意外な気もするが、山田洋次にとって初の本格的時代劇。そして山田洋次作品の中でもかなり上位にランクされる傑作だ。食事や内職や畑仕事などなど下級武士の日常がきめ細かく描かれ、登場人物の一人ひとりの奥行きのある描き方だけでも、いつまでもいつまでも見ていたくなる。身の丈に合った生活を受け入れて、不平不満を言わず、清貧に誠実に生きる主人公の潔い姿勢には深く共感させられる。山田洋次が時折撮る説教くさい映画が僕は好きではないし、この映画にもそんな部分がかすかに残ってはいるのだが、時代劇であることによってそれは薄められている。貧しいけれども真摯に生きる者たちに注ぐ監督の視線がストレートに伝わってくる。人の一生は世間的な評価がすべてではない。娘の視点から父親清兵衛を語ることで、山田洋次はそんな当たり前であるはずのことを説得力を持って描き出した。藩の命令に逆らえない立場にある主人公の姿は現代のサラリーマンとも重なっており、子供を持つサラリーマンにはこの映画で描かれることが切実に響くはずだ。見事なまでの完成度を持つ立派な作品と思う。
原作は藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」。山田洋次と朝間義隆はこの3つの短編を清兵衛の娘の視点から組み立て直した。この脚本も相当にうまい。幕末の庄内地方。海坂藩の下級藩士・井口清兵衛(真田広之)は仕事が終わると、同僚の誘いも断ってさっさと家に帰るので、“たそがれ清兵衛”と呼ばれている。清兵衛は五十石の身分で、娘2人とボケ始めた母親と暮らす。妻は長患いの末に労咳で亡くなった。もともと貧しい暮らしだが、妻の病気で借金が重なり、清兵衛は虫かご作りの内職をしている。同僚と飲みに行く金もないのだ。しかし、「二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、草花の成長を眺めるのにも似て、楽しいものでがんす」と話す清兵衛に今の生活への不満はない。映画は前半でこうした境遇にある清兵衛の日常をじっくりと描く。
清兵衛の生き方はストイックで、ある意味ハードボイルドでもある。幼なじみの朋江(宮沢りえ)に思いを寄せているが、貧しい家に迎えれば、苦労させるのは目に見えている。だから清兵衛は思いを打ち明けられずにいる。いや、打ち明けてはいけないことだと自制している。それをついに口に出す場面が泣かせる。剣の腕を見込まれて、家老から無理矢理上意討ちを命じられた清兵衛は、朋江に身支度を頼む。自分が死ぬかもしれない果たし合いを前にして清兵衛は自分の本当の気持ちを話さずにはいられなくなる。「幼いころから、あなたを嫁に迎えることは私の夢でがんした。これから私は果たし合いに参ります。必ず討ち勝って、この家に戻ってきます。そのとき、私があなたに嫁に来ていただくようお頼みしたら、受けていただけるでがんしょか」。静かな言葉の中に熱い思いがあふれる。真田広之と宮沢りえの演技が素晴らしく、激しく胸を揺さぶられる。
これに続く上意討ちの場面(田中泯の凄みのある侍は見事)のリアルな殺陣もこの映画の見どころではあるが、まず、清兵衛の生き方と朋江との関係を描きこんだことが成功の大きな要因だろう。物語を語ることにおいて山田洋次の技術は相当高いとあらためて思う。父と息子を描いた「ロード・トゥ・パーディション」で感じた技術の高さをこの映画でも感じた。この技術は普遍的なものだから、海外でもきっと通用するだろう。種において優秀なものは種を超える。本当に優れたジャンル作品はそのジャンルを軽々と超える力を持っているのだ。「たそがれ清兵衛」はそんな映画の1本である。
【データ】2002年 2時間9分 配給:松竹
監督:山田洋次 プロデューサー:中川滋弘 深沢宏 山本一郎 原作:藤沢周平 脚本:山田洋次 朝間義隆 撮影:長沼六郎 美術:出川三男 美術監修:西岡善信 音楽:富田勲 主題歌:井上陽水「決められたリズム」 衣装:黒沢和子
出演:真田広之 宮沢りえ 田中泯 丹波哲郎 岸恵子 小林稔侍 大杉漣 吹越満 深浦加奈子 神戸浩 伊藤未希 橋口恵莉奈 草村礼子 嵐圭史 中村梅雀 赤塚真人 佐藤正宏 桜井センリ 北山雅康 尾美としのり 中村信二郎
手塚昌明監督の前作「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(2000年)とは正反対にVFX部分が良いのにドラマがまったくダメである。釈由美子扮する主人公の家城茜は1999年のゴジラ襲来の際、メーサー砲の操縦を誤り、仲間の自衛隊員が乗った車を崖下に転落させてしまう。車の乗員はゴジラに踏みつぶされて死亡。茜は資料課に転属させられる。この設定ならば、“私はゴジラを許さない”的展開になるはずなのだが、それをやってしまっては「ゴジラ×メガギラス」の田中美里の役柄と同じになる。手塚昌明はそれを避けようとして、茜をだれからも希望されずに生まれた天涯孤独な人間として、社会のすべてと戦ってきたキャラクターに仕立てた。それはいいのだが、こうした設定は茜の口から説明されるだけで、描写としては一切ない。これが弱い。釈由美子は「修羅雪姫」を引きずったようなキャラクターを懸命に演じているのに、手塚昌明の演出とストーリーはそれを十分に生かしていないのである。1時間28分の上映時間は併映の「とっとこハム太郎 ハムハムハムージャ!幻のプリンセス」に圧迫されたためでもあるだろうが、主人公の心情を十分に描かないと、説得力を欠き、薄っぺらな映画になってしまう。通り一遍の描き方が惜しい。恐らく子供向けを意識したであろう宅間伸親子のエピソードなどばっさり削り、ヒロインを十分に描いてくれたなら、傑作になる可能性もあったと思う。
機龍(メカゴジラ)の設定はテレビの巨大ロボットものを踏襲したものになっている。メカゴジラは昭和29年に芹沢博士のオキシジェン・デストロイヤーで殺されたゴジラの骨からDNAを抽出して生体ロボットとして作られた。このため、ゴジラとの最初の戦いでゴジラの咆哮に共鳴して操縦不能になり、暴走してしまう。それを修復した2度目の戦い。最初は遠隔操作で操るが、ゴジラの攻撃にダメージを受けて操縦系が故障し、ヒロインはメカゴジラのメンテナンスルームに乗り込んで直接操縦することになる。ここでメカゴジラとヒロインの心情がシンクロする場面はエヴァンゲリオン的な描写なのだが、これまた描写が簡単すぎてドラマティックなポイントにはなっていない。ここを効果的な描写にするためにもヒロインをもっと緻密に描く必要があった。そしてここをポイントにすれば、SF的にも評価できる映画になったのではないか。
メカゴジラが発射するミサイルの楕円を描く軌道の描写などVFXは満足できるレベルにある(特殊技術担当は「ガメラ3 邪神覚醒」や「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」にも参加した菊地雄一)。最近のゴジラ映画の中では屈指といっても良いVFXなのに、ドラマ部分の弱さで平凡な作品になってしまった。気になるのは過去の映画のコピー的場面が多いこと。夕陽にたたずむメカゴジラの姿は「ガメラ 大怪獣空中決戦」のギャオスのようだし、ロボットにヒロインが乗り込んでゴジラと戦う設定は「ゴジラVSキングギドラ」、氷の心を溶かされていくヒロインの設定はそれこそ「修羅雪姫」(しかし、演出的にはほど遠い)だ。宅間伸のコミカルなキャラクターはヒロインのクールな役柄とまるで合っていないし、ヒロインのミスで兄を殺された葉山(友井雄亮)との確執だけにした方が良かっただろう。過去のゴジラ映画に登場した俳優たちによるさまざまなゲストキャラクターも僕には不要なものに思えた。手塚昌明に必要なのは物語に説得力を持たせる技術と普通のドラマの演出力なのだと思う。
【データ】2002年 1時間28分 配給:東宝
監督:手塚昌明 製作:富山省吾 エグゼクティブ・プロデューサー:森知貴秀 脚本:三村渉 撮影:岸本正広 音楽:大島ミチル 特殊技術:菊地雄一 美術:瀬下幸治
[特殊技術]撮影:江口憲一 造型:若狭新一 操演:鳴海聡
出演:釈由美子 宅間伸 小野寺華那 高杉亘 友井雄亮 中原丈雄 加納幸和 上田耕一 白井晃 萩尾みどり 六平直政 森末慎二 水野純一 水野久美 中尾彬 田中美里 永島敏行 松井秀喜 谷原章介 中村嘉葎雄 村田雄浩
主人公は「たそがれ清兵衛」と同じ東北地方の下級武士で、清兵衛と同じく剣の達人。幕末の戦乱で死ぬところまで同じである。しかし、描かれること、描き方は大いに違う。主人公の吉村貫一郎(中井貴一)は貧困に苦しむ妻子を救うために脱藩し、新撰組に入るが、「義のために」負け戦に参加し、「義のために」死ぬのである。国家や組織のために自分を捨てて忠誠を誓うという考え方は気持ち悪くてしょうがないので、この映画にもまったく乗れなかった。いや途中まではまだ良かったのだが、最後であきれてしまった。戦いで重傷を負った主人公のその後を延々と描き、その子どものことまで描く構成は何とかならなかったのか。主人公がかなわないと分かっていながら、朝廷の軍へ突撃する場面で終わっていれば、まだ映画の印象は良くなったのかもしれない。余計なことを描きすぎなのである。主人公の話に絞らなければ、長い原作を映画化するのは無理。ダイジェストにしかならないのは自明のことだ。脚本化の段階で、原作のポイントだけを取り出す努力が放棄されているとしか思えない。チャンバラ映画の魅力を感じさせる部分もあるが、映画のまとめ方で計算が狂っている。
「たそがれ清兵衛」が一家の貧しさを前半で徹底的にリアルに描いたのとは対照的に、この映画での貧しさは記号のようなものである。3人目の子どもを身ごもった主人公の妻(夏川結衣)が口減らしのために自殺しようとする場面だけでは貧しさと金への執着に説得力が足りない。貧しさから抜け出すために人殺し集団の新撰組に入った主人公には共感を持ちようもない。自分の家族を救うためなら、この男は平気で人を殺すのだ。一見、家族思いの主人公の姿勢には底の方で「自分さえよければ」というエゴが垣間見え、不快感、違和感がつきまとう。主人公が不祥事を起こした隊員の切腹の介錯をする場面の過剰な演出がそれに輪を掛けている。こういう男をさも立派な男のように描くことに僕は反発を感じる。キネマ旬報1月下旬号で佐藤忠男が指摘しているように、前半は家族のために動いていた主人公が後半、義のために動くのはテーマの突き詰め方が足りなかったためだろう。お涙頂戴のレベルを超えられなかったのもそこに原因がある。映画の作りが安いのである。
そんな映画の中で光るのは主演の中井貴一をはじめとする役者たちの演技である。主人公と対立する斎藤一(佐藤浩市)や近藤勇を演じる塩見三省、沖田総司の堺雅人、土方歳三の野村祐人らの新撰組のメンバーが実にうまい。斎藤の愛人で「醜女と言われるのは私の誇りです」と話す中谷美紀、主人公の親友・大野次郎右衛門(三宅裕司)とその家来の佐助(山田辰夫)も魅力的な演技を見せる。こういう役者の好演を引き出しているのに映画の出来はもったいないとしか言いようがない。同じ新撰組を描いた大島渚「御法度」の新しさに比べて、この映画の作りと思想は極めて古い。「まっすぐに泣ける」などというコピーには腹立たしさを覚える。泣けることを前面に出していること自体がもう映画の古さを象徴しているのである。もちろん、観客を泣かせることも情緒的満足を与えるという意味で映画の効用ではあるが、少なくともこの程度の映画では泣けないし、泣かされたくもない。監督は滝田洋二郎。ひいきの監督なのだが、今回は支持できない。
【データ】2003年 2時間17分 配給:松竹
監督:滝田洋二郎 製作代表:大谷信義 菅谷定彦 鞍田暹 俣木盾夫 石川富康 菊池昭雄 プロデューサー:宮島秀司 榎望 原作:浅田次郎 脚本:中島丈博 音楽:久石譲 撮影:浜田毅 美術:部谷京子 殺陣:諸鍛冶裕太
出演:中井貴一 三宅裕司 夏川結衣 塩見三省 堺雅人 野村祐人 斎藤歩 堀部圭亮 塚本耕司 比留間由哲 加瀬亮 山田辰夫 伊藤淳史 藤間宇宙 伊藤英明 村田雄浩 中谷美紀 佐藤浩市
例えば、病院で同室の火野正平から「おまえよー、1年生きてみろよ。1年たってもまだ自殺したいなら、俺は止めないよ」と言われた主人公の加藤晴彦が1年たってもまだ飲んだくれていたり、合気柔術を習った後に、かつてボコボコにされた3人組のチンピラに再会した主人公が再びボコボコにされたり、バイアグラの2倍効くというバイバイアグラを飲んだのに肝心のところで役に立たなかったりという風に映画は少しずつ定石を外している。それにもかかわらず、交通事故で下半身マヒの身の上となった青年が合気柔術を通じて再起するという前向きな話の大筋だけはその軌道をまったく外してはいない。「どうせこうなるだろう」という観客の予想を裏切るのは、ありきたりの展開にしないための工夫であり、小さな場面での定石の外し方は実は観客への大きなサービスなのである。だから感動の押しつけをするようなタワケタ部分がこの映画には微塵もない。いったんは挫折した人間が回復していく過程を描いて普遍性があるのである。
この青春映画として見事な脚本を火野正平や石橋凌や桑名正博やともさかりえや原千晶や、もちろん主演の加藤晴彦が生き生きと演じており、映画の充実度は極めて高い。前半で障害者のリアルな日常と落ち込んだ精神状態を描きつつ、ユーモアをたくさん挟んで一流のエンタテインメントに仕立てた天願大介監督の手腕は大したもので、キネ旬ベストテン5位にも納得である。主人公がゆっくりと再起へ向かう姿がとてもいい。元気の出る映画であり、気分良く映画館を出られる映画だと思う。
主人公の芦原太一(加藤晴彦)が合気柔術を習うのは、かつてはボクサーとして有望だったのに、障害者となって街で出会った3人組にあえなくボコボコにされたためだ。ボクシングは腹筋が弱っているのでもうできない。柔道も空手も車いすの太一を相手にしてくれない。神社の境内で披露された古武術の中で、座って相手を投げ飛ばす合気柔術の演舞を見て、太一はその先生・平石(石橋凌)に入門を申し出る。石橋凌がしなやかに穏やかに演じるこの平石という男は映画の大きなポイントで、後半のスポーツ映画的展開に深みを与えている。合気柔術がすべての格闘技の中で最も強いかと言えば、そんなことはないと思う。そんなことはないと思うが、映画の中では最も理にかなったものであり、やがて太一は強くなることだけが目的ではなくなってくる。相手を受け入れることがまず必要な合気柔術の精神は事故によってすべてを拒絶して殻に閉じこもっていた太一の目を開き、その再起と無理なく重なっている。
天願大介は言うまでもなく今村昌平の息子だが、父親とはまったく違う作風だ。いやイマヘイの映画にもユーモアはあふれているのだが、あの粘っこい描写は見当たらず、作風にさわやかさを感じるのである。どこかアメリカナイズされたところがあり、これが劇場映画2作目(1作目はドキュメンタリーだったから劇映画は初めて)とはとても思えないほど洗練されている。父親の作品4本で脚本を務めたことがかなり勉強になっているのではないか。出演者は端役に至るまでみな魅力的だが、特に太一が立ち直るきっかけとなるギャンブラーのサマ子を飄々と演じるともさかりえは初めて大人の女の良さを引き出されたのではないかと思う。「下半身マヒの世界へようこそ」と言う火野正平と弱いものいじめが嫌いなテキヤを演じる桑名正博も絶妙のおかしさである。脚本が良くできていて、役者のアンサンブルが素晴らしければ、映画が面白くなるのは当然なのだった。
【データ】2002年 1時間59分 配給:日活
監督:天願大介 製作総指揮:中村雅哉 企画:猿川直人 製作:伊藤梅男 石川富康 岡田真澄 高野力 長澤一史 長橋恵子 脚本:天願大介 撮影:李似須 音楽:めいなCo. 浦山秀彦 熊谷陽子 美術:稲垣尚夫
出演:加藤晴彦 ともさかりえ 原千晶 木内晶子 石橋凌 火野正平 桑名正博 清水冠助 佐野史郎 余貴美子 永瀬正敏 田口トモロウ 松岡俊介 ミッキー・カーチス