを採取されようとするソン・ガンホの手術の場面とか、ほとんど冗談かと思える描写が多くて実におかしい。この面白さはポン・ジュノの前作「殺人の追憶」に共通するもので、この作り方がポン・ジュノの個性なのだなと思う。こうしたユーモアがキャラクターの分厚い肉付けとなっている。それはあらゆる映画に必要なものであるにもかかわらず、書き割りみたいな類型的キャラクターが怪獣映画には多くてうんざりするのだが、基本的に映画作りのうまい監督が撮ると、やはり映画は面白くなるのだった。怪物自体に新機軸はないものの、怪物映画の快作になり得たのはそのうまさがあるからにほかならない。

怪物をゴジラのように巨大化しなかったのは賢明で、あれぐらいの大きさなら家族で対抗できると思う。巨大鮫や巨大熊が出てくる動物パニック映画と基本的には同じ作りなのである。惜しむらくはこの映画、軍隊が登場しない理由が明確には描かれない。あんな怪物、バズーカ砲を一発見舞ってしまえば、終わりだろう。

漢江から謎の怪物(グエムル)が現れ、人々をむさぼり食う。漢江のそばで売店を営むパク・ヒボン(ピョン・ヒボン)は長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)とその娘ヒョンソ(コ・アソン)と暮らしていたが、ヒョンソが怪物にさらわれ、水の中に消える。弟のナミル(パク・ヘイル)とアーチェリーの選手でもある妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)が犠牲者の合同葬儀に駆けつけるが、怪物は謎のウィルスの宿主だったとして韓国政府は怪物に接触した人々を隔離する。その夜、カンドゥの携帯にヒョンソから電話が入る。ヒョンソは生きていたのだ。家族4人は病院を抜け出し、武器を調達して怪物が逃げ込んだ下水道を探し始める。

グエムルが橋の欄干からゆっくりと水中に落ちる場面の動きなどは「エイリアン」を参考にしたのかと思う。同様に娘をさらわれるのも「エイリアン2」の設定を借りているのだろう。家族で怪物に対抗するのは「トレマーズ」あたりか。僕はなんとなくこれまたB級怪物映画の快作「ミミック」(1997年、ギレルモ・デル・トロ監督)も連想したが、パンフレットでポン・ジュノ、やはり「ミミック」に影響を受けていると語っていた。ペ・ドゥナの役柄はアーチェリーで銅メダルを取った選手だから、これはクライマックスにそれを利用するシーンがあるだろうと思っていたら、やはり。その使い方も工夫があって面白かった。

怪物のデザインはWETA社が担当したそうで、魚とトカゲを組み合わせたような造型はよくできている。CGのスピーディーな動きが凶暴性を感じさせて良かった。それにしてもこの怪物、1匹だけではないだろう。続編も期待できるが、有能なポン・ジュノは同じことを2度はしないような気がする。


2006年09月06日 [Wed]

一太郎2006がOpenDocument形式に対応

対応モジュールをインストールしてみた。その前に一太郎のアップデートモジュールをインストールしておくことが必要。で、一太郎文書をOpenDocument形式(拡張子odt)で保存し、OpenOffice.orgで開いてみると、なぜか、文書にあった画像がなくなっている。うーん、画像の保存で一太郎は圧縮するためか。

しかし、これは便利な機能だ。OpenOffice.orgと一太郎が問題なく互換性が保てる。WordもOpenDocument形式に対応すればいいのにと思うが、まあ、マイクロソフトはそんなことしないでしょうね。

「うつせみ」(DVD)

キム・ギドクがヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞した作品。詩情あふれる映画で、予告編にある「至福のロマンス」という表現がぴったり来る。セリフが少ないのはギドク作品では珍しくはないが、主人公(ジェヒ)にはまったくセリフがなく、相手役のイ・スンヨンは「愛してる」などひと言、ふた言だけというのが徹底している。これだけセリフがないと、字幕なしでも十分理解できるだろう。主演の2人の心の動きは描写だけで分かるのだ。描写の洗練度は最近のギドク作品の中でも上位に来ると思う。

留守の家を探して忍び込み、洗濯をしたり、掃除をしたり、故障した時計を直す青年がある豪邸で女と出会う。女は殴られて顔にあざができている。青年の様子を見ていた女は何となく親近感を覚えるが、そこに夫が帰ってくる。横暴な夫を見て腹を立てた青年はゴルフボールをぶつけ、女は青年と一緒に出て行く。そこから2人は留守の家を探し、忍び込み、という生活を続ける。

こういう生活に破綻が来るのは目に見えているが、そこからの展開も面白い。2人の間にある障害をどう克服していくかの話と見ることもできるだろう。ファンタスティックな描写はないけれど、ジェヒとイ・スンヨンがどちらも美形なので、幻想的な雰囲気が立ち上ってくる。

ギドクは誰にも教わらず独学で独自の世界を作り上げている希有な監督で、そのオリジナリティーは大したものだと思う。残念ながら、新作の「弓」は韓国では1週間で打ち切られたそうで、「グエムル」のポン・ジュノとは対極の立場にあるが、それでも作品から目を離せない監督であることは間違いない。


2006年09月09日 [Sat]

[MOVIE] 「X-MEN ファイナル ディシジョン」

「X-MEN ファイナル ディシジョン」パンフレット監督がブライアン・シンガーからブレット・ラトナーに替わった第3作。ジェームズ・マーズデンはシンガーの「スーパーマン リターンズ」にも出ているためか、本来ならX-MENの中心メンバーであるはずのサイクロップスがあっさり退場。それとは関係ないが、ひいきのミスティーク(レベッカ・ローミン)も早々に姿を消すのにがっかり。今回の中心は前作のラストで死んだと思われたジーン・グレイ(ファムケ・ヤンセン)で、エグゼビア教授(パトリック・スチュワート)教授もマグニートー(イアン・マッケラン)をも上回る超能力の暴走がX-MENにとって大きな脅威となる。ラトナーの演出はこの悲劇的な話を少しもエモーショナルには描かず、VFXだけの映画という印象となっている。映画を盛り上げるポイントがないのである。シンガーならもう少し情感たっぷりに描いたはずだ。個人的にはストーム(ハル・ベリー)とヤンセンを見ているだけで満足なのだが、ヤンセンのあの怪物のような形相はいただけない。抑えきれない超能力の暴走という点で「キャリー」や「フューリー」を思い起こさせる映画である。

ミュータントの能力をなくす治療薬キュアが開発される。ミュータント省の長官を務めるビースト(ケルシー・グラマー)は「恵まれし子供たちの学園」を訪れ、エグゼビア教授にそれを告げる。政府はミュータント政策としてキュアの投与を呼びかけるが、マグニートー率いるブラザーフッドは反発。キュアを開発したのはワージントン(マイケル・マーフィー)。ワージントンの息子エンジェルは背中に翼を持つミュータントだった。一方、ジーン・グレイを失って失意のサイクロップスはグレイの声に導かれるようにジーンが死んだ湖に行く。そこへ死んだはずのジーンが現れる。ウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)とストームも湖に駆けつけ、ジーンを学園に連れ帰るが、サイクロップスの姿はなかった。エグゼビア教授はウルヴァリンに、ジーンは邪悪なフェニックスとの二重人格者だと教える。そしてジーンはウルヴァリンの目の前で学園を脱走、接触してきたマグニートーの仲間に加わる。

キュアの元になったのはミュータントの能力を無力化する能力を持つミュータントのリーチ(キャメロン・ブライト)。保護された研究所の中にいるリーチの在り方は大友克洋「アキラ」を思わせる。クライマックスはこのリーチを抹殺しようと図るミュータント軍団に立ち向かうウルヴァリンたちが描かれる。この場面は映画の最初の方にある戦闘シミュレーションと呼応しているのだが、撮り方もVFXもそれほど際だったものではない。復讐の女神と化したジーン・グレイをどう助けるかでリーチの能力を生かすのかと思ったら、普通の決着の付け方なので少しがっかり。というか、本来ならこの決着の付け方の方が悲劇的ではあるのだが、ラトナーの演出がそれを生かせていないのである。パンフレットのみのわあつおの文章によると、「X-MEN」はキャラクターのスピンオフを含めて計10作が作られる予定という。せめてこの第3作まではシンガーに撮って欲しかったところではある。

ファムケ・ヤンセンは今年41歳、ハル・ベリーも40歳だが、年を感じさせない魅力はさすが、というべきか。前作までレベッカ・ローミンはレベッカ・ローミン=ステイモスという名前だったが、ジョン・ステイモスとは昨年、離婚したのだそうだ。


2006年09月10日 [Sun]

「ハリウッドで勝て!」

「ハリウッドで勝て!」表紙全米ナンバーワンヒットとなった「The Juon/呪怨」のプロデューサー一瀬隆重の本。といっても、本人が書いているわけではなく、大谷隆之という人が聞き書きで構成したもの。一瀬隆重が唯一監督した「帝都大戦」は「帝都物語」の続編で世間的にはあまり評判がよろしくなかったが、僕は超能力バトルの映画としてそれなりに面白く見た。→「帝都大戦」映画評

この映画は「孔雀王」のラン・ナイチョイが降板してしまい、プロデューサーの一瀬がやむなく引き受けた経緯がある。一瀬は「『帝都大戦』はさんざんな結果に終わりました。この先、自分で監督を引き受けることは絶対にないでしょう」と語っている。しかし、この失敗から監督が映画製作の過程でどんなことを考えるかを身をもって知ることになる。この時の体験が後の「リング」に生かされた。

プロデューサーを務めた釈由美子主演「修羅雪姫」のパンフレットには「日本映画は今のままじゃダメだ。だから、今日の傑作やヒット作じゃなく、未来の大傑作や大ヒット作を生み出すために、失敗を恐れず実験しなきゃいけない」と書いていた(これについては2002年2月27日の日記にも書いた)。20世紀フォックスとファーストルック契約(スタジオから一定の報酬をもらう代わりに自分の企画はそのスタジオに最初に見せる契約)を結んだ今の一瀬は将来的にそれを実践するつもりなのだろう。テレビ局製作の映画が大ヒットしている現状について「このまま行けば、近い将来、日本映画は観客の信用をもう一度失うことになる」とあらためて語っている。

「ウルトラQ」の第1回目をテレビの前で心待ちにしていたというから、一瀬の映像体験は僕とほぼ共通している。インディペンデントのプロデューサーがハリウッドでどのようにステップを上がっていきつつあるかが、よく分かる本である。

個人的に興味があったのは「映画投資ファンド」の話で、映画「忍 SHINOBI」では一口10万円で個人投資家を募り、1300人が応募して5億円余りを調達したそうだ。規制が多くて中小の会社では難しい面があるそうだが、これは機会があったら投資してみたいなと思う。それには少なくとも大幅な元本割れがないようにしてほしい。理想は100円でも200円でも投資額を上回るリターンが望ましいのだが、映画ビジネスの場合、大ヒットにならないと、難しいだろう。貯金しても大した利子はないのだから、映画に投資した方がましである。


2006年09月19日 [Tue]

暖かい1票

「ポイントはDVDの販売なんですよ。作品を認めてくれた人はDVDを買ってくれるんです。次も頑張れよと、暖かい1票をくれる」。スラッシュドットに引用されていた。「惑星大怪獣ネガドン」の製作・配給を行ったコミックス・ウエーブの関係者の言葉。「惑星大怪獣ネガドン」は昨年11月に東京で公開された25分の短編。すべて1人(粟津順監督)で作った3DCG映画で、昭和の怪獣映画を思わせるタッチになっているそうだ。

公式サイトにある予告編を見たら、面白そうだったのでamazonで買おうかどうか迷っていた。そこでこの言葉を読んで、買う気になった。自主製作映画のDVDを買うというのは多分にそういう応援の気持ちがある。amazonにあるユーザーレビューは決して良いものばかりではないが、まあ、少しぐらいつまらなくてもいいかという気分になる。

粟津順監督、2作目も頑張ってほしい。いや、まだ1作目も見ていないんだけど。2、3日後には届くだろうが、見られるのは週末。


2006年09月23日 [Sat]

「惑星大怪獣ネガドン」(DVD)

「惑星大怪獣ネガドン」ジャケットというわけで見る。怪獣映画マニアの作った昭和の怪獣映画風3DCG。監督の粟津順は1974年生まれで、学生時代に「ガメラ2 レギオン襲来」を見てショックを受け、怪獣映画の本格的なファンになったのだという。続く「ガメラ3 邪神覚醒」がCG作家を志すきっかけになったそうだ。「ネガドン」の怪獣が何となくイリスを思わせるのはそれが影響しているのかもしれない。

ストーリーは簡単で、火星のテラフォーミングが進む昭和百年が舞台。火星の地下から現れた怪獣が地球に落ちてくる。それを工事用ロボットのMI-6(ミロクと読む)が迎え撃つ。MI-6を操縦する中年の研究者は過去にロボットの事故で一人娘を亡くしているという設定。それだけの物語である。25分の短編だからこのストーリーで良いのだろうが、長編を作るなら、物語の工夫はもっと必要になってくるだろう。話は怪獣映画以上のものではない。SFの分かる脚本家が力を貸せば、もっと充実したものになると思う。

2年4カ月かけて一人で作った作品なので、良くできているところもあれば、そうでないところもあるが、技術的には水準以上と思う。可能性を感じさせる。人間のCGがあまりうまくないのはアメリカのピクサーあたりもそうだから仕方がない。うまくいかないのなら実写を使えばいいことで、粟津順には将来的に役者を使い、CGを組み合わせた怪獣映画を撮って欲しいところだ。

小説を書くように映像を作れる時代になったと、粟津順はDVDに収録されたインタビューで語っている。1人で作る方が良いのか、共同作業が良いのかは難しい問題ではある。監督に向く人も向かない人もいるだろうから、個人でうまくいった人が共同作業でも素晴らしい作品を作れるとは限らない。それでもこの技術を個人の枠内に収めておくのはもったいないと思う。より充実できる部分が多くあるからこそ、可能性も感じるのである。

[MOVIE] 「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」

「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」パンフレットウルトラマンシリーズ生誕40周年記念作品。出てくるのは初代ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン(今はウルトラマンジャックと呼ばれる)、ウルトラマンエース。どれもリアルタイムに見ていたので、黒部進、森次晃嗣、団時朗、高峰圭二が出てくると、懐かしさがこみ上げてくる。そういうノスタルジックというか40年の歴史の重みを一番感じさせるのはエンドロールで、桜井浩子やひし美ゆり子、星光子まで顔を出すのが何というか感涙ものである。桜井浩子はウルトラマンの後、実相寺昭雄の映画に出ていたし、ひし美ゆり子も東映映画などに出ていた(というか桜井浩子はウルトラマン以前からかなりの映画出演歴がある)。

メビウスの物語にウルトラ兄弟の面々を絡ませた展開は悪くないのだが、怪獣に襲われて心を閉ざした少年のエピソードに魅力を感じない。作劇としてうまくないのだ。加えて、GUYSの戦闘機のいかにもオモチャ然とした造型および質感は僕には見ていく上での障害でしかなかった。板野サーカスと言われるCG監督板野一郎のCGも取り立てて騒ぐ出来ではない。小中和哉監督作品としては大人の観賞を意識して作った前作「ULTRAMAN」(2004年)の方が面白く、今回の映画は子供向けストーリーの域を出ていないのが惜しい。マニアは喜ぶだろうが、ウルトラマン世代向けなのは懐かしさだけなのである。

20年前、異次元超人ヤプールの怨念で生まれた究極超獣Uキラーザウルスをウルトラ兄弟は協力して神戸沖に封印する。パワーを使い切ってしまったために4兄弟は変身能力を失い、以後は市井の民間人として暮らしていた。そして現在、GUYSのヒビノミライ(五十嵐隼士)は神戸に異変を感じて一人出動する。テンペラー星人、ガッツ星人、ナックル星人、ザラブ星人の宇宙人連合がUキラーザウルスを復活させようとしていたのだ。ミライは現れたテンペラー星人をメビウスに変身して倒すが、その戦いで宇宙人連合に能力を知られ、倒されて十字架に架けられてしまう。ウルトラ兄弟はメビウスを救うために死を覚悟して変身する。しかし、宇宙人連合の狙いは4兄弟の方にあった。兄弟のエネルギーでUキラーザウルスを復活させたのだ。

これが本筋でサイドストーリーとして描かれるのが、天才科学者ジングウジアヤ(いとうあいこ)の弟で怪獣に襲われて心を閉ざしたタカト(田中碧海)の話。タカトはGUYSとウルトラマンメビウスにあこがれていたが、一緒にいた愛犬を救おうとしなかった自分を責めていた。この話がどうもテレビシリーズレベルの話である。子供を意識したのだろうが、全体の流れから言えば不要としか思えない。クライマックスは巨大化したUキラーザウルスとウルトラ兄弟の戦いをCGを駆使して描く。ここはそれなりに見応えはあるものの、これがこの映画の魅力かと言えば、そうでもないだろう。子供なんか意識しなくていいから、ガチガチの4兄弟の話にした方が良かったように思う。

気になったのはミニチュアの神戸の街並みに登場する着ぐるみ怪獣たちのリアリティ欠如。平成ガメラシリーズも着ぐるみだったのに、あれはどうしてあんなにリアリティを持ち得たのか。たぶんドラマとエモーションががっちり組み合わさっていたからだろうと思う。ウルトラマンシリーズでも「ウルトラセブン」が名作だったのは脚本家・金城哲夫の存在が大きかった(どうでもいいが、この夏、石垣島に行った際、金城哲夫作品のDVDボックスのテレビCMが盛んに流れていた。沖縄では金城哲夫の名前でDVDが売れるのか)。映画の中にも引用されるキングジョーとの戦いや最終話のドラマティックさがこの映画にも必要なのだろう。小中和哉、次もウルトラマンを作るなら、脚本にもっと力を入れて欲しいと思う。


2006年09月26日 [Tue]

ウイルスバスター2007でトラブル

トレンドマイクロのサイトで自動インストールをしようとしたら、ActiveXを有効にしないとインストールできない。セキュリティソフトがそういうことでいいのかなと思いつつ、IEの設定を変えて再度行う。

ファイルをダウンロードしてインストールが始まったが、途中でなぜか電源が切れて再起動する。そこからが大変だった。ウイルスバスターはインストールを再開しようとするのだが、「言語バージョンが異なるためインストールできません」とのダイアログが出て進まない。2006の方もアンインストールできない。再起動してもまたも同じダイアログが出るだけ。電源が切れたため、ファイルの一部が破損したのだろう。

セーフモードで起動したり、いろいろやってみたが、らちがあかないので伝家の宝刀・システムの復元をやってみる。これでOK。2006をアンインストールした後、2007をインストールした。それにしてもなぜ、途中で電源が切れたのだろう。

使えないウイルスバスター2007

上に書いたことは昨夜起きたこと。ここからは今日の夕方のこと。

僕の環境では使えないことがはっきり分かった。パソコンを起動してみたら、常駐ソフトを読み込み終えるところで勝手に電源が切れて再起動する。スキャンディスクとデフラグをした後だったので、CPUが熱くなってるのかと思ったが、違った。ウイルスバスターが起動しないセーフモードでは何ということもなく普通に起動するのだ(どうでもいいが、VAIOのセーフモードはF8キーを押しっぱなしではダメで、何度か連打する必要があった)。

インストールの状況は[教えて!goo] ウイルスバスター2007 30日間期間限定版。。。と同じ。環境によってはこういうことが起こるようだ。何が影響しているのかよく分からない。はっきりしたのは使えないことだけ。セーフモードでシステムの復元を行い、ウイルスバスター2007をインストールする前に戻したら正常に戻った。そこでウイルスバスター2006を再インストール。これで正常に使えているから、2007に何らかの不具合があるのは確実だろう。

昨年のパターンファイルによるCPU100%の不具合は記憶に新しいが、トレンドマイクロはまたやっちゃったんじゃないかという思いが沸々。修正版がでなければ、トレンドマイクロとはもうオサラバしたい。といっても来年11月まで更新期間が残っているのが腹立たしい。


2006年09月27日 [Wed]

「わたしを離さないで」

「わたしを離さないで」表紙SFとミステリの枠組みで語られる文学。それも素晴らしい文学。中心となるアイデアは昨年公開された映画に似ているが、展開がまるで異なる。最初のページに登場人物たちの秘密につながる重要なキーワードが既に出てくるし、数ページ読み進めるうちにこれはあの映画と同じではないかと分かってくる。そして3分の1ぐらいのところで作者のカズオ・イシグロはそれを明らかにする。その場面が特に強調されるわけではない。そこに至るまでに読者には秘密が分かっているからだ。作者の意図は秘密よりもその立場に置かれた若者たちを描くことにあったのだろう。

煎じ詰めれば、これは「限られた短い命を定められた若者たちの生き方」を描いた話である。彼らの制限された生き方は普通の人たちと違うのか。少しも違わない。彼らもまた恋をするし、些細なことで怒ったり、笑ったりする。仲間内のいじめもある。にもかかわらず、この小説の全体にあるのは透明で深い悲しみだ。同時に彼らに課せられた過酷な運命とそれを人為的に作り出した人間たちに怒りが湧いてくる。そしてもちろん、カズオ・イシグロは意識しているだろうが、倫理的な問題が残るこの技術を安易に進めるべきではないとの強烈なメッセージになっている。

彼らの置かれた状況は戦時下にも置き換えられるし、難病を生まれつき背負った患者にも置き換えられる。強制収容所に入れられたユダヤ人たち、屋根裏部屋に隠れて生き延びようとしたアンネ・フランクをも彷彿させる。そこがこの小説の優れたところなのだろう。読売新聞の作者インタビューによれば、「イギリスの田舎に住む若いグループが、核兵器によって短い人生を終えるというのが当初の設定」だったという。自分たちの運命を受け入れ、それでも小さな幸福と小さな喜びにすがって生きる彼らの生き方には胸を締め付けられる。

終盤、主人公の介護人キャシーとその恋人のトミーは3年間だけ平穏に暮らせるといわれる方法の真偽を確かめる。それが残酷な結末に終わっても、この小説の魅力はそうしたプロットにあるわけではない。例えば、第1章にあるこんな場面で僕はこの小説に引き込まれた。

癇癪持ちであるためにみんなからいじめられるトミーにキャシーが語りかける場面。トミーは得意のサッカーの選手に選ばれると期待していたが、選ばれず、ぬかるみの中で叫びながら地団駄を踏んで、一番お気に入りのシャツを泥だらけにしてしまう。

「トミー」と、わたしはとがめる口調で言いました。「大切なシャツが泥だらけじゃない」
「だから何だよ」ぼそぼそと言いながら、トミーは下を向き、点々とついている茶色の染みに気づきました。わっと叫ぼうとして、危うく思いとどまったふうでした。次に現れたのは意外そうな表情です。これが大事なポロシャツだってこと、こいつはなぜ知ってる……? その思いだったでしょうか。

穏やかで繊細な筆致で統一されたこの小説はだからこそ、読む者の胸に迫る。カズオ・イシグロの「日の名残り」は僕には関係ない世界と思って、小説も読んでいないし、映画も見ていないが、これほどの小説を書ける作者の本はすべて読みたくなる。そう思わせるほどの傑作。


2006年09月28日 [Thu]

760MBのテキストファイル

職場のパソコンにデフラグをかけてみたら、ほとんどフラグメンテーションが改善されない。ログを見ると、760MBのテキストファイル(!)があって、断片化している。これはなんだと思ったら、ウイルスバスターのログファイル。こんなに大きなログファイルを作っていったいどうする。秀丸でだって開くのに時間がかかってしようがない。というか、途中で開くのをやめた。恐らくこのファイル100万行以上あるのではないか。

こういうログファイルは初めて見た。いくらなんでも、トレンドマイクロ、やりすぎだろう。古い行を削除するとか、一定行までいったら新しいファイルを作るとかの機能はないのだろうか。ちなみに職場のパソコンに入っているのはウイルスバスター2004。既にサポートは終わり、パターンファイルの更新もできなくなっているので近く、担当者が新しいバージョンを入れに来るそうだ。2007はやめた方がいいよ、と担当者に言っておいた。


[管理人にメールする] [シネマ1987online]