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【映画の感想一覧】 2004年7月以降 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年
2004年11月08日 [Mon]
■ [MOVIE] 「いま、会いにゆきます」
「雨の季節に戻ってくる」。そう言い残して妻の澪が病死して1年。父親の秋穂(あいお)巧と息子の祐司は不器用ながらも仲良く暮らしている。父親は神経を病み、人混みに出かけられない。息子を連れて行った夏祭りでは倒れてしまう。そして、雨の季節がやってきて、本当に澪が帰ってくる…。
市川拓司の原作を岡田恵和(よしかず)が脚本化し、「オレンジデイズ」などテレビのベテラン演出家・土井裕泰(のぶひろ)が映画デビュー作としてメガホンを取った。夫婦愛、親子愛に彩られた幸福感あふれる映画である。ファンタジーなので妻が戻ってきたことに理由がなくてもいいのだが、映画は終盤に物語を別の視点で語り直してその謎を明らかにする。そして途中で感じた疑問点がすべて氷解する。これは脚本か演出の不備だろうと思えた部分が実はそうではなく、すべて計算されていたものであることが分かるのだ。同時に映画の中の物語がいっそうの深みを増して迫ってくる。ラストでようやく意味が分かる「いま、会いにゆきます」というタイトルはヒロインの覚悟と愛情の深さを示して感動的である。あざとくて安っぽくて志の低いお涙ちょうだいものではさらさらなく、洗練されたプロの仕事を見せつけられた感じ。この脚本の完成度は相当高い。
「黄泉がえり」「星に願いを。」「天国の本屋 恋火」とファンタジーで絶好調の竹内結子と中村獅童の好演が相まって、日本のラブファンタジーとしては希有な作品に仕上がった。見終わって思い浮かべたのは「ある日どこかで」(1980年、ジャノー・シュワーク監督唯一の傑作)だが、ある意味、あの名作を越えた充実感がある。なんという幸福な映画であることか。そしてなんと心を揺さぶられる映画であることか。秀作の多い今年の日本映画の中でも上位に入る傑作。もちろん、必見。
正直に言えば、巧(中村獅童)と祐司(武井証)が2人で暮らす序盤の描写は朝食の目玉焼きや夕食のカレーライスに失敗したり、家の中が散らかっていたり、夏なのに冬のスーツを着ていたりする場面を丁寧に描いてはいても、どこかぎこちない部分が残る。やはりテレビの演出家だからなあ、と思っていたのだが、澪(竹内結子)が戻ってきた場面で一気に感心させられる。死んだはずの人間が帰ってきて、迎える人間はどういうリアクションを起こすのか。それ以上に戻ってきた人間はどう描かれるのか。そこを映画は澪がすべての記憶を失っていたという設定にしてうまくかわしてみせる。2人と一緒に暮らすことになった澪は徐々に2人に愛情を感じるようになり、巧から2人の出会いと現在までの経緯を聞くことになる。
それは観客にとっても澪にとっても実に魅力的なラブストーリーである。2人の出会いは高校時代。2年間、同じクラスで隣の席に座っていた。巧は澪に片思いしていたが、打ち明けられないまま、ろくに話もせずに卒業することになる。陸上に打ち込む巧は地元の大学に、澪は東京の大学に行く。ただ、卒業時に澪のノートに言葉を書いた際、ボールペンを一緒にノートに挟んでいた。それを返してもらうことを口実に巧は澪に電話する。初めてのデートで堰を切ったように話し、2人の仲は順調にいくかと思われたが、巧は陸上に打ち込みすぎて体を壊し、陸上も大学もやめる。澪にこんな体の自分に付き合わせるわけにはいかないと思い、別れを切り出してしまう。
この恋愛初期のおずおずといった感じの描写が微笑ましくて良い。竹内結子も美しく魅力的であり、これまでの出演作のベストだろう。澪が一緒にいられるのは雨の季節が終わるまで。いずれ澪が再び消えてしまい、親子2人の生活に戻ることは見えている。そして実際にそうなる。これで終わってしまえば、まずまずの佳作どまりだが、そこから映画は先に書いたような終盤を用意している。
テレビドラマに疎い僕は脚本の岡田恵和については知らなかった。キネマ旬報11月下旬号によると、土井監督の最高のパートナーとも思える存在という。キネ旬のインタビューで岡田恵和は「いわゆる亡くなった奥さんが戻ってきて、そしてまた去っていくという、ただそれだけの話にはしたくなかった」と言っている。その思いがあったからこそ、この終盤の素晴らしさが生まれたのだろう。土井監督は再び、テレビの世界に戻るそうだが、ぜひ2人のコンビで第2作を作ってほしいと思う。
■ [MOVIE] 「オールド・ボーイ」
15年間監禁された男の復讐を熱っぽく描く韓国映画。土屋ガロン・作、嶺岸信明・画のコミックを「JSA」のパク・チャヌクが監督し、今年のカンヌ映画祭でパルム・ドールの「華氏911」に次ぐグランプリを受賞した。誰が監禁したのか、なぜ監禁したのかという謎を巡ってストーリーが展開する。「誰が」という部分を映画は早々に明らかにするが、それは「なぜ」の部分が映画の中心であるからだ。犯人が分かってもその真意はなかなか分からない。原作にはない犯人の主人公への残酷な仕打ちを付け加えたことで、映画は異様な傑作となった。ただし、映画の評価というのは相対的なものだから、これを見た後に「いま、会いにゆきます」を見たら、脚本の出来では完全に評価が下回ってしまった。
この映画の真相部分に驚き、だから15年なのかと納得し、確かにオリジナルなアイデアだと感心しながらも、あまり手放しで絶賛できないのはそれがタブーに関わるからで、「目には目を歯には歯を」を実践して相当ショッキングではあるけれど、うーん、どうかと思えてしまう。映画のテクニックとしても、うまさを感じるほどではない。しかし、「シュリ」で北朝鮮の兵士役を演じて「お前らに飢えて自分の子どもを食らう親の気持ちが分かるか」と叫んだチェ・ミンシクは今回も凄すぎる演技を見せる。15年間の監禁生活で復讐のモンスターと化し、相手に突進していく異様な迫力。アクション場面の撮り方はそれほどうまいとは言えないが、主人公の怒りが伝わって熱気がこもっている。これと主人公を助ける女を演じる新人カン・ヘジョンを見るだけでも価値はある。そしてカンヌでクエンティン・タランティーノが絶賛した意味もよく分かる。同じ復讐ものでも、主人公の復讐の念が段違いに強く切実な点と、復讐が交錯している点で、これはタランティーノ「キル・ビル」より、はるかに面白い。
「俺はけものに劣る存在だけど、それでも生きる権利はあるでしょう」。前半に出てくるこのセリフが終盤に生きてくる。主人公のオ・デス(チェ・ミンシク)は酔っぱらって警察に保護され、家に帰ろうとしたところで何者かに拉致される。気が付くと、ベッドとテレビがある部屋の中。窓はない。定期的にガスが流れ、眠らされる。食事はちゃんと出てくるが、監禁される理由に思い当たりはない。やがて妻は惨殺され、その容疑は自分にかかる。絶望して自殺も試みるが、そのたびに助けられる。オ・デスは自分を監禁した犯人への復讐の念を積み重ね、脱出を計画。しかし、15年たって、突然解放される。オ・デスは寿司屋で出会ったミド(カン・ヘジョン)の家に転がりこみ、自分を監禁した犯人を捜し求める。
監禁された場所を探り当てたオ・デスが十数人のチンピラを相手に立ち回りを演じるのがアクション場面の白眉。このほか、街を必死に走る姿や何事にも突進していく姿などチェ・ミンシクの体を張った演技は絶賛に値する。よくよく凄い俳優だと思う。
パク・チャヌクにこの原作の映画化を勧めたのは「殺人の追憶」のポン・ジュノ監督だったという。完成した映画は「殺人の追憶」には及ばないが、パク・チャヌクのヒット作「JSA」より充実している。今年はたくさんの韓国映画が公開されたが、残るのはこの2本ではないかと思う。