映画とネットのDIARY(tDiary版)

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映画の感想一覧 2004年7月以降 2005年  2006年  2007年  2008年  2009年

2004年09月16日 [Thu]

[MOVIE] 「ヴィレッジ」

「ヴィレッジ」パンフレット「僕が恐ろしいのは君が危険な目に遭うことだ。だから、今このポーチにいる」。中盤、主人公のルシアス(ホアキン・フェニックス)がアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)に話す。村を外界と隔てる森には得体の知れない魔物が住んでいると言われる。その魔物から守るためにルシアスはアイヴィーの家のポーチで寝ずの番をしていたのだ。M・ナイト・シャマラン監督が初めて恋愛映画的要素を取り入れたというこのルシアスとアイヴィーの描写がいい。秘めた思いを表面に出さない奥ゆかしさというのはアメリカ映画では新鮮である。この後、ルシアスはアイヴィーに促されて結婚を申し込むことになる。そしてそれが悲劇を生む。本筋とはあまり関係のないこの2人の描写に感心した。シャマランは描写がうまいと思う。

「ホラーの装いをまとってはいるが、プロットは純然たるミステリ」とシャマランの出世作「シックス・センス」(1999年)の映画評に書いたのだけれど、それと同じことがこの「ヴィレッジ」にも当てはまる。予告編ではホラーのパッケージングが施されていたが、これはミステリ以外の何物でもない。「アンブレイカブル」(2000年)を見た時、僕はシャマランをSFの人と思ったが、それは勘違いで、SF的設定を強化した前作「サイン」(2002年)のバカバカしさによって、シャマランはSFに理解がないことを露呈してしまった。それが本来の得意なジャンルに戻ったら、破綻のない映画が出来上がった。これを見て「騙された」とか「ラストでがっかりした」と怒る人は本格ミステリとは一生縁がない人である。

映画は葬儀の場面で始まる。死んだのは子どもで、墓石に刻まれた文字から時代が19世紀末と分かる。ペンシルベニア州のその小さな村には60人ほどが住んでいる。村人たちは近くにある町を汚れた場所と信じて、外とは交流を断った生活をしていた。しかも町へ続く森の中には何か凶暴な魔物がいると言われている。魔物は村人が森に入らない限り、襲ってくることはない。主人公のルシアスは外界への好奇心を持ち、ある日、森の中に入る。その晩、村を魔物が襲い、家畜が犠牲になった。ルシアスは盲目のアイヴィーを密かに愛していた。ミステリの性格上、詳しく書くのは避けるが、この後、事件に巻き込まれて重傷を負ったルシアスを助けるため、アイヴィーは町へ薬を取りに行こうと、禁断の森に入ることになる。

ネットに氾濫するネタバレ感想によって、大まかなネタは知っていた。ネタの盗用問題が云々されているのも知っていた。だから僕がこの映画に臨む姿勢には「貶してやろう」とのバイアスがかかっていた。そのネタが成立するには、どうしても回避すべきことがあるのだ。しかし、それは映画の終盤、いつものようにゲスト出演しているシャマラン自身の言葉によって、ちゃんと説明された。なるほどね。そこまで気を遣っているなら、これは褒めるべき映画でしょう。傑作と胸を張るほどの作品ではないし、小味ではあるけれど、きちんとまとまったミステリだと思う。

ネタの盗用に関しては、僕は元ネタの映画を見ていないので何とも言えない。ただ、その元ネタの作品よりもこちらの方が面白いのではないかと思う。ミステリに関しては何を語るかよりも、どう語るかが重要な場合もある。過去にあったトリックを上手に再利用することは悪いことではない(知らないふりをして盗用するのはもちろん非難されるべきことだが、黒沢明だって「用心棒」で「血の収穫」のプロットを借りているのだ)。付け加えれば、シャマランは「刑事ジョン・ブック 目撃者」あたりもヒントにしたのではないかと思う。

アイヴィーを演じるブライス・ダラス・ハワードはロン・ハワードの娘という。途中から実質的な主人公となるハワードはこの映画の魅力の一つでもある。このほか、シガニー・ウィーバーやウィリアム・ハートも村の年長者を過不足なく演じている。「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディは本来的にはこの映画のような役柄が合っているのだろう。


2005年09月16日 [Fri]

血圧95

上が95、下が68。生活習慣病健診で計ってもらった。看護師さんに「低血圧ですか?」と聞かれる。いえ、違います。これまでは上が130前後でした。何かの間違いじゃないでしょうか。とは言わなかったが、100切ったのは初めてだ。そう言えば、朝の寝起きが悪いような気が。血圧は自宅でいつも計っておかなくちゃいけませんね。


2007年09月16日 [Sun]

[MOVIE] 「包帯クラブ」

「包帯クラブ」パンフレット天童荒太の原作を堤幸彦監督が映画化。傷ついた人の傷ついた場所に包帯を巻きに行き、それを写真に撮ってネットにアップするという包帯クラブの面々を描く。だれも最初は包帯を巻くだけで心の傷が癒えることなど信じてはいない。しかし、だんだん分かってくる。包帯を巻くことに効果があるのではなく、包帯を巻いてくれた人がいることを知ることによって、傷ついた人は人とつながっていることを知る。それが傷ついた人の心を癒すのだ。やらなければ何も変わらない。やれば変わるかもしれない。それならやろうという登場人物たちの前向きの姿勢が気持ちよい。石原さとみ、柳楽優弥のほか関めぐみ、貫地谷しほり、田中圭、佐藤千亜妃という若い俳優たちがそれぞれに良く、現実の厳しさを併せ持った青春映画として、きっちりまとまった作品だと思う。

堤幸彦は冒頭で短いショットを積み重ねる。主人公のワラ(石原さとみ)のナレーションとともに描かれるこの冒頭のシーンが秀逸で、堤幸彦はこんなに映画的な手法を取る監督だったかと少し感心しているうちに、映画は厳しい面を見せてくる。主人公のワラ(石原さとみ)は包丁で誤って手首を切り、病院に行く。医者からリストカットと間違えられたことに腹を立てたワラは病院の屋上でディノ(柳楽優弥)と名乗る高校生と出会う。屋上の手すりに立っていたワラを自殺しようとしていると勘違いしたディノは手すりに「手当て、や」と言って包帯を巻き付ける。それが包帯クラブの始まりとなった。親友のタンシオ(貫地谷しほり)の知り合いの浪人生ギモ(田中圭)は包帯クラブのホームページを作り、ディノを引き入れて4人は活動を始める。サッカーでオウンゴールをして引きこもった少年のためにはゴールとボールに包帯を巻く。美容院で髪を切りすぎた女性のために美容院の前で包帯を巻いたタンシオの写真をアップする。街のいろんなところに4人は包帯を巻いていく。

ディノは生ゴミをポケットに入れて学校に行ったり、自分がいるテントの中に爆竹を投げ込ませたりする。それは他人の痛みを知るためだという。他人の痛みを知らない人間によって人は傷つけられるのだ。「包帯1本巻いて何かが変わったら、めっけもんやん」「来いやー、出てこいやー」と下手な関西弁で言う柳楽優弥は複雑なキャラクターをうまく演じている。両親が7年前に離婚したことでワラは心に傷を持っている。「自分の子供だったら、どんなに醜くてもバカでも親はかわいいものだ」との考えが父親には通じなかったからだ。父親が勤めていた工場が倒産したために高校には進学しなかったリスキ(佐藤千亜妃)と、中学時代は親友だった裕福なテンポ(関めぐみ)の意外な関連も泣かせる。この映画、細部のエピソードにいちいち説得力がある。キャラクターの立たせ方もうまい。森下桂子の脚本は原作の大筋を踏襲しながら、エピソードを作り替え、配置し直し、ふくらませ、新たなエピソードを付け加えて物語を再構築している。よくある単なる原作のダイジェストではない。森下桂子は原作に真摯に向き合い、テーマをより効果的に訴えるために最大限の力を注いでいるのがよく分かる。恐らく堤幸彦の意見も入っているのだろうが、これは脚色のお手本みたいなものだと思わざるを得ない。

堤幸彦の映画らしくユーモアも散りばめているが、どれも堤幸彦にありがちな滑った場面にはなっていない。一人の少女の命を助けるために包帯クラブの面々が必死に走るクライマックスが感動的で、ここで終わっても良かった。その後にディノの1年前の事件を描くことで、クライマックスが2つあるような感じになってしまったのはちょっとした計算違いだが、これでも大きな減点にはなっていない。希望のあるラストが素敵だ。

堤幸彦はしばらく前の三池崇史を思わせるようなペースで映画を撮っている。撮っていくうちにだんだんうまくなってきた監督なのではないかと思う。次の「自虐の詩」も楽しみだ。


2009年09月16日 [Wed]

pnamazuの携帯電話モード

PCにNamazu for Windowsを入れたら動かない。原因はMicrosoft Visual C++ 2005 Service Pack 1 再頒布可能パッケージ ATL のセキュリティ更新プログラムらしい。更新プログラムを入れたら、すんなり動いた。これが分かるまでに、Perlのバージョンが悪いのかとインストール、アンインストールを繰り返し、すっかりはまった。

作ったのは携帯電話用の検索ページ。サーバーにNamazuがインストールできない環境なので、PCでインデックスを作成し、検索クライアントにはpnamazuを使った。検索対象ファイルはPHP。mknmzrcにPHP用の設定を行えばインデックスは作成できるが、要約の中にタグが入ってくるので、結局、余計なタグを削除し、拡張子を.HTMLに変換して、タイトルタグのみ挿入した。こうすると、検索結果のリンクにファイル名ではなく、タイトル名が表示される。

久しぶりに使ったけれど、pnamazuには本家Namazuにはない携帯電話モードがあって、すごく便利だ。要約を短くするほか、著者や日付を表示しないなど携帯用に表示が軽量化されている。余計な設定は必要なく、NMZ.phoneとNMZ.result.phoneをインデックスの中に入れておくだけで動作する。これは本家Namazuにも取り入れて欲しい仕様だな。pnamazuは2006年以来、バージョンアップがないけれども、需要は多いのではないかと思う。


2012年09月16日 [Sun]

「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル」

「どうも初めまして、堤と申します」。

映画「あなたへ」の撮影現場を訪れた堤真一が緊張した面持ちで高倉健にあいさつする。尊敬する大スターとの対面。目を輝かせながら二言、三言、言葉を交わして堤真一は去って行く。その後で佐藤浩市が言う。「あの人は真田広之くんの付き人から始めたんですよ。付き人をちょっとやってて、それからたたき上げてきたので、けっこう頑張り屋さん」。それを聞いた高倉健は堤真一の部屋まで行き、がっちりと握手して言う。「何かでチャンスがあったら、お仕事したい」。高倉健の来訪に驚きながら堤真一は「ぜひ、こちらこそ。ありがとうございます」と感激して答える。

NHKが2回にわたって放送した「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル」はとても見応えがあった。長期間、密着取材しないと引き出せないような高倉健の素顔と人となりを見せてくれた。現場では基本的に座らない。スタッフと同じ食事でなければ手を付けない。雪の降る日もストーブにあたらない。ちょっと偉くなったら、いばりちらす人間が多い中、大スターであっても驕らず高ぶらない高倉健の姿はすがすがしく、プロに徹している人だなと思う。だから高倉健は尊敬され、撮影現場には多くの俳優たちが差し入れを持って訪れる。

さまざまな俳優たちの高倉健への思いが紹介されたが、ビートたけしの言葉が鋭かった。

「変な言い方だけど、たたずまいっていうかね、ロケ現場でもホテルでも、ぽっと高倉健さんが立っているときに、独特の孤独感があるんだよね。華やかさではないんだよね。スターではあるんだけど、健さんのたたずまいというのは非常に日本人にとっては心地よいっていうか。でも俺はすごい孤独を感じるなあとは思う。おいらがしゃべると、冗談は言ってるけども、ここ一番、健さんの考え方を、どう考えているのかというようなことを念頭に置いて、嫌われないように話してしまうというのがあるじゃん。高倉健さんに嫌われないように会話をしているということは本人はじゃんじゃん孤独になるぞ、これって。健さんそれは違うよ、とは誰も言わない時代にきているんで、健さんはじゃんじゃん孤独に見えるようになってきたなと思うね」。

番組では描かれなかったが、高倉健は江利チエミと結婚し、離婚した。それ以来、伴侶には恵まれていない。高倉健が映画の現場とスタッフ、共演者を大切にするのは私生活の孤独も影響しているだろう。撮影が終わると、しばらく姿を消すのはスタッフとの別れが毎回、つらいからだ。6年前の「単騎、千里を走る」の撮影終了時、スタッフと抱き合いながら涙を流す高倉健の姿はをそれを現している。

高倉健は81歳。これから5、6年もブランクがあると次回作は厳しくなる。あと1本でも2本でも早く映画に出てほしいと思う。


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