チルソクの夏

「チルソクの夏」陽はまた昇る」で手堅い演出を見せた佐々部清監督が故郷の下関を舞台に撮った第2作。1977年から78年にかけての、陸上に打ち込む下関の女子高生と釜山の男子高校生の淡い初恋の物語で、もう愚直なまでにオーソドックスな映画である。そしてこのオーソドックスさが力強い。今さら夕陽に向かって(実際は韓国に向かって)「バカヤロー」と叫んだり、恋する男の船を追って少女が全力で走る場面を撮って、それが冷笑を呼ばずにある種の感動を引き起こすのはオーソドックスな描写が本来的には強いからであり、もはやこうした描写は佐々部清の映画にしか存在しないのではないかと思える。描写を丹念に積み重ね、細部を豊かに綴る映画手法のオーソドックスさが今の邦画には抜け落ちているのである。この映画、現在をモノクロームで過去をカラーで撮るというチャン・イーモウ「初恋のきた道」の手法をそのまま取り入れている。しかし、内容的にはまったくオリジナリティーあふれるものであり、「背筋がぴんとした、凛とした女の子を描いてみたかった」という監督の狙いは十分すぎるほど達成されている。

チーフ助監督を10年務めたという佐々部清のオーソドックスさはデビュー作の「陽はまた昇る」を見ても分かるが、オーソドックスさと同時に演歌体質が備わっているようだ。主人公の遠藤郁子(水谷妃里)と安大豪(淳評)が釜山で開かれた陸上競技会で出会い、1年後の再会を約束する序盤のシーンがやや生彩を欠くのはここが演歌ではないからだ。日本に帰った郁子の家族の描写が丹念に描かれ始めて、佐々部演出は絶好調になる。

郁子の父親(山本譲二)は流しの歌手。ちょうどカラオケが普及し始めたころで、流しの歌手は相手にされないことも多くなっている。家は貧しく、郁子は新聞配達で家計を助けている。仕事がうまくいかずに苛立つ父親は郁子が韓国の男と文通していることに怒りをぶちまける。「外人でも、なんでもええけどのお、朝鮮人だけは許さんど」。父親はあるスナックでカラオケの機械を壊したために店の男たちから袋だたきにされ、流しには欠かせないギターも壊される。消沈した父親を見た郁子は質流れのギターを買い、プレゼントする。

こういうエピソード、舞台が70年代だからこそ許せるのだと思う(考えてみれば、「陽はまた昇る」もまた、70年代の話だった)。郁子は安の母親から「息子に手紙を書くのは迷惑だ」との手紙と受け取り、陸上で大学に行くという夢もあきらめて練習に打ち込めなくなるが、そんな郁子に父親はポツリとこう言う。

「お前、進学するんやろが。陸上の練習、一生懸命頑張らんと…つまらんやないか。うちには金なんか無いんど」。

ダメな父親なりの励ましの言葉であり、郁子は安に再会するためではなく、自分のために陸上の練習を再開する。監督と同じく下関出身の山本譲二が素晴らしく良い。今年の助演男優賞候補の筆頭、という感じである。

佐々部清はこういうどこか使い古された感じのあるエピソードを真正面から撮り、逆に情感を高めることに成功している。細部の説得力が映画の支えであり、主演の2人の演技の硬さはマイナスにはならず、2人の純情さを強く印象づける。水谷妃里は陸上の走り高跳びの選手に見えるスマートなスタイルが良く、吹き替えもあるだろうが、メイキング映像を見ると、実際に背面跳びをやっている。他の3人の女生徒(上野樹里、桂亜沙美、三村恭代)も陸上選手としておかしくない。思春期らしい性の息吹も含めて描かれるこの4人の交流は映画の魅力の一つである。

70年代を彩るさまざまな歌謡曲も効果的に使われている。イルカの「なごり雪」、ピンクレディー「カルメン'77」、山口百恵「横須賀ストーリー」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、世良公則&ツイスト「あんたのバラード」などなど。中でもイルカの「なごり雪」は昨年の大林宣彦「なごり雪」の中で伊勢正三の歌が50男の感傷に満ちた響きを持って歌われたのに対して、少女の思いを伝えるものになっており、ハングルで歌う一番の歌詞は日本と韓国の近くて遠い当時の状況を描いた映画の背景とマッチしている。

冒頭と最後に描かれる現在のエピソードは、ここだけに限れば、少し幻滅だった「初恋のきた道」のそれよりも良くできている。結末の処理が難しい話だが、ストップモーションで余韻を持って終わらせていることに監督のセンスを感じる。

佐々部清はデビュー作を無難にこなした後、2作目でも確かな演出力を見せてくれた。こうなると、来年初頭に公開される第3作「半落ち」も楽しみになってくる。どうか、地に足の着いた描写のミステリに仕上げて欲しい。

【データ】2003年 1時間54分 配給:プレノンアッシュ
監督:佐々部清 プロデューサー:臼井正明 共同プロデューサー:志水俊太郎 脚本:佐々部清 撮影:坂江正明 音楽:加羽沢美濃 美術:若松孝市
出演:水谷妃里 上野樹里 桂亜沙美 三村恭代 淳評 高樹澪 谷川真理 竹井みどり 岡本舞 山本譲二 夏木マリ 金沢碧 田村三郎 イルカ 田山涼成 福士誠治 松本じゅん 呉和貞 金銀美 崔哲浩 江島潔 二家本辰己

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g@me.

「g@me.」パンフレット「ストックホルム・シンドローム(症候群)って聞いたことあるか。…じゃあ、吊り橋の恋って知っているか」。キスを迫る葛城樹理(仲間由紀恵)にたじたじとなって佐久間俊介(藤木直人)がこう話す。ストックホルム症候群とは言うまでもなく、人質と犯人(誘拐犯、立てこもり犯など)が長時間一緒にいるうちに親密な関係になることだ。この映画では、ふとしたことから狂言誘拐をする羽目になった男女がだんだん愛し合うようになる。このセリフの前に佐久間は病気の父親が自分を預かっている親戚に「すみません、すみません」と言いながら死んだ過去を話している。樹理もまた母親が亡くなったために母の愛人だった父親の家に居候している。樹理がキスを迫るのはどちらも同じような境遇にあり、共犯者意識が愛情に変わり、共感も加わってという単純なことでは実はないのだが、こういう背景をチラリと紹介してキャラクターに厚みを与えているのがうまいところで、この全編ゲームのような映画の中に一片の真実が立ち上がってくる。ストーリーが二転三転するという邦画では珍しく都会的なミステリ。それが必ずしもうまくいっていず、2時間ドラマ並みの描写に陥る部分があるにせよ、まず楽しめる作品に仕上がっている。仲間由紀恵の情感たっぷりの演技がとても良く、大女優になる素質ありと再確認した。

佐久間は広告代理店のやり手のクリエイター。ミカドビールの新商品キャンペーンで30億円を投じるコンサートを企画したが、ミカドビール副社長・葛城(石橋凌)の反対でキャンペーンは潰される。その夜、怒りにまかせて葛城邸に行った佐久間は塀から女が飛び降りるのを見る。女は葛城の娘樹理だった。樹理の母親は葛城の愛人で、樹理は母親が死んだために葛城に引き取られていた。義理の母も妹も樹理とは仲が悪く、樹理は家を出たいと考えていた。樹理は佐久間に「私を誘拐しない」と持ちかける。狂言誘拐で身代金3億円を要求しようというのだ。佐久間は誘拐計画を練り、フリーメールで脅迫状を出す。計画はうまくいき、3億円は手に入ったが、2人はいつの間にか恋に落ちていた。

ここから映画は二転三転していくが、基本にあるのは佐久間と樹理の関係である。「なぜ、一緒に逃げようって言ってくれないの」という樹理の願いに佐久間はこたえられない。若い男と駆け落ちした母親とみじめな父親を見て育った佐久間は、人生は勝つか負けるかのゲームだと考えており、誘拐計画を成功させるために私情を挟むわけにはいかないのだ。だから身代金を手に入れたら、警察に捕まらないために樹理とは別れ、二度と会うこともできない。という風な部分を映画はそれほど深く描いていないのが残念で、ここを描き込んだらもっと見応えのある映画になっていたのではないかと思う。ただ、観客を気持ちよく騙してくれて、ラブストーリーとしてもうまくまとめているところは評価できる。決着の付け方には異論もあるが、この映画の軽いタッチからすれば、まあ仕方ないだろう。

原作は東野圭吾「ゲームの名は誘拐」。監督は昨年、キワモノ的な題材「ミスター・ルーキー」を手堅くまとめた井坂聡。今回も演出に破綻は見られない。不遜な言い方になるが、この監督、侮れないなと思う。傑作と言い切れないもどかしさは残るけれど、まったく期待せずに見た作品に意外な面白さがあって嬉しくなった。

【データ】2003年 1時間52分 配給:東宝
監督:井坂聡 製作:亀山千広 島谷能成 遠谷信幸 武政克彦 エグゼクティブ・プロデューサー:関一由 宅間秋史 プロデューサー:小岩井宏悦 増田久雄 三田美奈子 原作:東野圭吾「ゲームの名は誘拐」 脚本:尾崎将也 音楽:松原憲 撮影:佐々木原保志 美術:阿部亙英
出演:藤木直人 仲間由紀恵 宇崎竜童 IZAM 石橋凌 入江雅人 ガッツ石松 小日向文世 生瀬勝久

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阿修羅のごとく

「阿修羅のごとく」パンフレット「人生は、時々晴れ」のマイク・リー監督が一直線に厳しい現実を見つめる手法であるなら、この映画はカリカチュアライズしたドラマの中に真実を込める。こちらの方が従来の映画の手法だろう。森田芳光監督は小手先の技術に走らずに手堅くまとめている。4姉妹のうち3女・滝子(深津絵里)の前半のエピソードのみ、相手役の中村獅童も含めて演技がオーバーすぎる感じだが、この部分は森田調を貫いたということか(中村獅童は「ピンポン」とはまったく異なるコミカルな面を見せておかしいけれど、僕は作りすぎの演技と思う。普通、ああいうタイプと結婚を考えるか?)。クスクス笑わせるエピソードの中に重たいセリフがあってとても面白く見たが、次から次にもめ事が起こる作りはいかにも毎週クライマックスを用意しなくてはいけないテレビドラマが基になっているなという感じがする。エピソードの羅列に終わった観もあって、全体として深い味わいを出すまでには至っていない。難しいところだが、エピソードのどれかを端折って、もっとメリハリを付けた方が良かったと思う。どのエピソードも等価な感じなのである。

時代は昭和54年。老いた父(仲代達矢)に愛人がいることが分かる、というのが騒動の発端で、久しぶりに集まった4姉妹は母(八千草薫)の耳には入れないようにしようと話し合う。映画はここから4姉妹のさまざまな事情を描き出す。長女綱子(大竹しのぶ)は料亭の主人(坂東三津五郎)と不倫中。次女巻子(黒木瞳)の夫(小林薫)は会社の部下(木村佳乃)と浮気中。潔癖性の3女滝子(深津絵里)は父の浮気調査を頼んだ興信所の勝又(中村獅道)とつきあい始めたところ。奔放な4女咲子(深田恭子)は新進のプロボクサー陣内(RIKIYA)と同棲している。これに滝子と咲子の子供時代からの確執が絡み、父の浮気にまったく気づかない様子の母の描写があり、父とその愛人(紺野美沙子)の描写もあって映画はホントに盛り沢山である。エピソードのほとんどが男女関係を描いているにもかかわらず、まったく生臭さを感じさせない作りもまた、基がテレビドラマであることを痛感させる。どろどろした部分を封じ込めて、あるいはチラリと覗かせるだけで、性を描くのはテクニックとしては高等なものだと思う。

冒頭の鏡開きのシーンから食事の場面がこれほど多い映画も珍しいが、ホームドラマなのだから当然か。向田邦子脚本のドラマではよく食事のシーンが出てきた。「寺内貫太郎一家」などは毎回、卓袱台をひっくり返すシーンがあったような印象がある。小津安二郎の映画を見れば分かるように、家族のドラマは冠婚葬祭のどれかに収斂させていくのが普通である。この映画も終盤に葬儀の場面があるので、ここで終わりかと思ったら、その後に咲子が万引をして店員から脅迫を受けるシーンが描かれる。これは滝子との和解に至るエピソードなので、必要なのは分かるのだが、葬儀の場面にまとめた方がスッキリしただろう。

出演者はそれぞれにうまい。大竹しのぶと不倫相手の妻桃井かおりの対決などは火花が散るようだし、小林薫は相変わらず飄々としていておかしい。4姉妹の中では夫の浮気を疑いながらも、信じたくない妻の揺れ動く気持ちをうまく表現した黒木瞳が良かった。実質的な主人公であり、単にきれいなだけの女優ではないことをこれで示したと思う。黒木瞳の娘役の長澤まさみにはあまり出番がなく残念。

時代設定は今から25年前だが、もっと前の昭和30年代のような雰囲気がある。恐らく日本のホームドラマは昭和30年代の家族の姿に原型があるのだろう。

【データ】2003年 2時間15分 配給:東宝
監督:森田芳光 製作:本間英行 製作統括:島谷能成 安水義郎 加藤春樹 古屋文明 原作:向田邦子 脚本:筒井ともみ 撮影:北信康 美術:山崎秀満 音楽:大島ミチル エンディングテーマ:ブリジット・フォンテーン「ラジオのように」
出演:大竹しのぶ 黒木瞳 深津絵里 深田恭子 小林薫 中村獅童 RIKIYA 坂東三津五郎 桃井かおり 木村佳乃 益岡徹 佐藤恒治 長澤まさみ 紺野美沙子 加藤治子(ナレーション) 八千草薫 仲代達矢

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ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」パンフレット一部マニアには評価の高い手塚昌明監督の3作目のゴジラ。手塚監督の1作目「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」は設定の斬新さに感心したが、ドラマ的には弱かった。2作目の「ゴジラ×メカゴジラ」もドラマの弱さがVFXの良さを減殺していた。今回も同じようなことになっている。しかも3作目となって、いささかマンネリじみた感じもある。ストーリーは前作からそのままつながっており(前作の主人公釈由美子が冒頭に出てくる)、これに43年前の「モスラ」の設定を加えてある。しかし、話が簡単すぎる。新機軸よりは安全パイを選んだ姿勢が垣間見えるのだ。金子修介「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」がなぜ面白かったのか、手塚監督はよく考えてみる必要があるだろう。

今回はメカゴジラ(機龍)の整備士・中條義人(金子昇)が主人公である。機龍は前作でのゴジラとの死闘で壊れ、修復作業中。中條の叔父(小泉博)は43年前、インファント島で小美人(ザ・ピーナッツですね)とモスラに遭遇した。その叔父の別荘に小美人(今回は長澤まさみと大塚ちひろ)が訪ねてくる。「人間がゴジラの骨から戦いの道具を作ったのは大きな間違いです。人間は神ではありません」と機龍の使用を止めるよう求め、機龍の代わりにモスラが戦うというのだ。やがてゴジラが海中から姿を現す。そして約束通りモスラも出現し、ゴジラと戦うが、圧倒的な強さのゴジラに歯が立たない。首相(中尾彬)は機龍の出動を命じ、東京でゴジラ、モスラ、機龍の死闘が始まる。

ゴジラのDNAから作られた機龍は前作でゴジラに共鳴し、暴走してしまった経緯がある。DNAから兵器を作ることの是非、その技術そのものの是非が前半には基調としてあるが、怪獣バトルが始まると、そんなテーマは消えてしまう。脚本の詰めが相変わらず甘いと思えるのはこういう部分。機龍の存在は核兵器と重なるし、自衛隊の在り方も現在のイラク情勢を思わせもする。こういう話を突き詰めていけば、なにもモスラを登場させなくても良かったのではないか。ゴジラとメカゴジラだけでは前作と同じになり、興行上の配慮として人気のあるモスラを登場させたのであろうことが見え見えだ。

VFXは着ぐるみ怪獣ものとしては水準的で、取り立てて見るべきところはない。僕はゴジラ映画にVFXを期待して見に行くわけではないからこれは構わない。要は話なのである。話の面白さがなければ、着ぐるみ怪獣映画は成立しない。話の面白さで着ぐるみが気にならないようなゴジラ映画を作ることに手塚昌明はもっと心を砕いた方がいい。

ゴジラ生誕50年の次作は「怪獣総進撃」みたいな映画になるらしい。明らかにこれも興行上の考えが先行した企画と言わねばなるまい。制約が多い中でそれをどう成立させるのか、どう面白い映画を作るのか、今回のような安易な発想ではダメだと思う。こちらの予想を裏切る映画になることを切に望む。

【データ】2003年 1時間31分 配給:東宝
監督:手塚昌明 製作:富山省吾 プロデューサー:山中和成 脚本:横谷昌宏 手塚昌明 撮影:関口芳則 美術:瀬下幸治 音楽:大島ミチル 特殊技術:浅田英一
出演:金子昇 吉岡美穂 虎牙光晴 長澤まさみ 大塚ちひろ 中原丈雄 上田耕一 益岡徹 升毅 清水紘治 高杉亘 小泉博 中尾彬

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