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【映画の感想一覧】 2004年7月以降 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年
2011年08月01日 [Mon]
■ 「コクリコ坂から」
劇中のテレビから流れる「上を向いて歩こう」を聞いて、「坂本九って、こんなに澄んだ歌声だったっけ」と思った。テレビ、ラジオで何度も何度も聞いた曲だが、自分の記憶より澄んだ歌声に聞こえたのは、たぶん、わが家のスピーカーがチープだったためもあるのだろう。映画はそんな坂本九の歌声と同じように澄んだ心を持つ登場人物たちによって語られる。
1963年の横浜が舞台。高校生の海(長澤まさみ)は坂の上にある下宿屋コクリコ荘を切り盛りしながら、毎朝、沖合を航行する船に向かって旗を揚げる。それは朝鮮戦争で亡くなった船乗りの父親の思い出とつながっている。ある日、船からその旗に返礼があった。海と同じ高校に通う俊(岡田准一)が揚げた旗だった。海と俊にはお互いに恋心が芽生えるが、2人は兄妹ではないのかという疑いが出てくる。
東京の風景が大きく変わったのは1964年の東京オリンピックからと言われる。映画の1963年という時代は古いものが消え去りつつある時代を表している。後半に出てくる東京の風景は戦後の匂いが残り、まだ人の多い田舎という感じである。部活動の部室が多数入った建物カルチェラタンを取り壊すという学校の方針に対して、反対集会で俊は叫ぶ。「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てるのと同じじゃないのか。人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか」。この言葉は時代の空気と密接につながっている。時代と人物が絶妙にマッチし、郷愁と情感のこもった佳作に仕上がっている。
パンフレットに収録された宮崎駿の「企画のための覚書」にはこの映画の重要なエッセンスが詰まっている。「『コクリコ坂から』は人を恋(こ)うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならない。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切り抜けねばならない。それをてらわずに描きたい」。映画はこの通りの印象だ。この覚書に沿って、宮崎吾朗は映画化を進めたのだろう。
しかし、それだけではない。パンフレットの言葉によれば、宮崎吾朗はこの映画で生まれて初めて「必死になった」のだという。宮崎吾朗は登場人物と同じように作品にまっすぐに取り組んだ。その必死さが作品を想像以上のものにしたのだろう。観客の胸を揺さぶる作品を作るにはそうした姿勢が必要なのだと思う。
アニメーションの原初的な魅力にあふれた昨年の米林宏昌「借りぐらしのアリエッティ」とは違ったアプローチで宮崎吾朗は映画を完成させ、「ゲド戦記」の汚名を返上した。
■ 「ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2」
第1作「賢者の石」が公開されたころ、「近所の石」と言っていた長男は今、高校1年なのだから、確かに10年は長い。10年間携わったスタッフにはご苦労様と言いたい。僕が劇場でこのシリーズを見たのは4作目まで。5作目と6作目はスルーした。子供が見に行こうとは言わなくなったからだ。4歳のころに第1作を見た次女などは「怖い」と言って、その後は見に行きたがらなかった。というわけでシリーズのファンではない。
最終作は前作、Part1のラスト、ダンブルドアの墓からニワトコの杖を奪ったヴォルデモートの場面で幕を開ける。ヴォルデモートを倒すため分霊箱を探すハリーたちはその一つがホグワーツにあることを知る。そしてホグワーツでヴォルデモートの軍団たちとの最終決戦が繰り広げられる。
物語を語る点でデヴィッド・イェーツの演出は的確だが、残念なことにドラマを盛り上げる演出が今一つのように思う。スネイプ(アラン・リックマン)の運命などもっとドラマティックにできたはずなのだ。ここは物語の大きなポイントでもあるのだから、余計にそう思う。
■ 「エクスペンダブルズ」
シルベスター・スタローンが監督主演を務め、ジェイソン・ステイサム、ジェット・リー、ドルフ・ラングレン、ミッキー・ロークらのアクションスターが勢揃いした作品。ゲスト的にブルース・ウィリスとアーノルド・シュワルツェネッガーも出ている。アイデアは良かったのだが、なんせ1人でも映画の主演を張れるスターばかりだから、扱いには困ったのだろう。エクスペンダブルズ(消耗品部隊)側は誰も死なない。
銃と爆薬が炸裂するクライマックス、弾切れなんか考慮してないよといわんばかりに銃を撃ちまくり、ナイフを投げまくる部隊を見ると、かつての脳天気なアクション映画が思い出される。アクションに関しては悪くないので、アクション映画の好きな人がぼんやり眺めるには良い作品かもしれない。
2011年08月09日 [Tue]
■ 「ヒックとドラゴン」
文句のつけようのない傑作とはこういう作品を言う。クレシッダ・コーウェルの児童文学を「リロ・アンド・スティッチ」のディーン・デュボアとクリス・サンダースがアニメ映画化した。アカデミー長編アニメーション賞では「トイ・ストーリー3」に敗れたが、少しも遜色はない。恐らく小さな差だったのだろう。正統派の物語は「憎しみの連鎖を断つ」という今のアメリカに必要なテーマを盛り込んでいるし、3DCGアニメの技術も完璧だ。
北の海に浮かぶバーク島。ここで暮らすバイキングたちは長年、ドラゴンとの戦いを繰り広げていた。ヒックは鍛冶屋で修行中のひ弱な少年で、父親のストイックは村のリーダーだ。ある夜、ヒックは自分で作った投擲機で最強のドラゴンと言われるナイト・フューリーを打ち落とす。翌日、ヒックは森の中で傷ついたナイト・フューリーを見つけるが、殺すことができない。飛べないドラゴンのために羽根を作ったヒックはドラゴンと徐々に交流を深めていき、ドラゴンたちが村を襲うのは人間が攻撃してくるからであることを知る。
戦いよりも相互理解という映画の訴えは真っ当すぎるほど真っ当だ。そして感動的である。見事なエンタテインメントであると同時にこうした主張を兼ね備えているのが良い。こういう映画を見た子どもたちは(そして大人たちも)戦いより平和の道を選ぶ人間になるのではないか、と思う。IMDBの評価は8.2。
■ 「裸の島」
離れた島から手こぎの小舟でくんできた水を入れた2つの桶を天秤棒にかついで、乙羽信子が島の斜面を登る。家族4人で暮らす小さな島のてっぺんの畑に水を撒くためだ。同時に水は飲み水でもある。華奢な乙羽信子が慎重に一歩一歩進む姿を見ていると、いつか転ぶのではないかと思えてくる。案の定、乙羽信子は転び、桶を倒して貴重な水をこぼしてしまう。夫の殿山泰司はそれを見て駆け寄り、平手打ちをする。命をつなぐ水を無駄にするとは何事だ。島での生活はそれほど過酷なのである。
水をこぼす場面は終盤に別の形で繰り返される。たいていの人はここで胸を締め付けられる思いになるはずだ。あらためて語るまでもない名作で、1961年のモスクワ国際映画祭グランプリ。セリフは一切ない。黙々と水を運ぶ2人を見て、「愛と宿命の泉」のジェラール・ド・パルデューを思い出した。
「裸の島」は6月初めにNHK-BSで放映されたが、わずか2カ月で12日にまた放映される。そんなにリクエストが多かったのかと思ったら、男女が桶で水を運ぶシーンが新藤兼人の新作「一枚のハガキ」にもあるためのようだ。99歳の新藤兼人が「人生最後の映画」としている作品。これまでの集大成的な作品になることは想像にかたくない。13日から全国公開されるので、それに合わせた放映なのだろう。
■ 「ノンフィクションW 映画人たちの8月15日 前編」
WOWOWが8日と15日の2回に分けて放送する番組の前編。キネ旬8月下旬号「キネ旬総研発」で掛尾良夫(元キネ旬編集長)が書いているように、キネ旬1960年8月下旬号掲載の「八月十五日の日本映画」という特集に基づく(番組には掛尾良夫自身も出演している)。特集には40人以上の映画人が手記を寄せている。番組はその証言を基にしながら、「無法松の一生」の検閲カットや「ハワイ・マレー沖海戦」の製作などを紹介した。後編には新藤兼人監督が出演する。
番組は面白かったが、特集記事の方も読みたくなった。キネ旬は過去の貴重な特集記事も再掲すればいいのにと思う。
2011年08月15日 [Mon]
■ 「ジェニファーズ・ボディ」
アマンダ・セイフライドとミーガン・フォックス共演のホラー。メガネっ子のセイフライドと妖艶なフォックスは幼い頃からの親友同士。ある日、酒場に来たバンドに付いていったフォックスが男を食らう化け物になってしまい、セイフライドのボーイフレンドに魔の手が伸びる。
美貌ではフォックスに完璧に負けていても、好感度はセイフライドが上だ。目新しくはないにしても2人の魅力は十分に堪能でき、悪くないホラーと思ったが、IMDBの評価は5.2。セリフに品のないのが原因か。それにしても、フォックスはこういう役柄を選んでいくのは得策ではないと思う。美貌だけで演技の才能に欠けるのかもしれない。監督は「イーオン・フラックス」のカリン・サクマ。脚本は「JUNO/ジュノ」でアカデミー脚本賞を受賞したディアブロ・コーディ。
■ 「恐怖」
頭皮を剥ぎ、頭蓋骨を切り開いて脳の側頭葉シルビウス裂に電極を差し込む。そこで被験者は何を見るのか。その興味に突き動かされた脳科学研究者の太田悦子(片平なぎさ)とそれに巻き込まれる姉妹(中村ゆり、藤井美菜)を巡るホラー。
「リング」の脚本家・高橋洋の監督作品でプロデューサー一瀬隆重による「Jホラーシアター」レーベルの最終作。ここで描かれるのは黒沢清「回路」と同種の恐怖だ。「回路」の場合は幽霊が現実世界を侵蝕してきたが、ここでは異界そのものが侵蝕してくる。ただし、スケールは「回路」の方が大きい。この映画で侵蝕の対象となるのは死の世界に気づいた(興味を持った)人間だけだからだ。「回路」が破滅SFに発展していったのに対して、この映画がホラーの域にとどまっているのはこのスケール感の違いによる。だからダメだと言っているわけではない。ホラーというのはそういう狭い範囲を描くものだからだ。恐怖の対象の描き方があいまいなので、あまり怖くはないのだが、こういう描き方嫌いではない。怪異の正体を見せた途端にシラケる映画よりはよほど良い。
■ 「クリスティーン」
スティーブン・キング原作を映画化した1983年の作品。これ、原作を持っていたが、読まないままどこかに行ってしまった。車が人を襲うという無理のある設定ながら、意外によくできているのは監督がジョン・カーペンターだからか。IMDBでキャスト(キース・ゴードン、ジョン・ストックウェルら)を調べると、さすが28年もたっているのでどの俳優も風貌がすっかり変わっていた。
■ 「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」
脚本は全然うまくない。むしろ破綻していると思う(昔の香港映画によくあった行き当たりばったりのクライマックスを思い出した)のだが、ジョニー・トーはスタイリッシュな銃撃描写で有無を言わせない。この映画が優れているのはこの描写の力に尽きる。通行人の傘の花が開く雨の中の描写や、アンソニー・ウォンら3人組の殺し屋が組織に襲われる紙吹雪が舞う場面など、印象的なシーンがたくさんある。ただ、ジョニー・トーがもう一段階上のレベルになるには、やはりしっかりした脚本が必要だと思う。昨年のキネ旬ベストテン6位。
■ 「ハングオーバー―!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」
「冷たい雨…」とは違って、脚本がとてもよくできている。ラスベガスにバチェラー・パーティーに行った4人の男たちが強烈な二日酔いで前夜の記憶をなくして目が覚める。ホテルの部屋はメチャメチャに散らかり、虎や鶏がいて、赤ん坊までいた。花婿になるはずだったダグは行方不明になっている。消えた友人を探すため、ホテルに預けたベンツで出かけようとすると、ホテルマンはパトカーを持ってくる。いったい昨夜、何が起こったのか、自分たちは何をしてしまったのか。3人は必死で昨夜の足取りをたどっていく。
酒飲みなら一度ぐらいは体験があるであろう悪夢のようなシチュエーションで繰り広げられるスラップスティック。近年のアメリカのコメディで大笑いした記憶はあまりないが、これはおかしかった。だいたいアメリカのコメディ映画は日本ではヒットしないので、これも危うくDVDスルーになるところだったのだそうだ。
2009年のゴールデングローブ賞でコメディ・ミュージカル部門の作品賞を受賞した。IMDBの評価は7.9。監督は「スタスキー&ハッチ」のトッド・フィリップス、脚本はジョン・ルーカスとスコット・ムーア。続編「ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える」もそこそこ評判良いようだ。
2011年08月28日 [Sun]
■ 「犯罪」
ドイツの作家フェルディナント・フォン・シーラッハのデビュー作で短編集。聞きしに勝る凄さ、面白さだ。ミステリマガジンの書評には倒叙ミステリとあったが、弁護士の「私」が担当した事件ファイルといった趣である。作者自身、刑事弁護士だそうで、実際の事件から取り入れた題材もあるのだろう。
11の短編が収められており、最初の「フェーナー氏」でノックアウトされる。72歳の医師が犯した殺人。その殺害シーンはこんな風に描写される。
最初の一撃で頭蓋骨がぱっくりひらいた。致命傷だった。斧は頭蓋骨の破片とともに脳みそに食い込み、刃が顔をまっぷたつに割っていた。イングリットは地面に倒れる前に死んでいた。斧が頭蓋骨からうまく抜けず、フェーナーは彼女の首に足をかけた。それから斧を二回大きく振り下ろして首を落とした。監察医は事件後、フェーナーが腕と足を切断するため、斧を十七回振り下ろしたことを確認した。
この小説の魅力はこうした簡潔で怜悧な刃物のような文体だ。シーラッハは短い文で描写を重ね、独特のリズムで物語を構築している。わずか14ページの短編だが、密度が濃いのはこの文体の効果でもあるだろう。フェーナーという男の性格と、その性格が要因となる同情すべき悲惨な人生を浮き彫りにする手腕は見事。
この短編集で描かれるのは犯罪に手を染めた人たちの人生であり、その複雑な理由であり、不可解さだ。そこに魅了される。読者は描かれる犯罪に驚愕し、共感し、同情し、恐怖し、怒りを覚えることになるだろう。さまざまな情動を引き起こすからこそ、この短編集は傑作なのだ。
三つの文学賞を得たそうだが、そんなことには関係なく、小説好きには必読。ドーリス・デリエ監督によって映画化が予定されているという。