映画とネットのDIARY(tDiary版)
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【映画の感想一覧】 2004年7月以降 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年
2006年11月02日 [Thu]
■ IE7
日本語版が出たのでインストール。ちょっと触ってみたが、Sleipnirの方が使いやすいので、使わないでしょうねえ。で、Sleipnirを起動してこの日記を書こうとしたら、記憶させておいたパスワードがきれいさっぱり消えている。ま、もう一度、記憶させておけばいいんですけど、いろいろサイトのパスワードを記憶させていたので、面倒だな。セキュリティ上はこの方がいいんでしょうけどね。
検索プロバイダを追加できるのは他のブラウザでもあるが、とりあえず、ウィキペディアとamazonと@niftyとYahoo!と楽天とgooを追加しておいた。
2006年11月09日 [Thu]
■ PIXUS MP810
MP960(7色インク)と最後まで迷ってこちらにした。価格は問題ではなく、印刷スピードの問題。はがきの文面印刷がMP960は32秒なのに対してMP810は13秒。この違いは大きい。年賀状100枚印刷することを考えると、大変な差になってしまう。それに僕は写真をあまりプリントしない。プリンタの主な用途は文書の印刷とCD・DVDラベルの印刷。きれいさは5色インクで十分(店頭に置いてあった写真を見比べたら、それほどの差はなかった)。
プリントヘッドを設置し、インクを取り付けてヘッダの調整を自動で行うのに14分(以前のキヤノンのプリンタはヘッドの調整を手動でする必要があったのを思えば、かなり便利)。ソフトウェアのインストールに10分余り。USBで接続してまず、CDラベルを印刷してみる。速さきれいさはまあ、こんなものかというぐらい。自宅に置いてあるプリンタ(850i)とそれほどの差はない。
驚いたのはスキャンのスピード。プレビューがあっという間。スキャンも凄く速い。うーん、スキャナは数年でこんなに進歩するのか。右のミステリマガジンの写真がテストでスキャンしたもの。いい感じである(これをスキャンしたのは今日、ミステリチャンネルを見ていたら、ミステリマガジンの編集長が出ていたから。初めて見たが、まだ若いんだな)。
他の機能はまだ試していない。説明書を読んで、いろいろやってみよう。
2006年11月11日 [Sat]
■ 筆ぐるめ
バージョン14のアップグレード・乗り換え版を買う。2800円。以前使っていた筆まめも考えたが、800円ほど高かった。年に一度、年賀状シーズンにしか使わないので、安いやつで十分。
さっそくDVDをセットしてインストール。旧バージョンの住所録を探してHDD内をすべて検索し始めたのでストップ。旧バージョンを起動して住所録をマイドキュメント内にバックアップ。そのフォルダを検索指定する。やれやれと思っていたら、途中でフリーズ。別のアプリケーションを起動したのが悪かったか。仕方がないので電源を落として再起動。難なくインストールが始まったが、なかなか終わらない。イラストなどのコピーに時間がかかっているらしい。
結局、Cドライブのインストール先を見たら、フォルダの容量は1.75GBもあった。データフォルダは別ドライブに置けるようにならないんですかね。起動も動作も遅いのはこの大量のデータのためのようだ。やれやれだな。アンインストールして最小インストールし直そう。ただし、最小インストールでも500MB以上になるようだ。
2006年11月12日 [Sun]
■ [MOVIE] 「手紙」
「そんなことしたらあかん、大事なものやんか! そんなことしたらあかん!」。沢尻エリカ扮する白石由美子が兄からの手紙を破り捨てた主人公の武島直樹(山田孝之)に言う。ここで2人の仲が急速に接近してそれで映画は終わりになるのかと思ったら、その後にさらに本当の決着がある。罪を犯した者とその家族、犠牲者の家族の関係。原作は未読だが、そこまで描くのは大したものだと思う。しかし、全体的には主人公が漫才師を夢みることにどうしても違和感があった。山田孝之は本質的に暗いイメージなので、似合っていないのである。非常にうまく演じているのだが、似合っていず、中学の頃から笑いを目指していたとは思えない。とんとん拍子に人気者になることにはもっと違和感があるし、大企業の専務令嬢(吹石一恵)との愛と破局などは破局の場面に一工夫あるとはいえ、吹石一恵が登場した時から先が読める展開。会社の先輩である田中要次の過去と大検を目指す現在の姿などは泣かせるし、杉浦直樹の差別社会の本質を突いたセリフも泣かせる。そうした美点とあまりにもありふれた描写が混在していて、そこが評価をためらわせる。もっともっと脚本を練ることが必要だったのではないかと思う。
原作が家にあったので、冒頭部分を少し読むと、原作では一人暮らしの老婦人の殺し方に明確な殺意がある。持っていたドライバーを首に刺すのである。映画はもみ合っているうちに老婦人が抵抗するために手にしたハサミが腹に刺さって死んでしまう(これは腹ではなく、首か心臓の方が良かったと思う)。盗み目的で侵入した上での殺人だから強盗殺人罪も仕方ないが、どちらかと言えば、過失致死の線が濃厚である。映画の改変は殺人者の兄に同情を持たせるためだろう。兄が強盗に入ったのは運送会社での激務で腰を痛め、仕事ができなくなったことで弟を大学に行かせられない恐れがあったため。そうした不遇な状況の中で、殺人者の家族に冷たい世間を描いていく。
「俺みたいなヤツに言われたかねえだろうけどよ、夢があるなら、簡単に諦めんなよ」。リサイクル工場の先輩である倉田(田中要次)が言う。倉田は食堂で働く由美子が直樹にクリスマスプレゼントを贈ったことで、「最近の若いやつはやることは早いんだから」などと嫌がらせをするのだが、実は倉田自身、服役経験があり、直樹の兄の手紙を見てすべてを理解する。そして家族が誇れる父親になりたいと、大検を目指していることを告白するのだ。こういう地道な話で終わっても良かったのではないかと思う。直樹は「夢をあきらめるな」というアドバイスに従って工場をやめ、お笑いの道を友人の寺尾祐輔(尾上寛之)とともに目指すことになる。そこからの描写が安っぽい上にリアリティに欠け、映画はしばらく停滞してしまう。それが復調するのはお笑いをやめ、秋葉原の電気店で働く直樹が埼玉の倉庫へ左遷させられる場面から。倉庫を訪れた会社の会長(杉浦直樹)は「差別があるのは当然だ」と話す。「しかし、君は差別のない場所を探すんじゃない。ここで生きていくんだ」と言う杉浦直樹の言葉は力強く、直樹に言葉をかけた理由が由美子からの手紙だったことが胸を打つ。由美子自身、父親が多額の借金を背負って逃げ回った過去があるが、「私はもう逃げへん」と決意しているのである。その由美子の決意はたった一人の肉親を大事にするべきだという前記のセリフに表れている。
こうした細部のエピソードは非常にうまい部分もあるのに、ぎくしゃくした感じが映画にはつきまとい、そこがとても残念だ。生野慈朗監督はテレビのベテランディレクターで、映画としては「いこかもどろか」(1988年)「どっちもどっち」(1990年)の2本が既にある(「いこかもどろか」は公開当時、映画評論家の山田宏一が絶賛していたが、見ていない)。描写がテレビドラマ的というのは短絡だけれど、お笑いの場面はテレビドラマを超えるものではなかったと思う。ついでに言えば、沢尻エリカが途中で眼鏡を外すのもよく分からない。最後まで眼鏡の方が良かった。「電車男」でも思ったが、山田孝之は男から見ても好感度がある。玉山鉄二は「逆境ナイン」とは全然違う役柄をうまく演じていて、これまた好感が持てる。
2006年11月14日 [Tue]
■ [MOVIE] 「デスノート The Last Name」
先に見た子どもから結末部分をネタバレで聞かされてしまった。最後のトリックを知って見たのだから、僕の感想はそれ以外の部分しかあてにならないことをおことわりしておきます。
主要登場人物は美男美女ばかり。ライトとLの頭脳戦を描きつつ、これは由緒正しくアイドル映画なのではないかと思う。男性は戸田恵梨香、片瀬那奈、上原さくら、満島ひかりに目を奪われ、女性は正統的な二枚目である藤原竜也と癖のある松山ケンイチに満足するのだろう。金子修介監督、ロマンポルノの時代から女優の趣味が良かった(というかカワイイ系に偏っていた。ガメラシリーズの中山忍もそうだ)が、当然のことながら女性客も意識してサービス精神旺盛だ。前作の瀬戸朝香、香椎由宇も見栄えが良かったけれど、今回もビジュアル面では抜かりがないのである。演技力云々よりも絵として映える女優を選んでいるとしか思えない。だから「デスノート」は前編も後編も結局のところ、気楽に楽しめるアイドル映画なのだろう。アイドル映画としてはストーリーも凝っていて良くできているので、恐らくアイドルを見るために再見する人もいるのではないか。という消極的な評価しか僕にはできない。そんな中、美男の範疇には入らない鹿賀丈史が原作とは違って重要な役回りになっているあたりが面白い。他の若い俳優たちはゲームの駒だが、鹿賀丈史はドラマを背負う役割。ここをもっと強調すると、映画はさらに面白くなっていたのではないかと思う。ドラマが軽く、切実な部分がないのはこうしたゲーム感覚映画の宿命か。
前編は原作の4巻目あたりまでを映画化したものだが、後編はその後の12巻までをグシャッと縮めて結末を映画独自のトリックに変えてある。原作で最も感心したのは、というか、そこにしか感心しなかったのだが、第7巻の驚愕的な展開。大きなトリックがぴたりと決まって着地する快感があった。ここは重要な部分なのでちゃんと映画でも描かれているが、短いので、衝撃は原作に到底及ばない。最初からライトの策略の一部として描かれるため、原作のように物語をひっくり返す驚きがないのだ。もっとも原作を読んでいる観客には原作通りに描いたにしても、もはや衝撃でもなんでもない。原作を読んだ観客に対するサービスが結末部分の変更で、残念ながら、先に書いたような事情があるので、僕には全然面白くなかった。ただ、小さく感じた原作のトリックよりはよく考えてあると思う。裏の裏の裏をかくだけの原作のトリックを映画でやると、分かりにくく、見ていてバカバカしくなっていただろう。
というわけで原作を全然知らず、白紙の状態で見た1作目の方が僕には面白かったが、それは当たり前のことなのだろう。それでも言えるのは、今回のラストのトリックはやはり映画独自だった前作のラストのトリックほどうまくできてはいないということ。前作のラストに感心したのはそれが単なるトリックではなく、夜神月という男が悪の主人公であることをはっきりと宣言する場面になっていたからだ。考えてみれば、あれも観客が思いこんでいる物語をひっくり返すトリックだった。今回はよく考えたトリック以上のものではないのである。トリックのためのトリックというレベルでは面白くない。ただ、金子修介の主要キャラを立たせる演出はそれなりに評価されていいと思う。死に神のCGや川井憲次の音楽も相変わらず良かった。
この日記ではなく、mixiの方の日記を読み返してみたら、原作を9巻まで読み終えた7月1日の日記に僕はこう書いていた。「気になるのは映画の後編がどこまで描くかということ。とても12巻までは無理だろう。第3のキラを出さずに第1、第2のキラ対Lの対決で終わるのではないか。映画の後味を考えれば、キラもLも両方死ぬ結末を僕なら考える」。まあまあの線ではないか。
2006年11月17日 [Fri]
■ 情報バー
Sleipnirはバージョン2.49からIE(Trident)の情報バーに対応した。これが困ったことに、IEのインターネットオプションで情報バーを出ないように設定(インターネットオプション−詳細設定で「マイコンピュータのファイルでのアクティブコンテンツの実行を許可する」にチェックを入れる)しておいてもSleipnirではバーが出てしまう。JavaScriptを使っている自分のホームページのローカルファイルをIEでもSleipnirでもホームページに設定しているので、起動するたびに情報バーが出てくるのはうざい。
Sleipnirのオプションを見たら、ビューの詳細設定のところに「Tridentの情報バーを使用する」というのがあったので、これのチェックを外したらOK。と思ったが、これは情報バーがでなくなるだけで、JavaScriptはブロックされているようだ。こういう場合はさらに「ローカルマシンでロックダウンする」のチェックも外す必要がある。
あるいは既定のブラウザエンジンをGeckoにしておいても大丈夫のようだ。Geckoにしておいた方が無難か。ところが、Geckoにしておくと、ホイールクリックではタブが開かない。おまけにタブをダブルクリックしてのナビゲーションロックができない(右クリックからのナビゲーションロックも同様)。こんなことならFirefox使った方がいいような気がしてきた。IE7に完全対応したのはいいが、Geckoの方の対応も進めて欲しい。いや、ま、素直にFirefox使えばいいんですけどね。
2006年11月19日 [Sun]
■ [MOVIE] 「トゥモロー・ワールド」
英国ミステリの女王P・D・ジェイムズの原作を「天国の口、終りの楽園。」「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のアルフォンソ・キュアロン監督が映画化。子供が生まれなくなった未来社会を舞台にしているが、SFではなく、作りとしては逃亡劇・脱出劇の趣である。
テーマははっきりと反戦で、クライマックス、熾烈な市街戦の中で赤ん坊を見た敵味方の兵士たちが争いを中断するシーンにそれが色濃く、感動的に現れる。人類の絶滅が時間の問題と思われたところに出てくる赤ん坊だから、赤ん坊は単純に希望を、救世主の出現を明示しているのだ。人口抑制のために30年間、子供を産むことを禁じられた「赤ちゃんよ永遠に」(1971年)を思い起こさせる設定だが、この映画には当然のことながら、さらに絶望的な雰囲気が漂っている。子供がいないというのは未来がないということと同義であり、これが世界の国々の崩壊をもたらしたのだろう。好みから言えば、SF的な部分を補強し、スケールを感じさせるドラマにした方が映画は面白くなったのではないかと思うけれど、キュアロンの立ち位置が分かる力作である。原題のChildren of Men「人類の子供たち」が子供の重要さを表しているのに、なぜ「トゥモロー・ワールド」などという邦題になるのか理解に苦しむ。
2027年、地球上で最年少の18歳の少年が死ぬ。人類には18年間子供が生まれず、世界の国々は暴動によって崩壊。不法移民を厳しく制限することでイギリスのみが政府としての機能を果たしていた。しかし、ここも爆弾テロが相次ぎ、全体主義社会を思わせるディストピアだ。主人公のエネルギー省官僚セオ(クライブ・オーウェン)はある日、反政府組織のフィッシュから拉致される。リーダーはかつての妻のジュリアン(ジュリアン・ムーア)。セオ自身、かつては活動家だったが、今は酒に溺れ、体制側の人間になりきっている。ジュリアンはセオに文化大臣のいとこから通行証を都合するよう依頼する。ジュリアンはキー(クレア=ホープ・アシティ)という少女を「ヒューマン・プロジェクト」という世界組織に送り届けようとしていた。通行証は最初の検問までセオの同行が必要で、セオはジュリアン、キーらと、行動をともにする。途中、暴徒から襲撃され、ジュリアンは撃たれて死んでしまう。
主人公が連れ去られた赤ん坊と母親を探して市街戦の中を走り回るクライマックスの長いワンカットが話題だが、カメラに血糊が飛び散ったままの長回しは普通なら撮り直すところ。それともあれは臨場感を出すためだったのか。この市街戦のシーンは遠景の中で人が簡単に死んでいく。現在の中東情勢を思わせるものであり、キュアロンは未来に託して現在を照射しているのだ。エンドクレジットの最後にShanti Shanti Shanti(サンスクリット語で平和の意味)と出すのも子供のために反戦を訴える作品であることを明確にしている。
有名女優の使い方としては非常に効果的だとは思うが、ひいきのジュリアン・ムーアがすぐに退場するのは残念。マイケル・ケインの使い方も同じようなもので、この映画のテーマ重視の姿勢が表れている。
2006年11月25日 [Sat]
■ [MOVIE] 「ヨコハマメリー」
上映終了後のトークショーが終わった後、ロビーでパンフレットへのサイン会があったので中村高寛監督に気になっていたことを聞いてみた。
「監督はハードボイルドが好きなんじゃないですか?」
そんなことを聞いたのはもちろん、この映画がハードボイルドの手法で構成されているからだ。いなくなった人物のことを周辺の人物に聞いてまわることで人物の肖像を浮かび上がらせるという手法。この映画の場合、探偵役は中村監督なのだが、ハードボイルド・ミステリと異なるのは監督がメリーさんの消息だけに関心があって聞いているわけではないところにある。それがなぜなのかはラストで分かる。このラストもこの手法からすれば、必然的なものだったと思うし、予想もついた。この手法は意図的なものなのか、偶然なのか。そこが気になった。
監督は「好きですよ。なぜですか」と答えた。
「映画の手法が似ていると思いました」
「次(の作品)はもっとハードボイルドな実録的なやつです」
僕はよく映画の感想の中に「ハードボイルドタッチに似ている」と書くけれど、ハードボイルド・ミステリを読んだことがない人にはまず誤解されているだろうなと思う。トレンチコートに帽子をかぶった探偵が出てきたりとかハードなアクションがある映画を想像しているのではないか、と心配になるのだ。僕がハードボイルドタッチと書くときは常に前述したような手法を指している。間接的な描写を積み重ねて焦点の人物像を描く手法を用いた映画のこと。監督の最後の答えは意図的なものではないのでは、という疑問を持たせるものだった。
それに中村監督は上映前のあいさつで「この映画はメリーさんを描いたものではありません」と語った。ならば、この手法は偶然のものなのだろう。いや意図的かどうかは実はあまり重要な問題ではない。この映画がその手法である程度成功していることが重要なのだ。
「ハマのメリー」と呼ばれる白塗りに白いドレスを着た高齢の娼婦がいた。背中が曲がったその姿は写真だけで十分にインパクトのあるものだ。1995年にメリーさんは伊勢佐木町から姿を消す。街の人々は「メリーさんはもう死んだ」と確信している。というのが映画の出だし。そこから映画はメリーさんにかかわったさまざまな人物にインタビューしていく。メリーさんを世話したゲイのシャンソン歌手・永登元次郎、エイズを気にする客のためにメリーさんの来店を断った美容室、メリーさんがよく行った酒場・根岸家を知る元愚連隊、メリーさんを取り上げた作家の山崎洋子、メリーさんをモデルにした一人芝居「横浜ローザ」で主役を演じた女優の五代路子、芸者、クリーニング店などなどだ。中でも永登元次郎の在り方が胸を打つ。永登は撮影時点で末期ガンにかかっている。それでもステージに立ち続け、カメラに向かってメリーさんとの交流を語る。永登がメリーさんにシンパシーを持っているのはどちらもマイノリティの立場にあるからだろう。
中村監督がこの映画に取りかかったのは1997年。10年近くメリーさんを追い、計150時間のビデオを撮ったそうだ。メリーさんの消息は映画のラストで分かるのだが、ついに本人へのインタビューはない。ドキュメンタリーで、ある人物のことを描きたいなら、その人物へのインタビューが分かりやすいと思う。ところが、人間はカメラに向かって嘘をつくことも多いのだ。今村昌平の傑作「人間蒸発」は虚実皮膜を意識して構成した映画だったが、それは発言の中に嘘があることを承知した上で取った手法だったのだろうと思う。この映画でも五代路子がメリーさんの格好をして町中を歩く場面があり、そこに「人間蒸発」と同じような虚実皮膜の面白さを感じた。フィクションとノンフィクションが混じった場面なのである。
パンフレットに監督は「『メリーさん』を通した、『ヨコハマ』の一時代と、そこに生きた人たちを、ただひとつの現象として撮っただけ」と書いている。だから「ヨコハマメリー」というタイトルであっても監督が描きたかったのは横浜の街と時代とそこに住む人々だったのだろう。ただ、見ているうちにもっとメリーさんについて知りたくなってくる。初めて撮ったドキュメンタリーでこれほどの作品ができれば大したものだが、この手法をもっと焦点の人物を浮かび上がらせる方向で徹底すれば、さらに映画は面白くなると思う。根岸家に集っていた愚連隊たちを取り上げるという第2作に期待したい。
トークショーで監督が話したことを付け加えておくと、ラストの場面は2003年1月に撮影したものであり、監督はその3年前からこの場所に通っていたそうだ。パンフレットによれば、2004年に永登は死に、メリーさんは2005年1月に亡くなった。
2006年11月26日 [Sun]
■ 「水からの伝言」を信じないでください
作家の高千穂遥さんのページにリンクが張ってあった。水に「ありがとう」などの美しい言葉を見せると美しい結晶を作り、「死ね」などの汚い言葉を見せると汚い結晶を作るという本に対する反論。デマに対して科学者が真剣に反論するのは一見、バカらしいとも思えるのだが、そうではないのである。なんせ相手方は1冊本を書いているのだから、中には信用してしまう人もいるだろう。科学者の立場でしっかりとした反論を書いてもらった方がいい。「水からの伝言」にみるにせ科学というページもあった。
水からの伝言ですごいのは「言葉を見せると」という部分。水は日本語を理解するのか。英語だったらどうなのだろう。あるいはスワヒリ語とかエスペラント語とか。
だいたい、美しいなどという基準で物事を判断するのはどこかの首相と同じで、あまりレベルが高いとは言えない。裏返せば、こういう「美しい」を基準にしている人は汚いものを差別するのだろう。物事を美醜や優劣で判断する考え方がいじめの要因の根幹にもあるのではないか。
2006年11月27日 [Mon]
■ 超mixi足あとちょう
これは驚いた。amazonにオートログインにしていると、本名が相手に分かってしまうというプログラム。amazonだけでなく、YahooやGoogleのIDなどもすっぱ抜かれてしまう。インターネットエクスプローラーの脆弱性を利用しているとのこと。
いろいろ対策はあるが、一番安全なのはIEを使わず、Firefoxを使うことだろう。しかし、これは多くの人にとっては現実的ではない。SleipnirでGeckoエンジン使うと、いいのかもしれないが、先日書いたように使いにくくなる。要するにログイン情報を盗むのだから、常にログアウトするようにしておけば、とりあえず安心か(違うかも)。
とりあえず、通常使うブラウザはFirefoxに変えた。脆弱性が修正されるまでさらば、Sleipnir。