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2006年02月09日 [Thu]

[MOVIE] 「ミュンヘン」

「ミュンヘン」パンフレットInspired by Real Event.イスラエル政府は公式には暗殺チームの存在を認めていないので、この映画もまた細部はフィクションである。そしてフィクションとしてはとても面白い。古今東西のスパイ映画や殺し屋を描いた映画の中で出色の出来だと思う。モサドの兵士たちがベイルートのPLO幹部を襲う場面などはヤクザ映画を彷彿させ、見ているうちに戦争映画になる。後半、暗殺チームの存在が知られ、命を狙われることになって、主人公が部屋のベッドを切り裂いたり、電話やテレビを分解して爆弾を探す場面は「カンバセーション 盗聴」(1973年)で狂ったように盗聴器を探すジーン・ハックマンの姿を思い出した。フランスでチームにPLOの情報を教える一家の描写などは「ゴッドファーザー」のようだ。この映画はそうした過去の映画のあれやこれやを思い起こさせる。もちろん、スピルバーグの描写の技術は超一流なので、暗殺場面のリアルさ、サスペンスの醸成は抜かりがなく、2時間44分を一気に見せる。映画の面白さには何の文句もない。テロがテロを生み、報復の連鎖が終わらないという主張にもまた何の文句もない。

ただ、見ているうちにくすぶってくる不満は、テロの恐怖や無意味さを描くのなら、自分の国を取り上げてはどうか、ということだ。30年以上前の他国のテロに仮託して現在のテロの恐怖を描く方法は宇宙人の殺戮にテロを重ねた前作「宇宙戦争」と基本的には同じである。イスラム過激派とアメリカの対立の構図を元にして今を鋭く突く映画をスピルバーグは作るべきだった。そういうジャーナリスティックな視点がないので、現在に近いところで成立させた「亀も空を飛ぶ」のような衝撃をこの映画は持ちようがないし、結局、テロの恐怖が一般論に終わってしまう。一級のサスペンス映画になった完成度の高さに感心する一方で、そういう不満を抱いてしまう映画である。

1972年9月。ミュンヘン・オリンピックの選手村に「黒い9月」を名乗るパレスチナゲリラが侵入し、イスラエルの選手・役員11人を人質に取る。「黒い9月」はイスラエルに収監されているパレスチナ人の釈放を要求するが、イスラエル政府は拒否。当時の西ドイツ政府は犯行グループを国外に脱出させることで合意する。しかし空港で銃撃戦が始まり、人質11人は全員殺される。映画は冒頭でこの事件の概要を描いた後、イスラエル政府の報復を描く。ここからが本題である。政府は事件を首謀した11人のPLO幹部の暗殺を決定し、諜報機関モサドの中から5人の暗殺チームを組織する。リーダーのアヴナー(エリック・バナ)は妊娠7カ月の妻を残し、ヨーロッパに旅立つ。仲間は車両のスペシャリスト、スティーブ(ダニエル・クレイグ)、暗殺現場の後処理を担当するカール(キアラン・ハインズ)、爆弾製造のロバート(マチュー・カソビッツ)、文書偽造のハンス(ハンス・シジュラー)の4人。フランス人の情報屋ルイ(マチュー・アマルリック)から情報を買い、5人は次々に標的を始末していくが、やがて5人の存在は敵に知られ、チームは一人また一人と殺されていく。

最初の1人は銃で撃って倒すが、その後は爆弾で始末していく。爆弾を使うことでマスコミに取り上げられ、相手に恐怖を与えるために政府からもそう指示されているからだ。電話やテレビ、ベッドに仕掛けた爆弾での暗殺はそれぞれにサスペンスの仕掛けがあって面白い。イスラエルの選手がゲリラに顔を銃で撃たれて両方の頬に穴が開く描写や、撃たれた女殺し屋がしばらくして首の銃創から血をドクドクと噴き出す描写、腹に響く爆発音などなどリアルな場面がたくさんある。

こうした描写やサスペンスがあまりに面白いので「シンドラーのリスト」のような社会派の映画を見るつもりが、スパイ映画の傑作を見せられたような気分になる。スピルバーグの技術はそういう場面を的確に撮ることに長けているのだ。だから主題と内容の面白さとの間にアンビバレンツな気分が起こってきてしまう。「自分たちは高潔な民族じゃなかったのか」。メンバーの一人が言うように暗殺を続けていくうちにアヴナーの心にも迷いが起きる。1人を殺してもすぐに後任が出てくることで自分たちの使命に意味を見いだせなくなり、自分が殺されることの恐怖もわき上がってくる。そうした苦悩が描かれていくのは過去のヤクザ映画やギャング映画と同じ構図である。そうしたジャンルの中で「ミュンヘン」はトップクラスの面白さを誇っているのだけれど、テロとその報復を描いてそんな風な映画の在り方でいいのかという気分になってくる。スピルバーグの面白さを追求した技術はフィクションを描くにはとても有効だが、現実のテロを描くには向かないのではないか。現実から乖離したフィクションのようになってしまうのである。

付け加えておけば、パレスチナ自治評議会選挙でイスラム過激派のハマスが圧勝し、中東情勢が緊迫感を高めていることで、この映画は結果的にタイムリーになった。あくまでも結果的にであって、意図的にではないことが残念なのである。

「容疑者Xの献身」論争

ミステリマガジン3月号に二階堂黎人「『容疑者Xの献身』は本格か否か」、笠井潔「『容疑者Xの献身』は難易度の低い本格である」という文章がある。元々は二階堂黎人がホームページの日記(2005年11月28日から始まる)に書いたことが元になって、掲示板などで論争になっているらしい。二階堂黎人としては「今年の本格推理の収穫のように書いている書評」に対する反感から書いたことで、作品自体を貶めているわけではない。

別に本格推理小説かどうかということは作品自体の評価に影響を及ぼすものではないし、どうでもいいと思うが、本格ではないものを本格として褒める評論家と読者に我慢がならないということのようだ。僕は本格ミステリはあまり読んでいないので、1月2日の日記に「よくできた本格ミステリで1位にも異論はないが、ぜいたくを言えば、もっと石神のキャラクターを掘り下げた方が良かったと思う」と書いたけれど、これは名探偵対名犯人の構図で単純に本格ミステリと思ってしまったため。二階堂黎人の定義に従えば、確かに本格ではないのだろう。

ところが、笠井潔の文章では「一応のところ本格探偵小説である」と書いてある。誌上討論の形になっているが、笠井潔の文章は二階堂黎人の本格の定義に対する異論であり、「容疑者Xの献身」を擁護しているわけではなく、やはり「異様なまでの賞賛を集めている」ことへの異議申し立てである。作品自体への評価は笠井潔の方が厳しく、「適正に判断して初心者向けの水準だろう」としている。

言葉の定義の問題になってくると、論争としてはあまり面白くない。定義を厳密にすればするほど、そこから外れる作品は増えてくるだろう。おおまかな定義があればいいのではないかと思う。ただし、ある評者が「これはよくできた作品だが、○○ではない」とジャンルの定義を持ち出す時には暗に作品に対する非難も込められているものである。ジャンルの定義に従えば、それから外れた部分を非難することができる。これはSF界にもよくあって、スティーブン・キングなどはSFとは認めてもらっていない。というか、僕もSFとは思わない。

「容疑者Xの献身」に戻れば、この本の帯にある「純愛」という言葉に騙された人(そして読み終わっても純愛の部分に感動したままの人)も多かったのではないかと思う。「異常な純愛」「サイコな純愛」ではあっても、普通の純愛ではありませんね。ま、それも東野圭吾の責任ではなく、版元の責任なのだが。


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