映画とネットのDIARY(tDiary版)
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【映画の感想一覧】 2004年7月以降 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年
2007年11月08日 [Thu]
■ ミステリ総合誌へ
ほぼ1カ月ぶりの更新。これまで何をしていたかというと、ダイエットに集中していた。先月1日から今日までの体重減少量は4.2キロ。いろいろ、ダイエットについても詳しくなったが、それはmixiの方に書いているのでカット。
ミステリマガジン12月号を読んでいたら、編集後記に「来月、2008年1月号より誌面、内容を一新。海外・日本を問わないミステリの総合誌として生まれ変わります」とあった。翻訳ミステリの専門誌が日本ミステリも扱うことになる。といっても、以前から日本の作家の作品も掲載してあったし、日本人作家へのインタビューも数年前から続いてきた。さらにその傾向を強めることになるのだろう。背景にあるのは翻訳ミステリが売れていないことか。
ノンフィクションの書評コーナー「フィクションの向う側」もなくなるとか。最後の作品として取り上げられているのは「美味しい食事の罠」。先日、読んだばかりだ。現在の日本の食事がいかに油まみれ砂糖まみれになっているかを警告した本で、ダイエット中の人間としては「そうだそうだ」と思うことが多かった。コンビニや弁当店で売られている弁当にいかに揚げ物が多いかとか、言われなくても分かっているのだが、そうした食事で肥満が増えているのは動かしようのない事実だろう。
ま、それはいいとして。ミステリマガジンはもう四半世紀以上、毎月買っている。今後も買い続けるだろう。日本のミステリに関しては、いつも年末のベストテンであれ、こんな評判のよい作品があったのかと思うことが多かった。日本ミステリの書評にも力を入れてくれるなら、こうしたことは少なくなるだろうし、ミステリ総合誌への転換は歓迎すべきことだ。
2007年11月15日 [Thu]
■ wizpy優待販売
Turbolinuxからメール。ターボリナックスのユーザーに通常29800円のwizpyを9800円で販売するという。おお、それは安い、買ってしまおうかと一瞬思ったが、そもそもwizpyが何なのかを知らない。Turbolinuxのサイトも良くない。きちんと説明して欲しい。ITmedia +Dのちっちゃなボディに大きな期待――「wizpy」は本当に“すごい”のかの方がよく分かった。要するに「マルチメディアプレーヤー機能を備えた、Turbolinuxブートイメージ入りUSBメモリ」。
メールの説明を引用すると、「ポータビリティに優れた50gほどの小さなデバイスで自分の PCソフトウェア環境一式を特定のパソコンに縛られることなく自由に携帯する」ことができるというわけ。音楽プレーヤーとしても使えるし、パソコンのUSBに挿して起動すれば、Turbolinuxを使える。
が、誰がTurbolinuxを使うんだ。携帯メディアプレイヤーを使うような層はまずLinuxなんて使わない(知らない)。社内のしゃれたSEが持ち歩いていて、パソコンが起動しなくなったら、これを挿してちゃちゃっと修理するとかの場面は、まずSEがTurboなんて使うはずがないというところで挫折する。そういう用途にはKNOPPIXのCDがあればすむこと。元々のTurbolinuxユーザーなら使うかもしれないが、かなり数は限られるだろう。
これでは大きく売れるわけはない。だいたい2月に発売して今ごろ優待販売とは売れていない証拠だろう。面白い試みとは思うけれど、Linuxユーザーを超えて一般にアピールする力が根本的に足りないと思う。
2007年11月17日 [Sat]
■ [MOVIE] 「ボーン・アルティメイタム」
シリーズ第3作。前作でも感じたことだが、このシリーズに不足しているのはエモーショナルな側面だと思う。今回も主人公のボーン(マット・デイモン)はまったく感情を表さず、襲い来るCIAの暗殺者たちをてきぱきと撃退する。ただそれだけの映画である。ボーンの原動力となっているのは自分のアイデンティティーの探求と恋人(フランカ・ポテンテ)を殺された恨み。というのは設定だけにとどまっており、ボーンは泣くこともわめくことも怒ることも喜ぶこともなく、だからエモーションが欠落しているように見えるのだ。ついでに言えば、ボーンにはCIAの不正を暴くための正義感もない。いや、あるのかもしれないが、画面には表れない。要するに作りが人工的、デジタル的なのである。アクションを羅列するだけで、主人公の感情が立ち上ってこないので、味気ない映画になってしまう。僕はまったくつまらなかったわけではないが、もう少し何とかならないのか、と見ていて思う部分が多かった。このスピード感にエモーショナルな部分が加われば、映画はもっと面白くなっていただろう。大変なテンポの速さで進む映画の中で、足を止めて描く場面には主人公の情感が必要だし、激しいアクションを正当化するのは主人公の激しい感情にほかならないのである。
映画はモスクワで幕を開ける。傷ついたボーンが追っ手の警官たちを簡単に撃退したところでタイトル。場面変わって、ロンドン。ガーディアン紙の記者サイモン(バディ・コンシダイン)はCIA職員の内部告発でトレッドストーン計画がバージョンアップしたブラックブライアー計画について知る。CIAはサイモンを追跡。新聞を読んだボーンもサイモンに接触する。ウォータールー駅でのCIAとボーンの格闘が最初の見せ場で、ここでサイモンはCIAの暗殺者に狙撃され、殺される。作戦を指揮しているのは対テロ極秘調査局長のヴォーゼン(デヴィッド・ストラザーン)だった。ヴォーゼンは前作でボーンを追ったパメラ(ジョアン・アレン)を捜査に引き入れ、ボーンの抹殺を企てる。舞台はスペイン、モロッコへと飛び、ニューヨークで最終決着を迎えることになる。
映像は短いカットを積み重ねてテンポが良いけれど、カットを割ってはいけない格闘シーンまで割っている。見せるべき格闘はちゃんと見せた方がいいのでは、という思いは1作目から感じたことだ。短いカットの積み重ねはポール・グリーングラス監督、眉にいっぱいつばをつけながら見た前作「ユナイテッド93」でも使っていた。こういう短いカットで思い出すのは「ストリート・オブ・ファイヤー」(1984年)だが、ウォルター・ヒルのようなスタイリッシュさはグリーングラスにはない。ジャッキー・チェンやジェット・リーがワンカットでアクションを見せるのは、アクションが本物であることを示すためでもあるだろう。カットを割れば、どんなことでもでき(るように見え)てしまうからだ。俳優の生身のアクションの伝統は1920年代のロイド、キートンまでさかのぼるのだ。スタントマンを使うなと言うわけではなく、ああいう見せ方では真に迫らないのだ。建物から建物へ飛び移りながら展開するモロッコのシーンにしてもカットを割らない方が効果的だっただろう。グリーングラス、スピード感がすべてと思いこんでいるのではないか。
それにしても、いったいあの研究所は何をやったのか判然としない。ボーンに暗殺者になることを強要するためだけだとしたら、研究所なんて不要だろう。原作はどうなっているのだろう。ヒッチコックはサスペンスの核となるものはレッド・ヘリング(赤にしん)でいい、と言った。これを曲解すれば、こういう映画が出来上がることになる。少なくともヒッチコック映画の主人公たちはもっと情感豊かだった。